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大大阪から輝き続ける大動脈 御堂筋 昭和100年 まちの今昔

産経ニュース / 2024年12月26日 11時0分

来年は「昭和100年」。社会インフラから地域を代表するスポットまで、昭和は現代に続くまちの基礎が形作られた時代でもある。関西各地のさまざまなスポットの今昔を見ながら、まちの未来を展望する。

大阪の歴史を語る上で欠くことのできないのが「大大阪」時代。大正から昭和にかけ人口211万人を超え、東京市(当時)を上回る日本一の大都市に発展、輝きを放った。その大阪の近代化を象徴する存在が御堂筋だ。キタから中之島を抜けミナミへ至る約4キロの道程は、まちの発展と歩調を合わせてきた。「大阪人の熱い息吹」が聞こえてくる。

■幅はたった6㍍

御堂筋を難波から北上する。にぎやかな道頓堀界隈(かいわい)を抜けると、有名ブランド店が目立つ心斎橋。本町近辺から重厚なビルが並ぶビジネス街へと変わる。大阪のメインストリートは表情豊かだ。

しかし、100年以上前の御堂筋は違っていた。幅約6メートル、長さ約1・3キロ。狭く、短い道だった。

変化の端緒は大大阪時代の到来だ。明治維新以降、産業都市として成長した大阪市は人口増に伴い、新たな都市改造に迫られた。

音頭をとったのは第7代市長、関一(せきはじめ)。市役所の移転で中之島に大阪の重心が移動したのを機に、御堂筋の〝巨大化〟に乗り出す。

大正15(1926)年に着手し、11年後の昭和12年に完成。道幅は44メートルになる。沿道にはモダンなビルが連なり、先行開業した地下鉄(梅田-心斎橋間)は市民の行動範囲を広げた。

「無秩序な発展を防ぐための都市計画だった。粘り強く沿道住民を説得し、拡幅地を確保した」と大阪歴史博物館の学芸員、阿部文和さん。「飛行場でも作る気か」と渋る住民を口説くため、昭和天皇行幸にちなんで「御幸通り」に改称する案まであったというエピソードも残る。

「道頓堀で芝居、心斎橋で買い物や食事を楽しむ。新しいライフスタイルが広がる時代」になった。

財界人の心意気

御堂筋を挟んで東西に細長くのびる「中之島」。長さ約3キロ、最大幅約300メートルの狭隘(きょうあい)地が大阪の中核に変貌したのは明治以降だ。

「天下の台所」といわれた「大坂」では米市場に近い中之島に諸藩の蔵屋敷が立ち並んでいた。その大きな敷地の存在が中之島に近代化をもたらす。

「それまで中心地だった船場は小さな家屋、商店が密集し、大規模改造は難しかった。大阪に緑が少ないのもそのため。中之島に公園ができたのは広い土地があったから」と大阪観光ボランティアガイド協会の松原繁さん。「お気に入りの建築物」という赤レンガの大阪市中央公会堂や意匠をこらした大阪府立中之島図書館には「巨額の建設資金を寄付した大阪の財界人たちの心意気を感じる」とたたえ、さらにこう語った。「(その後)御堂筋を中心に都市計画を進めた関市長は大阪中興の祖です」

「人」中心の道へ

現在、御堂筋の南側では6車線のうち、東西の側道2車線を歩道にする工事が進行中だ。大阪市などは完成から80周年の平成29年、「御堂筋将来ビジョン」をまとめた。その中で打ち出したのが「世界最新モデルとなる、人中心のストリートへ」の推進。迫る大阪・関西万博に間に合わせるため、難波から北へ約1キロの歩道化工事が続く。

大空襲に耐え、戦後大阪復興の礎にもなった御堂筋の建物の多くは、瀟洒(しょうしゃ)な高層ビルへと姿を変えた。

それでも梅田から難波まで900本を超えるイチョウ並木は今も季節感を演出してくれる。来月末まで行われているイベント「光の饗宴」では、ライトアップされた御堂筋のきらめきが冬の夜を彩っている。

御堂筋は13年後の完成100周年に向け、フルモール(全面歩道)化が構想されている。「課題は多い」(大阪市建設局)が、御堂筋の未来が大阪を輝かせる-と期待したい。(河合洋成)

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