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激しい摩耗、よくぞ遺った阿弥陀立像 大津・聖衆来迎寺石棺仏 石仏は語る

産経ニュース / 2024年8月24日 15時0分

寺伝によれば、延暦9(790)年、最澄がこの地に地蔵菩薩を祀(まつ)る寺院を建立し、地蔵教院と称しました。長保3(1001)年には比叡山横川(よかわ)恵心院の恵心僧都源信が修行に入り、浄土念仏の道場として改称したのが聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の起源と伝えます。

正式名の紫雲山聖衆来迎寺の本尊は阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来です。天台宗は、法華経を根本経典として天台教学、戒律、禅、密教、念仏などを広く修学し実践する宗派ですが、聖衆来迎寺は浄土信仰の色彩が濃い寺院となります。寺名の「聖衆来迎」とは、衆生が臨終の際に西方極楽浄土から阿弥陀如来と諸々の菩薩が現れて往生する者を迎えに来るという意味になります。

境内の仮堂に安置されている阿弥陀如来三尊石棺仏は、その石材の高さが約145センチ、幅は約110センチ、厚さは約15センチを測る花崗(かこう)岩製石棺蓋裏を利用しています。中尊には阿弥陀如来の大きな舟形光背を刻んでおり、下部には半円状の蓮華(れんげ)座台として、浮き彫りの像高約80センチの来迎阿弥陀立像が刻まれています。脇侍は左側に舟形光背に浮き彫りの観音菩薩を刻み、腰をかがめた中腰の早来迎の姿です。右側の舟形光背に浮き彫りの勢至菩薩は、合掌され、腰をかがめた中腰の早来迎の姿となります。その下部、阿弥陀如来の蓮華座脇両側には、合掌する二体の小座像が刻まれており、供養する夫婦を表現しているとみられます。このような様式から、鎌倉時代後期の造作とみられています。阿弥陀三尊石棺仏は全体的に摩耗が激しく、あるいは引きずられた痕跡なのか、像容など風化している状態がみられますが、よく遺(のこ)されています。

このほか、山内墓地には鎌倉時代中期の笠塔婆2基が遺っており、笠塔婆南塔には「建長五(1253)年癸丑八月廿八日」銘が記されています。各面上部には、月輪内に梵字種子のある金剛界四仏とみられる特徴的な塔婆資料があります。(地域歴史民俗考古研究所所長 辻尾榮市)

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