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党首公選主張で共産党「除名処分」の松竹伸幸さん 最高裁まで覚悟の法廷闘争と党の現状 一聞百見

産経ニュース / 2024年7月5日 14時0分

レーニン全集が並べられた自宅で差し出された名刺には「私は共産党員だ」という一文が書かれていた。差し出し主はジャーナリストの松竹伸幸さん(69)。昨年、日本共産党に党首公選制の導入を呼びかける著作を出版し、その後、党から除名処分になった。

党を相手に、除名処分は無効で、自分がまだ党員であることを認めさせるという裁判が東京地裁で係争中だ。冒頭の名刺はこの裁判のためにつくったものだという。6月20日の第1回口頭弁論で党側は訴えの棄却を求めたが、訴訟はまだ始まったばかり。「最高裁まで続くでしょうね」と遠くを見据える。

大学2年生だった昭和49年7月に入党して以降、一貫して党員だった。党本部での勤務歴もあり、政策委員会安保外交部長という要職を務めた経験もある。退職後は、出版社で編集の仕事に携わりながらも党員としての活動は続けていた。「党費も納めていたし、支部の会議にも毎回出席していましたしね」と笑う。

状況が一変したのは、昨年1月19日、「シン・日本共産党宣言」(文春新書)の出版だった。副題は「ヒラ党員が党首公選を求め立候補する理由」。

「すべての指導機関は、選挙によってつくられる」とある党規約第三条を理由に、党首選を実施し、野党共闘の壁となっている安全保障問題についての議論を国民に公開する。そのことを通じて共産党への抵抗感を和らげる-という趣旨だった。

現役党員からの刺激的な申し入れに思えたが、それに反発する党の動きは迅速だった。出版から2週間後の2月2日には党の調査が入り、5日には党京都南地区常任委員会が除名を決定、翌6日に党京都府委員会がそれを承認し、公表した。

志位和夫委員長(当時)は9日、処分の理由を「党内の正式のルートで表明することをしないまま、外から党を攻撃したからだ」と説明。攻撃の内容として「日米安保条約堅持、自衛隊合憲という党綱領に反する主張を公然と行った」と主張した。

一連の動きを「あっという間だった」と振り返り、「6日には日本記者クラブでの会見が予定されていましたから。党員を名乗って会見することは許さないということだったんじゃないんですかね」と苦笑しながら話す。

党が規約を改定した平成12年以降、刑事事件に関与したとして除名されたケースはあったが、「政治的な意見の違いで除名したケースはないはず。一般的な覚悟はあったけれども、実際に除名されるとまでは思わなかった」。

志位氏の主張についてはこう反論する。

「志位氏は『党が参加する政権としては、自衛隊と共存する時期は合憲とする』としている。安保条約についても同じく『日本有事の際には条約に基づいて対応する』としている」

そのうえで続けた。「私と志位氏の違いはさほど変わらないはず。それなのに私を除名するというのはおかしな話だということになる」

著作の「はじめに」に「異なる意見を外部に表明したからといって処分されるほど、日本共産党は抑圧的な組織ではない」と記した。今となっては何ともむなしい一文となった。

学生寮委員長に推薦 学生時代から「右も左も」

長崎県にある炭鉱島で生まれたが、すぐに炭鉱が閉鎖し、島を出たため、島の思い出はあまりない。家族で上京したが、仕事が見つからず、親戚が多く住む神戸市で暮らすことになった。暮らしぶりは貧しかったというが、中学、高校と卓球部で活躍するなど、どこにでもいる普通の生徒だった。

「政治に触れた一番古い思い出は小学校5年生の頃でしょうか」

クラスの担任教師と交換日記のようなことをする中で、一番好きな政党は(当時の)社会党で日本共産党はあまりよくないというようなことを書いた。教師からの反応は特になかったが、母親から「共産党は貧しい人のために頑張っている政党なのになんてことを書くんだ」と叱られたことをよく覚えているという。

実は父親も元共産党員。旧ソ連が介入し、党が分裂した「50年問題」の時に生活苦もあり離党した。昭和48年に一橋大に入学したのは、「銀行か商社に入って親の安定した生活にちょっとでも寄与できれば」という思いからだったというが、その父からは党で世話になった人を多く紹介され、結果的に自身の入党につながることとなった。「ずいぶん後になってからですが、『あなたが銀行に入った夢を見た』と母親に言われたことがあります」と笑う。

