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「私のこと〇か☓か」 信任投票騒動でチーム一丸 西本幸雄監督、球団創設32年目の初優勝 昭和100年だヨ 全品集合 阪急ブレーブス編

産経ニュース / 2024年12月2日 10時30分

「阪急ブレーブス」には2人の名将がいる。西本幸雄監督は昭和38年から11年間で球団初優勝を含む5度のリーグ優勝を果たした。だが、巨人との日本シリーズには1度も勝てなかったことから、「悲運の将」と呼ばれた。もう一人がその西本監督を継いで49年から采配を振るった上田利治監督。こちらも5度のリーグ優勝。そして3年連続の日本一に輝いた。ここでは「強いブレーブス」の基礎を作った西本監督にスポットを当ててみよう。

今は亡き2人の名将だが、筆者は幸いにも生前に親交があった。西本氏が近鉄の監督を勇退し、スポーツニッポンの野球評論家だったころ、記者席が隣り合わせだった。「監督の横に座って、よう野球を教えてもらえ」と先輩に紹介されたのがきっかけ。西本氏は他社の若造記者に野球のいろはを教えてくれた。

そんな《西本先生》にある日、こんな質問をした。

「監督は阪急時代にホンマに《信任投票》させたんですか? 何でですか?」

「お前、ようそんな聞きにくいことをズバリと聞くなぁ」と渋い表情をしながらも当時の話をしてくれた。

37年オフ、阪急は3年間の不成績(4位、5位、4位)の責任をとって戸倉勝城監督が辞任。後任にコーチだった西本氏が昇格した。新監督は球団にはびこっていた《悪》を一掃しようと思ったという。悪とは?

「練習に身を入れない。幹部の方針に逆らう。自分のことしか考えない選手のこっちゃ」

だが、うまくいかなかった。38年最下位、39年2位、40年4位、41年は5位。選手の造反もますますひどくなった。

キャンプの練習も勝手に休む。シーズン中「弱いチームが練習するのは当たり前や」と移動日の練習を指示しても「アホらしい」と途中で帰る選手も現れた。その選手を自宅に招いて酒盛りをする球団幹部も…。そんなときベテラン記者が西本監督にこう告げた。

「あんたのことを信頼している選手はおらんよ」。そんなアホな!

西本監督はすぐに行動を起こした。41年10月14日、秋季練習を前にコーチ、選手約50人を西宮球場2階の会議室に集め「来季、私についてくる気がある者は〇、ない者は×と書いてくれ」。これが《信任投票》事件である。

結果は×が7票と白票4票で「不信任」が11人。立ち上がった西本監督は「これからやっていく自信がなくなった。辞めさせてもらいたい」と宣言。会場は騒然となった。

西本監督の辞意は固い。だが、小林米三オーナー(阪急電鉄創業者、小林一三の三男)は突っぱねた。

「私は阪急の監督は西本君以外に考えていません。私の気持ちは変わらない」

この言葉に西本監督はわれに返った。

「これほどまでに私を…と感激したな。投票という行動にでた自分が恥ずかしくなった」

小林オーナーは「信任投票などをやれば、われわれでもある程度、不信任票が出る。だからといって社長をやめてしまえば社員はどうなりますか。11票の不信任票など問題ではない。雨降って地固まる―です」と笑って西本監督の手を取ったという。

《信任投票》事件を機に「ブレーブス」は一丸となった。翌42年、勇者たちは燃えた。西鉄と首位争いを演じ、なんと8月12日に優勝マジック「38」が点灯。

10月1日、東映戦ダブルヘッダー、西京極球場には2万人近い観衆がつめかけた。第1試合を足立―石井―米田の継投で10-6で勝利。第2試合に勝つか、大阪球場での南海―西鉄戦で西鉄が負ければ…。

七回、阪急の攻撃が始まろうとしたとき、一塁側スタンドの阪急ファンが歓声を上げて立ち上がった。西鉄が負けた。この時点で球団創設32年目での初優勝が決まったのである。

八回が終わったところで審判が「日没コールドゲーム」を宣告するや、一斉にファンがグラウンドへなだれ込み、選手たちと一緒に西本監督を胴上げだ。ネット裏では小林オーナーがこみ上げる熱い思いを語った。

「電車もかわいいが球団もかわいい。阪急には70人以上の子供(系列会社)がおります。親の情として出来の悪い子ほど余計にかわいいもんです。お金のかかる道楽息子でした。もう球団なんて…と思ったこともおます。でもそのたびに、父の顔が浮かんでねぇ。もう少し辛抱しようと思ったんです」

誰よりも早く「職業野球」を夢見た小林一三へささげる初優勝だった。(田所龍一)

強いのに客が来ない

若い選手を手塩にかけて育て上げるのが西本監督なら、上田監督は若い選手を「ええで!ええで!」と褒め上げ、乗せて使うタイプ。勝つことに非情になれる監督だった。西本監督は非情になり切れない監督だったかもしれない。

2人に共通していたのは、観客を呼べないこと? 「阪急ブレーブス」は強いのになぜか人気がなかった。いや、人気はあるのになぜか球場にファンが来なかったのだ。

西本監督が昭和48年限りでの勇退を表明したとき「わしが監督しとったらお客が入らんからのう」とポツリ。上田監督も試合開始直前にベンチ前に立ってスタンドを見回し「きょうも入ってへんのう」というのが日課のようになっていた。「すばらしい選手がおるのに」と筆者も不思議だった。

最初は「ベアーズ」

昭和20年8月15日の終戦から3カ月あまりの11月23日に「プロ野球」は復活した。神宮球場で日本職業野球連盟の「復興記念東西対抗戦」が行われた。

翌21年には8球団によるリーグ戦が開幕。22年になると「大リーグのようにニックネームを付けよう」という機運が高まり、各チームがニックネームをつけたり球団名を変更したり。

東京巨人=読売ジャイアンツ▽東京セネタース=東急フライヤーズ▽パシフィック=太陽ロビンス▽近畿グレートリング=南海ホークス▽中部日本=中部日本ドラゴンズ▽ゴールドスター=金星スターズ。

そして阪急も「たくましい力」「愛される球団」をめざし《阪急ベアーズ》と命名した。ところがオープン戦に入っても一向に元気が出ない。すると電鉄本社の幹部から「ベアは証券用語で〝弱気〟の意味がある」との指摘。縁起でもない―と批判が殺到。そこで一般公募を行い、シーズン開幕日の4月18日に「ブレーブス」(勇者たち)を採用したのである。

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