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「孫明海」こと周英明氏と結婚 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<18>

産経ニュース / 2024年8月18日 10時0分

昭和42(1967)年ごろ

《後に夫となる周英明氏は昭和36(1961)年に来日し、国民党一党独裁に反対する台湾独立派の機関誌「台湾青年」にペンネームで小説を書き始めた。同じ年、留学生組織「中華民国留日同学会」の理事を決める選挙が行われた》

留日同学会は留学生の親睦を深める組織で、その理事を決める選挙の候補者は国民党側、独立運動側、どちらでもないグレーゾーンの3つに分かれていた。そして独立運動側とはっきり分かる人は全員落選する。留日同学会は実質、国民党の大使館の支配下だったからね。

トップ当選はグレーゾーンのなかで一番背が高くてハンサムな早稲田の大学院生でテニスをやっていた人。2位が許世楷(後に独立運動家。後年、台北駐日経済文化代表処代表)で、これもグレーゾーンのイケメン。選挙には見栄えというのが大事なんだと痛感した。

3位は同票が何人もいて、そこに周英明の名前があった。まだグレーゾーンとみられていたけど、実は選挙前、黄昭堂(後に台湾独立建国連盟主席)から「この人に投票を」と渡されたリストに周英明の名前があった。だから私は「この人は独立派なんだ」って分かっていた。

《周英明氏と知り合う》

東京大農学部の人が開いていた昭和史の勉強会があって、好奇心の塊だった私は東大生でもないのに参加していた。そこにゲストで周英明が講演したのが最初の顔合わせ。その後、留日同学会の食事会で周英明と同じテーブルになったとき、彼が話す内容が「台湾青年」でペンネーム「孫明海」が書いていた小説と同じだと気づくわけ。

みんなね、若くて、純粋で、不器用だからバレバレなのよ。それで彼に言った。「孫明海ってあなたでしょ」って。びっくり仰天の表情だったけど、肯定はしない。「台湾青年」に執筆していると分かったら、国民党ににらまれるからね。でも、彼の表情でバレバレ。純粋で不器用な人だなって思った。

周英明は当時、東大工学部の大学院生だったんだけど、ある集まりで「ユージン・オニールが…」って話し始めた。今度はこっちが驚いた。ユージン・オニールはアイルランド系米国人の劇作家。私は早稲田大の英文科で演劇史を専門としていたから、なんで工学部の人が知っているのって。

後で聞いたんだけど、周英明はもともと歴史や哲学が好きだったんだけど、文学部では食べていけないと言われて断念したみたい。台湾では優秀な人はみんな医学部だけど、彼は血を見るのが怖くて電気系の工学部を選んだという。私はどちらかといえばイケメンでダンスが上手な人が好みだったんだけど、不器用で純粋な、この知識の深い青年に惹(ひ)かれていった。

《周英明氏は東大の留日同学会の会長選で敗れた》

東大の留学生は左派が多く、どちらかといえば大陸の中華人民共和国寄り。で、台湾独立派の周英明は落選よ。ショックで話し相手がほしかったのか、いきなり電話がかかってきた。「これからどこかに出かけない」って言うから、出かけるのは面倒だからうちにこないって答えた。ちょうど一緒に住んでいた妹が帰郷していたから。

周英明は住んでいた留学生会館の近くにあった不二家に寄り、ケーキ持参でうちに来た。昼食を出してそろそろ帰るかなって思っていたけど、自分の話を理解してくれる女性がいることがうれしかったみたいで、いつの間にか夜になっていた。

私は食いしん坊だから、「おなかはすかないの?」って聞いたら、すいてないって。でも私はおなかがすいたからしようがなく、とっておきのカニ缶を開けてカニチャーハンを作って、2人で食べた。ずうずうしいなとは思ったけど、時間を忘れるほど彼の話は興味深かった。

その翌日ですよ。周英明から電話があり、「結婚を前提につきあってほしい」と。いきなりで、しかも電話だよ。でも「はい」って言っちゃった。(聞き手 大野正利)

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