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「阪急と阪神どっちがいい?」 背番号でタテジマ振った米田 灰色を黄金に変えた勇者たち 昭和100年だヨ 全品集合 阪急ブレーブス編

産経ニュース / 2024年12月3日 10時30分

「阪急ブレーブス」の最終話は『勇者列伝』だ。どんなにすごい選手だったのか―ではなく、どんな人物だったのかをテーマにつづってみる。例えば「ドラフトに惑わされた長池徳二」「1度は阪神の練習に参加した米田哲也」「ヨネカジってなに?」「福本豊に『フクさん先に行って』と言った加藤秀司の心」などなど。さあて、誰から始めようか―。

阪急ブレーブスには《ヨネカジ》という言葉がある。昭和30~40年代の阪急を支えた大投手、右の米田哲也とサウスポーの梶本隆夫(故人)のことだ。学年は梶本の方が2つ上だった。

梶本は阪急にこれといったスター選手もおらず、強くもなければ弱くもない「灰色の阪急」と呼ばれた時代、昭和29年に岐阜県の多治見工高から入団した。大きくゆったりとしたフォームから投げ込む速球はプロのスカウトたちから注目されていた。

まだドラフトのない自由競争の時代。梶本は阪急、中日、巨人の3球団に誘われた。阪急の契約金の提示額は50万円、中日は120万円、巨人は200万円。なぜ、一番安い阪急を選んだのだろう。

「高い給料をもらってもしダメだったら申し訳ない」という母の言葉に従ったという。中学生のころに父を亡くし、女手ひとつで育ててくれた母の思いに沿うことが梶本の親孝行だったのだ。18歳の梶本は開幕投手に抜擢(ばってき)され勝利すると、1年目に20勝12敗の好成績を挙げた。

時がたち54年、梶本は辞任した上田利治監督の後を受け、2年間「監督」を務めた。だが成績は2位、5位。すると55年オフ、自らが上田氏に電話をかけ「ウエさん、阪急を立て直せるのはあなたしかおらん。ユニホームを着る気があるんなら、もう一度、一緒にやろう」と監督復帰を説得したのである。

後年、ブレーブスの担当となった筆者は「なぜ?」と聞いた。梶本氏にもプライドがあったはず…。

「そんなもん関係ない。阪急をなんとかしたかった。ワシにはできんかった。やるべき人がやる。それだけや。そういうこっちゃ」と笑顔で筆者の肩をポンポンとたたいた。カジさんとはそんな人であった。

ヨネさんこと米田哲也は31年に阪急に入団した。鳥取県の境高のエース。伸びのある速球に加え、シュートやカーブも投げていた。1年生のときに一目ぼれした阪急のスカウトは3年の夏の大会が終わるのを待って入団交渉。本人、家族同席で契約を交わし、連盟へ登録した。

ところが阪急入りに後援者たち(阪神ファンが多かった)が大反対。「哲也を阪神に!」と家族を説得、なんと阪神と契約を結ばせてしまったのだ。

年が明けて1月、甲子園球場での合同練習にタイガースのユニホーム(背番号41)を着て参加した米田は「同じプロの世界に入るなら人気のあるチームがいい」とニッコリ。だが、阪急も黙ってはいなかった。この〝二重契約騒動〟をコミッショナーに提訴したのである。

31年2月13日、裁定が下った。「米田君の契約は阪神、阪急ともに対面契約であり書類にも不備はない。しかし、阪急の方が早い時期に結んでいる。これは優先しなければいけない」。裁定の前にコミッショナーは「君はどちらに行きたい?」と聞いたという。

後年、筆者は米田氏に「あれだけ阪神の方がいいと言ってたのに、なんで阪急を選んだんですか?」と尋ねた。

「背番号や。阪神は41、阪急はエース番号の18を用意してくれてたんや。俺も子供やったからな」

もし、阪神がもっといい番号を用意していたら…。34年に入団する2代目ミスタータイガースの村山実と2人で《ヨネムラ》になっていたかも…。(田所龍一)

「花の44年組」3人衆

プロ野球界に《花の44年組》という言葉がある。昭和43年のドラフト会議で指名されてプロ入りした選手をたたえる言葉だ。この年のドラフトは空前絶後の大豊作だった。

各球団のドラフト1位は阪神・田淵幸一捕手、中日・星野仙一投手、広島・山本浩司外野手、西鉄・東尾修投手…。阪急のドラ1は山田久志投手、そして2位で加藤秀司内野手、7位で福本豊外野手が入団した。当時のことを加藤秀さんはこう振り返った。

「ほんまに死ぬほど練習したなぁ。冗談やなく練習してて気を失いそうになるんやから。こんな練習についていったら絶対に潰れると思った」

加藤さんは、同じ松下電器に所属していた福本さんに「フクさん先行って。オレはゆっくり行くから」と宣言した。実は加藤は自分がプロで通用するとは思っていなかった。41年に東映、42年に南海の指名を断ったのもそのため。

だが、ある日、会社の先輩に言われた。「おまえ、プロへ行く気がないんなら、野球やめて仕事に専念しろ。ほかの連中から遅れるぞ」。加藤はもう少し野球をやりたかった。

「プロでひと旗なんてとんでもない。3年やったらやめるつもりやった。だから入団交渉で『記念にええ背番号ください』というて10番をもろたんよ」

3年どころか、加藤さんは阪急―広島―近鉄―巨人―南海と渡り歩き、19年間も選手を続けたのである。

ドラ1長池「南海とちゃうの?」

昭和40年11月17日、記念すべき第1回「ドラフト会議」が開催された。阪急の1位指名は法大の長池徳二外野手。この指名に本人は「えっ、南海とちゃうの?」と驚いた。

というのも36年の秋のある日、徳島県の実家に南海の鶴岡一人監督が訪ねてきた。その年のセンバツ大会に撫養高のエースとして出場した長池に会いにきたという。そして南海の入団テストを受けた。結果は不合格。

「モノになるまで時間がかかる。4年間遊ぶつもりで大学へ行ってこい」と鶴岡監督の母校・法大に進学。鶴岡の指示で「打者」に転向した長池は3年生の秋のリーグ戦で首位打者に輝くなど大きく成長した。

「必死に練習したよ。鶴岡さんに打者として認めてもらわなきゃ、南海入りもなくなるから」

もし、この年からドラフトが導入されていなかったら「南海の長池」だったかも。

アニマルくんはシャイな奴

ブレーブスには優秀な外国人選手が多くいた。スペンサー、マルカーノ、ウィリアムス、身長2メートルのブーマー…。そんな中で好きだったのはアニマル・レスリー。

筆者が担当になった昭和61年に入団してきた。マウンドで「ウオオオォ」と雄たけびをあげ、「ナイスピッチ」と駆け寄った藤田捕手へマスク越しのパンチ一発。すぐに人気者になった。

だが、実際はシャイでかわいい男。「グラウンドで暴れるのは照れ隠しや。ホンマは気の優しい男でな、登板前に緊張して震えているのをよう見たよ」と上田監督。平成25年4月腎不全で急逝した。

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