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安定を捨て挑戦を選んだ元「東大卒Jリーガー」 添田隆司・おこしやす京都AC社長の冒険 一聞百見

産経ニュース / 2024年6月28日 14時0分

史上2人目の東大卒Jリーガーとして藤枝MYFCでプレーした添田氏(本人提供)

京都市をホームタウンとし、関西サッカーリーグ2部(J6相当)からJリーグ入りを目指す「おこしやす京都AC」。令和3年の天皇杯2回戦でサンフレッチェ広島(J1)に5-1と大勝し、サッカーファンを驚かせたこのチームを社長として率いるのは史上2人目の東京大卒Jリーガー、添田隆司さん(31)だ。大手商社への就職という「エリート街道」を自ら蹴り、「安定ではなく、挑戦する生き方をしたかった」と選んだいばらの道。スポーツの価値をさらに広げようと社長という〝ピッチ〟で汗を流し続ける。

「東大に進学したからこそJリーグの世界を経験できたんだと思います」。平成27年、当時J3だった藤枝MYFC(静岡県藤枝市、現J2)への入団の経緯を聞くと、意外な答えが返ってきた。

日本初のプロサッカーリーグ誕生に国内が沸いた「Jリーグ元年」(5年)に生まれ、小学校入学前からサッカー教室に通った。進んだ中高一貫の進学校では学外のクラブチームに所属。全国大会に出場するレベルの高い環境にもまれ、サッカー漬けの日々を送った。

東大を目指したのは「受験勉強でどうせつらい思いをするなら最難関の大学を」との思いから。入学後はサッカー部に入部し、4年時には主将として活動するなど充実した4年間を過ごした。園児から始めたサッカー人生、充実のままに締めくくるはずだった。

転機が訪れたのは4年生の冬。既に大手商社へ入社が決まり、商社マンとしての新たな生活に胸を躍らせる中、藤枝MYFCから練習参加の誘いを受けた。当時の藤枝の社長が「東大生がレベルの高いサッカー環境だとどれだけ成長するか見てみたい」と、東大サッカー部の主将獲得を希望していたことが大きな理由だ。

複数の偶然が重なり参加が決まった練習で感じたのは想像以上のプロのレベルの高さ。「自分は最下位だな」と思い知らされたが、練習後、クラブ代表から選手兼職員として入団の打診を受けた。理由は「下手だけど下手過ぎなかったから」。決断までに与えられた期限は2週間、最終日まで葛藤した。

大手商社に内定し、明るい未来へのレールは敷かれていたはずだった。藤枝への入団は先が見えない世界へ飛び込むこととなる。重大な決断を前に約20年間の人生を振り返った。よぎったのは進学時のある悩みだった。高校では全国大会出場の実績がある強豪校に、大学でもプロを多く輩出する私立大にそれぞれ進む選択肢があった。

「サッカーがうまい人だけの中でやることへの恐怖感があった」

サッカーの実力だけでチャレンジすることを避けてきた。これまで通り安定した心地いい環境で生きるのか、それとも挑戦するのか。「前に向かって挑戦できるような人でありたい」との思いが突き動かした。

藤枝に入団を伝えるメールを最終回答期限の約5分前に送った。「人生最大の決断だった。私の人生の方向性はそこで決まった」。東大に進学していなければ開けなかったかもしれないサッカー選手への道。いよいよJリーガーとしての道が開けた。

「東大卒」に葛藤 見いだした光

27年、当時J3の藤枝MYFCに入団した添田さんだが、選手生活は順風満帆とはいえなかった。

「サッカーの世界で一番下手な状態で入ることが、どれだけつらいか身にしみて分かっていました」。入団前の練習参加から分かっていたレベルの差。入団後も「一番ヘボだった」と笑うが、独り歩きする東大卒の肩書と自らの実力の差に葛藤があった。

「東大卒Jリーガー」は周囲の注目を集め、地元のテレビ局が密着し、入団からデビューまでを追いかけた特集番組も作られた。しかし、ピッチで結果を出しているわけではない。「今思うとプロの考え方ではないですが、『できる限り放っておいてほしい』と思っていました」

選手兼クラブ職員として午前は練習、午後は9時まで仕事をする生活を送り、週末は試合準備のため看板運びをすることも。シーズン1年目は8試合に出場したが、翌年の出場試合はゼロ。3年目の途中でチームを去り、アミティエSC京都(現・おこしやす京都AC)に移籍する。

