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「売れなければただの趣味」厳しいフリーの世界 極貧生活も「何とか食える」は30代から 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<20>

産経ニュース / 2024年7月21日 10時0分

週刊文春編集部で報道カメラマンの今枝弘一氏や編集者の故・勝谷誠彦氏らと雑談中

《1986(昭和61)年2月、フィリピンで民衆運動が盛り上がり、マルコス体制が崩壊する「ピープルパワー革命」に発展した》

世界的な大ニュースでしたが、私はその前にオーストラリアに既に出張しており、お呼びがかかりませんでした。腐りましたね。あのときは芸能人カップルの決定的な写真を狙い、張り込みが続いていました。現場で聞くラジオのニュースはフィリピン一色。気になって仕方ありませんでした。

結婚間近でしたが「ここは勝負のとき」と考えました。悩んだ末、新婚旅行の休みを〝前借り〟し、フィリピンへ行きました。でも、結果は大失敗。事態が大きく動いたのが2月22日で、マルコス大統領夫妻の亡命はその3日後。現地入りが早過ぎ、決定的な写真は撮れませんでした。完全な読み間違いです。さらに現場でフライデーの先輩に借金をしたことがバレて「遊びで行ったお前がそんなばかを」と、一気に信用をなくしました。24歳のときです。

これがきっかけで自由の利かない専属カメラマンに限界を感じ、フリーになりました。生意気盛りでした。フィリピンには蓄えを切り崩して行き続けました。フリーになった後もフライデーの仕事をメインにしていましたが、それだけでは生活できません。あるとき、マニラの裁判所でベニグノ・アキノ氏の暗殺犯を射殺したとされる被告の法廷写真を撮る機会がありました。これがフライデーに相手にされず、売れたのは「フォーカス」(新潮社、休刊中)。ライバル誌に掲載された写真を見てフライデー編集部にあきれられ、以来、縁が切れました。

《専属カメラマンやフリーとして約4年間続いた、フライデーとの関係が終わった》

完全なフリーになったものの写真は全く売れません。また、「フライデー」という名刺がなくなった途端にできなくなった取材もあり、現実は厳しかったです。最後は仕事をしているのか、金を使っているだけなのか、分からなくなりました。そのせいで、プロ意識には目覚めました。「売れなければただの趣味」ですから。

蓄えはすぐに底をつきヒモ同然でした。「30歳までに写真集を出さないと大成しない」と焦っていた時期で、辞めるには早過ぎました。まともに生活できず「カメラマンを続けていいのか」と葛藤する毎日でした。そんな日々の中、最初の結婚生活は27歳で終わりました。悪いのは全て自分。今も前妻には合わせる顔がありません。離婚後、3年くらいは極貧生活でした。

《想像以上に厳しいフリーの世界。ひと息つけるようになったのは「週刊文春(文春)」への売り込みが始まりだった》

どん底から抜け出すきっかけは文春でした。先輩カメラマンの紹介で売り込みに行ったのが最初です。写真が主役のグラビアが24ページもあり、クオリティーも高く、以前から「ここで仕事ができれば」と願っていました。初めて採用されたのは鷹匠の企画だったのを覚えています。それを契機に仕事が入るようになりました。

ただ、フライデーが記者とカメラマンの「完全分業」に対し、文春のフリーは全て1人。写真だけでなく取材メモがないと誌面が作れません。また、フライデーの専属カメラマンは常に撮影依頼があって大忙しでしたが、文春は自分から働きかけないと仕事はきません。編集部に「現場へ行く」と告げても「いい写真が撮れたら」という程度でした。

文春の名刺を使って取材した以上、他の週刊誌に発表することは許されませんが、文春で取材した企画で他社から単行本を出したことは何度もあります。「何とか食える」と思えたのは30代になってから。前にも話しましたが、海上自衛隊のペルシャ湾派遣を文春の特派写真記者として取材、初めて「不肖・宮嶋」としてグラビアを飾ったころです。(聞き手 芹沢伸生)

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