【話の肖像画】コメディアン・小松政夫(4)伊東四朗と一時代を築く

産経ニュース / 2017年10月13日 10時7分

バラエティー番組で活躍。人気コメディアンに(昭和53年)(産経新聞)

 芸名が「小松政夫」に決まる前、他にも候補がありました。ひとつは「どん・たくお」。クレージーキャッツの犬塚弘さんが、ボクの故郷の博多どんたくから付けてくれたんです。もうひとつは外国帰りの怪しげな美容師役名から取った「ジェームス本堂」。2つともなかなかいいなと思っていたけど、親父(おやじ)さん(植木等)に相談すると一喝されました。「将来、大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな恥ずかしい名前で出られるか」と言うんですよ。結局、姓名判断までしてもらい、親父さんが付けてくれたのが「小松政夫」。封筒の中に墨字の達筆でその名前が書いてある。親父さんは、覚えやすいし語呂も画数もいい、とご満悦でしたが、ボクはコメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのかなぁ、って(苦笑)。

 〈コメディアンとして人気が沸騰したのは1970年代半ば。伊東四朗との掛け合いでヒットした「電線音頭」や「しらけ鳥音頭」、「小松の親分」などのギャグやキャラクターで一時代を築く〉

 伊東さんとのコンビは、テレビの生放送番組が最初でした。ホン(台本)通りきっちりやる人で、反対にボクはいいかげんでアドリブが多い。互いに火花を散らしながら、違う面をうまく広げられたのが良かったのかもしれませんね。伊東さんは天才的ですが、変わり者だと思う。あるときそう言ったら、「おいおい、奇人(小松のこと)に変人といわれたくないよ」だって(苦笑)。1つのコントを考えて練りに練って、演出家らスタッフの前でやってみせるんです。それでOKとなったら大道具、小道具を用意する。今じゃ、そんな稽古はやらないでしょ。

 〈小松が上り坂を駆け上っているころ、師匠の植木の人気にはかげりが見え始めていた。年に4本もあった主演映画は次第に減り、やがてゼロに。テレビの出演もなくなり、マネジャーが仕事を持ちかけてもプライドが邪魔して断ることもあった〉

 ふらっと親父さんの家に寄ってみたら、親父さんが「最近はヒマでテレビばかり見てるんだ。お前(小松)の活躍を見てパワーをもらっているんだ。オレももう一花咲かせないといけないな」なんて言うんですよ。トイレに入ってひとり泣きました。親父さんが吹っ切れたのは、映画「新・喜びも悲しみも幾歳月」(昭和61年)に出演して多くの賞を取ったときじゃないでしょうか。主役じゃなくても脇でもいい。そこでいい仕事をすればいいんだ、と。

 〈植木は個性派俳優として存在感を発揮。平成に入ってから「スーダラ伝説」をヒットさせ、紅白にも出場。“スタイル”も変わってゆく〉

 親父さんは真面目だから、文句ひとつ言うにも慎重に考え抜いてから言う人なんです。「オレは間違ってないよな」って。それが黒澤明監督の「乱」(60年)に出たときは、誰も文句を言えない巨匠に向かってはっきりと意見した。共演者からも喜ばれたそうです。「70歳になったらもう、言いたいことを言うぞ」って宣言してましたよ。

 ボクのことは、ずっと気に掛けてくれていました。どんなに忙しくても体力的にキツくても、親父さんの付き人として超ハードな日々を送った経験があるからやれるんです。親父さんが「(小松は)ここまで来るのに血へどを吐くほどの努力をしたんだ」って言っているのを聞いたときは本当にうれしかったな。(聞き手 喜多由浩)

産経ニュース

トピックスRSS

ランキング