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選択の果てで見つけた表現の道 障害者のパフォーマンス集団「態変」主宰、金滿里さん あの日から④

産経ニュース / 2025年1月4日 17時21分

抽象的な身体表現で織りなす「態変」の舞台は国内外から高い評価を受けている(前澤秀登氏撮影)

19歳のある日、突然かかってきた一本の電話が人生の光明となる。金滿里(キムマンリ)さん(71)は3歳でポリオに罹患(りかん)し、首から下の全身がまひした。重度障害者として施設の中で10年間もんもんと暮らした多感な10代の終わり。「まだ若いのに人生が真っ暗で先が見えへんなあ、と思っていたときの電話でした」。諦めることを強いられてきた日々の中で、自らの意思で人生を選択する道を初めて示してくれた、ある運動との出会いだった。

7~17歳まで施設で集団生活を送った。「歩けるようになりたくないのか」という職員の言葉に圧迫され、無理な歩行訓練も続けた。「ありのままを認めるのではなく、健常者に追いつく努力をしろということ。このままじゃ生きられへんねんな、と教え込まれた」

介護者である職員の顔色をうかがう毎日。あれがしたい、これがしたいという欲求は「それ自体あかんこと。全部諦めて我慢しろ、しかなかった」という。

それでも胸には「何かがおかしい」という思いがずっとあった。「ここ(施設)より広い世界が知りたい」と、周りの反対を押し切って高校に進学し、施設を退所。家族のサポートで高校生活を送っていた19歳のある日、施設時代の後輩から「私たちのグループの会合に来ないか」と誘いの電話がきた。脳性まひ者の団体「グループ・リボン」(後の「大阪青い芝の会」)との出会いだ。

健常者の価値観で障害者問題を考えるのではなく、障害者が自分の障害を自覚した上で、障害者の視点で考えようという運動体。「それまでなんとなくおかしいと感じてきたことに対して、言い返すための論理があったんだと、勇気りんりんになりました」と語る。

運動に邁進(まいしん)するため、高校を卒業した21歳の年に家族に頼らない他人介護の自立生活(1人暮らし)を始めたが、3年後に組織が内部分裂し、運動から抜けることに。すると介護者だった健常者が1人2人と去り、「運動せえへんかったら障害者はあかんのかと荒れてね。友達と飲み歩いたりディスコに行ったり、不良になりました」といたずらっぽく振り返る。

そんなとき訪れた転機が、友人の誘いで出かけた沖縄旅行だった。西表島のジャングルに車いすでたたずんだとき、大自然とそれを包む宇宙の大きさを初めて感じ、「急に『私、ひょっとしたら表現するかも』って思ったんです。不自由な体一つでここに転がるだけで表現になるやんって」。

それから3年半後の昭和58年、「劇団態変(たいへん)(現・態変)」を立ち上げた。車いすや補装具など、障害者の社会参加に必要な器具をかなぐり捨て、一部が欠損したり曲がったりした体の線があらわになるユニタード姿で、前衛的な抽象身体表現を行うパフォーマンス集団だ。

国内外で高く評価される態変の舞台は、障害者が不自由な身体を解放して自由に、挑発的に躍動している姿を目撃することで、健常者側も社会に縛られ抑圧された自身の心身の不自由さに気付くという、不思議な時間でもある。「社会の中で役に立つとか立たないとかとは違うところで存在している障害者の面白さに気付くことが、お互いに世界観が変わってええんちゃう」

自分の人生を生きようともがくことで、人の心を打つ「表現」という道を見つけた。「私は2つの道を迫られた場合、いつもしんどい方を選ぶんです。正しいことってきっと苦労する方だから」。19歳のときから変わらない信念を、今年の公演でも貫くつもりだ。(田中佐和)

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