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「もう一度空へ」果てしない夢 後継飛行船運航目指す ツェッペリン伯爵号飛来 いばらきの昭和100年(下)

産経ニュース / 2025年1月5日 12時20分

土浦市亀城プラザに展示されているツェッペリン号の20分の1の模型と堀越雄二さん=同市中央(三浦馨撮影)

時計の針を昭和4年8月へ巻き戻す。茨城県阿見の霞ケ浦海軍航空隊へ飛来したドイツの大型飛行船「ツェッペリン伯爵号」は5日間の滞在を経て23日午後、大勢の日本の人々に見送られながら太平洋上へ旅立つ。

米ロサンゼルスを経由し、29日朝、スタート地点だったレイクハーストへ着陸。総飛行距離3万キロを超える世界一周の偉業を成し遂げた。ドイツはこの快挙をたたえて記念硬貨(3マルク)を発行。だが、飛行船の輝かしい時代は8年後、あえなく終わりを迎える。

同じツェッペリン社が世に送り出したさらに巨大な最新鋭飛行船「ヒンデンブルク号」(全長245メートル)は1937(昭和12)年5月6日、レイクハーストへの着陸時に胴体後部から出火、炎上し、わずか34秒で燃え尽きる。乗員乗客97人のうち35人と、地上の作業員1人が犠牲となった。

船体の浮揚に可燃性の水素ガスを使っていたための惨事で、「飛行船は危険」という認識が世界中へ広まった。栄光の歴史を刻んだツェッペリン号も活躍の場を失い、その後ナチスの手で破壊されたとされる。

歴史を後世へ

ツェッペリン号が船体を休めた霞ケ浦海軍航空隊の格納庫も戦時中、武器製造に必要な金属資源として解体され、かつて日本中を沸かせた大型飛行船は戦後、忘れられた存在となった。

ツェッペリン号飛来の歴史を後世に伝えようと、資料収集などに乗り出したのが同県土浦市内の有志で作る「ツェッペリン研究会」。メンバーの1人が、少年時代にツェッペリン号に乗船した堀越(旧姓・荒川)恒二だった。

恒二は航空隊にゆかりの深い割烹「霞月楼」(現在は料亭)の養子に入り、会長となった。平成元年、土浦市を訪れたドイツの飛行船の生みの親、ツェッペリン伯爵の孫娘と対面。

「ツェッペリン号の中に丸刈りの日本の少年が立つ写真を持っている」と語る孫娘に、「それは僕です」と恒二。不思議な巡り合わせを2人で喜び合った。「自分にとってツェッペリン号は一生の思い出。もっと世に知らしめたい」と恒二は改めて決意した。

土浦市は平成2年に市制施行50周年を記念し、外国の友好都市選びを開始。恒二らはツェッペリン号が製造されたドイツのフリードリッヒスハーフェン市を推し、両市は同6年、正式に友好都市を締結した。

飛行船復活目指す

メンバーが高齢化した研究会に代わり、平成12年に発足。活動を引き継いだのが青年会議所の会員らによる「土浦ツェッペリン倶楽部」だ。同年には、「ツェッペリン号を広く知ってもらおう」とドイツから入手した設計図をもとに、20分の1の精巧な模型を制作し、一般公開した。

同16年には日本の民間会社によるツェッペリン号の後継飛行船「ツェッペリンNT号」(全長75メートル)の国内での運航が決定。翌17年、日本へ到着したNT号による試乗会に恒二も参加した。「筑波山の周辺も回ったようで、おやじは大喜びだった」。現在は倶楽部の会長を務める恒二の次男、雄二(75)=霞月楼専務=は回想する。

恒二はその3年後に86歳で死去。NT号は土浦市近郊で発着する遊覧飛行などで観光需要掘り起こしの目玉となるはずだったが、運航主体の会社が22年に破産。計画は幻に終わった。

4年後には、ツェッペリン号の飛来から100年の節目を迎える。「それまでにクラウドファンディングで資金を募り、飛行船(NT号)を買い戻し、もう一度運航させたい」と雄二は父親と同じく夢を追いかける。(文中敬称略、三浦馨)

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