大学では中高で親しんだ卓球には見向きもせず、「手当目当てに」学生寮自治会の委員となったが、「この学生寮というのが非常に特殊でしたね」と振り返る。

一橋大の学生寮のOBには元東京都知事の故石原慎太郎氏がおり、自治会の委員長選挙には石原系と呼ばれる委員が立候補するなどその影響力は絶大なもの。委員長が石原氏にあいさつに行くという風習もあったそう。当時、共産党に近い日本民主青年同盟(民青同盟)は最盛期を過ぎており、「委員長選挙に民青系はほぼ勝てませんでした」と話す。

学生運動自体が下火となる時代だったが、「政治問題に関心があった」とデモには参加した。最終電車を乗り過ごし、深夜喫茶で「民青に入れ」と約1年間オルグ(勧誘)を受けたことを覚えているという。

さて、自身も後に寮委員長になる。「どちらから出たんですか」と問うと「石原系も民青系も私を推薦したんです。選挙自体がなくなりました」。そのころの石原氏は自民党の若手衆院議員の筆頭格で、タカ派集団「青嵐(せいらん)会」を組織するなど注目を集めていた。石原氏へのあいさつは、「誘われた記憶がないから行っていない」という。

党退職後、防衛関係者や有識者からなる任意団体をつくり、活発な議論を行っている。護憲の立場から防衛政策を打ち出すことについて、当初は驚きをもって受け止められたが、大学時代の寮委員長選挙の経験から、「昔から右も左も一緒にやるみたいな感じだったのかなと思うんです」と穏やかに話す。

共産党が果たす役割 模索

日本共産党本部の政策委員会安保外交部長を務めた経歴からもわかる通り、外交や安全保障、自衛隊などについて、護憲派としての立場から学び、党の機関紙などにも多くの論文を書いてきた。

その論文を巡り、思い出深いのが不破哲三元議長とのやりとりだという。

外交でも安全保障でも、さまざまな問題が発生したら、それに関して学び、論文を書いてきた。

「不破さんはそれらをすぐ読んで、ばーっと電話をしてくるんですよ。『これはおもしろかったね』みたいなこともいうし、もちろん批判を加えてくることもある。私はなにくそと思って、その批判に応えるようなものを書くために努力する」

そのやりとりで、ある理論が発展していくことを不破元議長自らが楽しんでいるという感覚があったと懐かし気に振り返る。

だが、今は違うという。

「『党幹部が書いたものは党を代表するものと思われるのだから、トップが言うことと一言一句違うことを書いてはならない』というような空気ができあがっている。それは今回の除名につながっているのではないか」

そう嘆息するが、今回の除名について、地方議員や一般党員など党の活動を一番足元で支えている人たちからは批判の声が上がった。

今年1月の党大会直前、現役党員ら7人が匿名で記者会見をし、除名の撤回を求め(匿名党員らによる会見は計3回行われた)、直後の党大会では神奈川県議が除名を批判した。一般党員が公の場で執行部に意見を具申するのは極めて異例だ。県議に対しては、その党大会で志位和夫氏から委員長の座を引き継いだ田村智子氏が強い口調で批判、「パワハラではないか」と指摘されるおまけもついた。

「どうしたらいいのかという先行きが見えず、共産党の活動に行き詰まりを感じている党員や、このままではいけないと感じている党員は多いのだと思う」

党では上意下達を可能にすると批判される民主集中制が重んじられ、党員同士の横の連携も「分派活動」として批判されることも多い。しかし交流サイト(SNS)などを利用して、党員同士が相互につながることも可能になった。

「今の状況は必然的に起きているんじゃないかなと思いますよね」と話す。

ただ、党の未来をあきらめているわけではない。党の外に出て、さまざまな人と話していくなかで、「自分の当選のことではなく、党をどうしていくのかということをまじめに考えている議員は共産党と自民党にしかいない」と思い至った。「まだ、共産党が大事な役割を果たせることはある」と意気込む。

6月に始まった訴訟の訴状には「除名処分を受け、(中略)党首に立候補できなくなった」という一文がある。「復党がかなえば党首選挙に出ますか」との問いには「もちろんです」と笑顔で応じた。

まつたけ・のぶゆき ジャーナリスト。昭和30年、長崎県生まれ。一橋大卒。全学連委員長、民青同盟国際部長などを経て、日本共産党政策委員会安保外交部長を歴任し、平成18年に退職。現在はかもがわ出版編集主幹。『シン・日本共産党宣言』の出版に伴い党から除名され、地位確認を求めて東京地裁で係争中。続編にあたる『私は共産党員だ!』が第1回口頭弁論が開かれた6月20日に発売された。

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