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大河「光る君へ」で再注目 光源氏と紫の上の出会いを演出した歌の聖地「和歌の浦」の魅力

産経ニュース / 2024年10月6日 8時0分

奠供山に設置されたエレベーターを撮影した絵はがき(紀国堂提供)

和歌の聖地として知られる和歌山市の「和歌の浦」に724年、聖武天皇が行幸してから今年で1300年。地元では今月、記念行事を開催し、ゆかりの歌人を紹介する時代行列などを通じて和歌をめぐる歴史をひもとく。奈良、平安、そして明治へとその地に魅せられた人物は後を絶たず、風光明媚(めいび)な景勝地はやがて聖地となり、後世へと受け継がれてきた。

景観を後世に伝える詔

和歌の浦が広く知られるようになったきっかけは神亀元(724)年10月、即位したばかりの聖武天皇が奈良・平城京から玉津島(現在の和歌の浦)へ行幸したことだ。

紀の川沿いの道を3日かけて移動し、現地には13日間滞在した。玉津島にある奠供(てんぐ)山(高さ35メートル)の眺望に心を動かされ、「玉津島の神と景観を後世に守り伝える」ことを命じる詔が出された。

このとき同行していた歌人、山部赤人は「若の浦に潮満ちくれば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る(和歌の浦に潮が満ちて来ると潟がなくなるので、葦の生えている岸部を目指して鶴が鳴きながら飛んでいくことだ)」と玉津島をたたえた。この和歌は後に、万葉集に収録されている。

「聖地となった要因は、『わかのうら』という地名にある」と指摘するのは、梅花女子大の三木雅博教授だ。奈良時代から平安時代中期にかけては「若の浦」と表現されていたが、平安時代中期以降に「和歌」を意識した「和歌の浦」へ変化し、院政期のころには「和歌の聖地」とするイメージができあがったと考えられるという。

源氏物語にも登場

平安時代中期、和歌の浦にあこがれを持ち、実際に訪れて景観を称賛したのが文人貴族、藤原公任(きんとう)だ。当時の最高権力者だった道長と同年齢で、いとこの関係にあたる。身分が高いだけでなく、編纂(へんさん)した歌集で山部赤人の歌を取り上げるなどプロデューサーのような才能もあり、強い影響力があったとされる。

公任も道長もNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場しているが、長編小説「源氏物語」を書いた主人公の紫式部も和歌の浦の情報を得ていたと考えられる。「源氏物語」で主人公の光源氏がのちに妻となる紫の上と出会う場面では、和歌の浦を詠んだ歌を登場させている。

和歌の表現方法や技法は平安時代末期から鎌倉時代初期にピークを迎えたとされる。ただ、政治的な中心が武家に代わった鎌倉時代に和歌に関して学問的にアプローチした「歌道」が生まれたほか、武士にとっても和歌の素養は必要とされ続けた。

三木教授は「明治時代以降も文事に関心のある人々にとって、和歌の浦はあこがれの場所であり続けた」とみる。

和歌や文学が原動力に

現在も自治体の名称として使われる「和歌山」も、和歌の浦から来ている。天下統一を果たした豊臣秀吉は1585(天正13)年、紀伊半島北部を拠点とした本願寺門徒の集団「雑賀衆」らを治めるため、築城を命じた。城の名前は、和歌の浦からとって和歌山城としたという。

以後、紀伊半島は紀伊国のほか和歌山という名称でも表記されるようになり、明治の廃藩置県の際、正式に県名として採用された。

明治時代からは、和歌の浦は観光地としても知られるようになる。明治末、奠供山にエレベータが設置された。明治44年、講演のために訪れた夏目漱石も乗ったとみられ、小説「行人」ではエレベーターで奠供山に上る様子が描かれている。

「古来からの和歌や文学が原動力となり、その文化が現代まで受け継がれた例はほかに聞いたことがない」と三木教授。こうした歴史を広く伝えようと今月27日、地元では記念行事を予定。さまざまな時代の歌人を紹介する時代行列には、「光る君へ」で藤原公任役を演じる俳優、町田啓太さんらが参加する予定だ。(小泉一敏)

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