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小林一三の夢 阪急の職業野球団結成 計画が「漏れ」阪神の後に 昭和100年だヨ 全品集合 阪急ブレーブス編

産経ニュース / 2024年11月29日 10時30分

「阪急編」の最終章は『阪急ブレーブス』。テーマを《思い出せ!》にしようと思った。ところが、友人から「思い出すもなにも、阪急ブレーブスを知らない人が多くなったんやない?」との指摘。昭和63年のシーズンオフ、オリエント・リース(現オリックス)に電撃譲渡して以来、今年で36年がたつ。確かにその通りだ。そこで《知ってほしい!》の思いを込めて阪急ブレーブスを綴ってみよう。

日本にプロ野球、いわゆる「日本職業野球連盟」が読売新聞の総帥、正力松太郎の呼びかけで発足したのは昭和11年2月5日だった。初年度の加盟は7球団。結成順に並べると―(カッコ内は球団名。=以下は母体企業)。

①大日本東京野球倶楽部(東京巨人)=読売新聞

②大阪野球倶楽部(大阪タイガース)=阪神電鉄

③大日本野球連盟名古屋協会(名古屋)=新愛知新聞

④東京野球協会(東京セネタース)=旧西武鉄道

⑤大阪阪急野球協会(阪急)=阪急電鉄

⑥大日本野球連盟東京協会(大東京)=国民新聞

⑦名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱)=名古屋新聞

連盟総裁には大隈信常(重信の養嗣子)、相談役に正力松太郎と阪急電鉄会長の小林一三が就任した。実はこの結成順にドラマが隠れている。

小林一三が《日本でプロ野球連盟ができる》の一報を聞いたのは10年10月25日、米国視察中のワシントンでのこと。大阪毎日新聞社の支局長が同社専務からの電報を手に小林が滞在するホテルにやってきた。

当時のことを一三は日記『日々是好日』の中でこう綴っている。

「十月廿五日 金 快晴 大毎の支局長来訪。本社からの電報によれば『阪神が職業野球団を編成することに決まったが、阪急もそれを実行するならば、出来る丈、大毎は尽力するから』という御注意であった。阪急がかねがね計画して土地も買収契約済の西宮北口にグラウンドを作り、職業野球団を設けるといふ方針が漏れたのではあるまいか。それが為に阪神が急に着手したものとすれば、阪急としても今更内密にしても仕方ないと思ふから、副社長に電報した」

その電報が『大毎に相談して北口運動場併に職業野球団設置 至急計画願ひ渡し、返事待つ』である。

このときの一三の胸中は複雑だったという。実は「職業野球リーグ」構想は一三のかねてからの「夢」。大正時代、関東大震災で瀕死(ひんし)の状態となった職業野球チーム「日本運動協会」を助け、「宝塚運動協会」を設立。さらに昭和8年には東西の各電鉄会社に「電鉄リーグ」結成を働きかけたが、各社の合意が得られず、「夢」実現がお預けとなっていた。

そんな状況下での一報。同じ夢を描いていた正力に先は越されても、なぜ、ライバルの阪神電鉄に後れを取ったのか。実はこれが正力の作戦だった。ある関係者はこう解説した。

「正力さんが阪神より先に阪急に声をかければ《なんでウチが阪急の後なんや》と阪神はヘソを曲げて参加しなくなる。阪急は後に回っても参加する。どちらも参加させたい正力さんの作戦です」。なるほど!

前身の大阪阪急野球協会

小林会長の指令を受けてチーム編成に奔走したのは、阪急百貨店洋家具売り場に勤務していた村上実、当時29歳。慶応大出身で野球部マネジャーを務め、同輩に宮武三郎、山下実、後輩に水原茂ら慶大黄金期を築いたメンバーがいた。

「会長が帰国される来年(昭和11年)2月までに目鼻をつけよ」という上司の命令に村上は文字通り奔走した。まず、宮武に白羽の矢を立てた。

宮武は高松商時代から「四国の麒麟児」といわれ、慶大では7シーズンで優勝4回、2位3回と慶大全盛期を担った大エース。投げるだけでなく打者でも主軸を務め、通算打率・304、7本塁打は昭和32年に立教大の長嶋茂雄が8本と更新するまで、26年間も破られぬ大記録だった。まさに《二刀流》の元祖のような選手だ。

さっそく東京で会うと「もう東京セネタースと5年間1万8000円で契約した」という。だが、よーく話を聞くとまだ、契約書に署名捺印していないことが分かった。「それなら」と村上は頭を擦りつけ、阪急という企業のことや小林一三の発想の素晴らしさ、チーム作りのポリシーを熱く語った。そして宮武の後援者にも事情を説明。ついに契約に漕ぎつけた。

宮武は「阪急軍」の契約1号。初代主将を務め、背番号「1」を付けた。彼が投手だったからでも、希望したからでもなく、1番に契約したから。単純な理由だ。以降の選手も同じ。こうして11年1月23日、「大阪阪急野球協会」は発足した。本拠地は宝塚球場。監督は慶大出身で9年に発足した「大日本東京野球倶楽部」監督を務めた三宅大輔が就任した。

真新しいユニホームは白地で首から胸にかけ、赤と紺のラインが入っており、胸には「ブラックレター書体」のアルファベット一文字。なかなかに格好いい。チームのモットーは「清廉かつ華麗」。

ところで「ブレーブス」になったのは? それは戦後のこと。「第2話」で―。

5カ月で完成した西宮球場

西宮球場(兵庫県西宮市)が完成したのは昭和12年4月30日。「竹中工務店」は昼夜兼行の突貫工事でなんと5カ月で建てた。両翼91メートル、中堅120メートル、5万5000人収容の大球場。地上9階建てで外装はクリーム色。「白亜の球場」と呼ばれた。

組み立て式の競輪バンクを設置すると競輪場としても稼働した。入場料は一般席50銭(特別席1円)、制服学生と軍人は半額で婦人と子供は無料だった。

小林一三氏の構想では、球場内に料理教室やカルチャー教室、ゴルフ練習場などを入れた「総合レジャー球場」にする予定だった。だが、米国視察中で指示がうまく伝わらず、一三が帰国した時には、やり直すことができないほど建設が進んでいたという。(田所龍一)

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