そんな生活の中でも、未来を切り開く手がかりがあった。地域貢献活動の一環で放課後の学童保育を訪れると、子供たちは笑顔で迎えてくれた。一緒におやつを食べたり、サッカーをしたり。どうやったらうまくなるか質問攻めにもあった。大活躍していたわけではないが、即席のサイン会を開くと長蛇の列ができた。「僕みたいな選手でも喜んでくれる」。Jリーガーという立場だからこそできた経験。自らが「ローカルヒーロー」になれた瞬間だった。

「スーパースターの存在も必要だが、身近で関わることができるローカルヒーローのような存在も地域には求められている」。名は知られていなくても近い距離で接することで子供たちに目標や喜びを与えられる存在になれる。子供たちの笑顔に「地域スポーツの役割」を確信した。

こうした選手時代の経験は若手選手と向き合う立場となった今、実感をもって伝えることができるという。

大手商社への内定を辞退し、自らの意志で挑戦したJリーガーへの道。選手として目立った結果は出せなかったが、下した決断に悔いはない。「あの挑戦があったからこそ、今もさまざまなことに挑戦できている。いい決断をした」

29年、サッカー選手としての生活に区切りをつけ引退。翌30年、名前を変えたおこしやす京都ACの社長に就任した。「チームを上げていく(昇格させる)ことにJリーグでの経験を使いたい」。当時25歳の若さで新たなステージに挑む決断をした。

「サッカー経済圏」で恩返し

新たに歩み始めたおこしやす京都ACの社長としての道。添田さんは「イメージが全くない中でのスタートでした」と手探りでの始動を振り返る。

忘れられない試合がある。29年、おこしやす京都ACの前身チームに移籍し、選手としてプレーした最後のシーズン。あと1勝でJFL昇格を逃し、「これまでの経験を今度はチームの昇格に使いたい」と誓った。選手を続ける道もあったが、裏方としてチームを支えることが最大の貢献だと考えた。

選手がチームの社長となる例は少なくない。「ミスターセレッソ」と称され、日本代表として活躍し、セレッソ大阪(J1)を社長として率いる森島寛晃氏らが著名だ。そうした存在と比べ、アマチュア契約だった添田氏。「選手としての経歴は圧倒的に違うが、サッカーという事業の可能性を選手目線でも体感できた」との手応えは大きかったという。

おこしやす京都ACはチームのビジョンに「サッカー経済圏」を据える。サッカーの場を飛び越え、地域社会で人の交流の中心となることを目指している。クラブの活動から生まれるスポンサーや地域の人とのつながりをクラブを媒介して、さらに広げ、日常生活で接点のない人々との出会いを生む。

こうして地域社会の新たなコミュニティーを創出することが、クラブの目指す地域社会への役割であり、スポーツが生む新たな価値だと信じているからだ。

きっかけは原点ともいえる藤枝MYFC時代にある。スポンサー訪問や試合の集客のため、数多くの地元企業や児童施設などに足を運んだ。特に、多くの中小企業の経営者の自由な発想や行動力に感銘を受けたことを覚えている。

「すごい価値観を持った人が地域にもいる。こんな人たちが集まればすごいことになる」

地域社会が持つ可能性に期待が膨らんだ。学童保育で出会った子供たちの笑顔やチームを応援する高齢者など、サッカークラブという存在が生む人のつながりの幅の大きさにも気づかされた。そうした経験から生まれた「サッカー経済圏」という概念。これこそが地域スポーツの持つ価値であり、その価値を広く浸透させるべくいそしむ。

社長としてクラブ運営に携わり6年。結果の出ない時期もあり、苦しんだこともあったが、「最高の恩返しができた」と振り返る経験もできた。令和3年の天皇杯、当時5部相当だったチームは、J1サンフレッチェ広島を5-1で下し、史上最大ともいわれる「ジャイアントキリング(大番狂わせ)」を起こした。喜んでくれたスポンサー企業や地域の人々。クラブの地域への浸透を身をもって感じる瞬間に「これまでやってきたことが間違いではなかった」と胸をなでおろした。

東大を経て、たどりついた経営者の道。「スポーツが単なる娯楽ではなく、人の暮らしが豊かになる『心のインフラ』として不可欠なものにしたい」。身をもって体験したスポーツが持つ可能性を信じ、その価値をさらに高めていく。

そえだ・たかし 平成5年、東京都生まれ。東京大経済学部卒。東大では4年時にサッカー部主将としてチームを率いた。在学中、大手商社に内定するも27年、練習参加を機に藤枝MYFCへ入団。3季所属し、J通算計10試合出場した。29年、おこしやす京都ACの前身、アミティエSC京都に移籍し同年、現役引退。翌30年、おこしやす京都ACの社長に就任した。

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