【昭和天皇の87年】軍服を着た11歳の皇太子 だが本心は「博物博士になりたい」

産経ニュース / 2018年9月15日 7時1分

画=豊嶋哲志

帝王教育(1)

 大正元年10月10日、裕仁親王は《この日初めて軍刀を携えられ、東宮武官西義一の奉仕にて、陸軍正式礼(刀礼)の稽古を行われる。翌日も陸軍正式礼の稽古を行われる》(昭和天皇実録3巻190頁)

 明治天皇の崩御により嘉仁皇太子が即位し(大正天皇)、同時に皇太子となった裕仁親王は、規定により陸海軍の少尉に任官。大正天皇から大勲位に叙された。以後は皇太子として、陸海軍の公務も務めるようになる。

 10月25日《(裕仁皇太子は)陸軍通常礼装に大勲位副章を御佩用になり、陸軍大臣上原勇作・教育総監浅田信興に謁を賜う。ついで海軍服にお召替えの上、同じく同副章を御佩用になり、海軍大臣斎藤実に謁を賜う》(3巻193頁)

 11月10日《第一艦隊へ行啓され、皇太子の御資格による初めての御乗艦式、並びに第一艦隊附御赴任布達式に臨まれる。(乗艦した御召艦の)平戸に皇太子旗が掲揚され、所在各艦は平戸に倣い一斉に満艦飾をなし、皇礼砲を行う》(3巻196頁)

 およそ2年前に韓国が併合され、半年前には中国の清朝が崩壊するという、アジア激動の時代だ。裕仁皇太子が袖を通した軍服のプレゼンスは、日本を超えてアジア諸地域で高まりつつあった。

 とはいえまだ11歳。雍仁(やすひと)親王によれば、陸海軍の正装をまとい、勲章を佩用した裕仁皇太子は、「ちょうどおもちゃの兵隊といった感じ」だったという。

 「しかし僕(雍仁親王)には、まだはっきりと皇太子という意味がわからなかったものとみえる。それで崩御後まもないころ、兄上に、『おにい様、皇太子殿下には、御結婚遊ばすと、おなりになるのでしょう』と、話しかけた。父上の場合を頭に描いて、皇太子は夫婦でなければならないとでも思ったのであろう。と、そばにいた弟(宣仁親王)は、『オニイサマ、ゴケッコンッテ、ナーニ? ニワトリナノ?』と。まさに傑作の落し話である」

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 皇太子になるまでは、雍仁親王と宣仁親王と、兄弟3人いつも一緒だった。弟思いの長男、兄思いの次男、まだ幼く無邪気な三男-。3人は寝食をともにし、家には笑いが絶えなかった。

 しかし、これからは違う。専属の東宮職員が世話をするようになり、馬車も弟たちとは別々に乗るようになった。これまで周囲から迪宮(みちのみや)さま、皇孫さまと呼ばれていたのが、「皇太子殿下」に変わった。

 そして、その日がきた。

 大正元年12月31日《御避寒のため熱海御用邸に行啓される。なお同日、雍仁親王・宣仁親王は沼津御用邸に御避寒になり、本日を以て両親王と御別居になる》(3巻203頁)

 雍仁親王が述懐する。

 「いつかは来るべきものではあったにしろ、その時が、いつであろうなどとは考えたこともなかったのだから、さびしさこの上もないものがあった。僕の方は二人だからまだよいとして、一人ぼっちになる兄上は、言葉以上につらいものがあられたに相違ない。いくら悔んでも、愚痴をこぼしても甲斐のないことだが、明治天皇のおなくなりになったことを恨まないではいられなかった」

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 翌年3月25日、熱海御用邸から戻った裕仁皇太子は東京・高輪の東宮仮御所に移り住んだ。赤穂浪士が切腹した場所、肥後細川家の下屋敷跡地に建てられたもので、敷地総面積11万4000平方メートル。和風2階建ての御座所のほか、西洋館、図書館、雨天体操場などもあった。

 だが、雍仁親王や宣仁親王のいる東京・青山の皇子仮御殿とは離れている。

 公務などの事務を行う東宮大夫は大審院判事や司法相を歴任した波多野敬直、東宮武官長は山根一貫、東宮侍従は本多正復や甘露寺受長ら。彼らは、裕仁皇太子の生活環境の激変を気遣い、兄弟で昼食をとるなどの機会を積極的につくったようだ。

 同年5月1日には、東宮仮御所と皇子仮御殿を結ぶ卓上電話が設置され、《これより毎夕十分程度、(雍仁親王や宣仁親王と)電話にて話されることとなる》(4巻29頁)。

 新たな“御相手”もできた。

 4月27日《天皇よりキクと名づけられた犬(グレーハウンド種)を賜わる。御帰殿後、キクをお相手に過ごされる》(4巻28頁)

 中にはこんな“珍客”も。

 7月6日《蟻地獄を御採集になり、これ以降約二十日間、御自身にて餌をお集めになり、御飼養になる》(4巻38頁)

 だが、長年生活を共にした兄弟に勝るものはない。

 10月7日《東宮武官長山根一貫に謁を賜う。その折、来る十一日に、近衛歩兵第一聯隊へ行啓されたき旨の言上を受けられる。しかるに同日は雍仁親王・宣仁親王との御対面を恒例とする土曜日であることを涙ながらに訴えられ、土曜日以外への変更を求められる》(4巻58頁)

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 ところでこの年(大正2年)、裕仁皇太子は初等学科6学年。学習院生活も残りわずかだ。その間、心身ともに急速に成長し、趣味や興味の対象も広がった。

 昭和天皇実録によれば、外国の地理や政情にも関心を持ち始め、辛亥革命後の中国の内乱状態について、侍医から経緯を聞いたりしている。

 読書量も増えた。《特に『世界名君伝』を熱心にお読みになる》と、昭和天皇実録に記されている(4巻45頁)。

 中でも一段と興味を示したのが、理科的分野だ。

 2年12月16日《雪の結晶を顕微鏡にて御観察になり、雪を用いた生卵の凍結実験をされる》(4巻71頁)

 3年1月4日《天皇・皇后より御年玉として、排気機・ハートル氏光線屈折装置・エックス光線装置・手動起電機等の理科実験器械を賜わり、この日より連日の如く、これらの理科実験器械にて理科実験を行われる》(4巻75頁)

 ある日、裕仁皇太子は側近に打ち明けた。

 「博物博士になりたい」

 むろん、自ら職業を選べる立場でないことは分かっている。それでもあふれる理科への情熱を、誰かに話さないではいられなかったのだろうか。

 大正3年4月2日、学習院初等学科卒業-。翌5月から、本格的な帝王学を修業すべく、新設の東宮御学問所に進学する。

 同所の総裁として裕仁皇太子を待っていたのは、日本海海戦の英雄、東郷平八郎だった--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

○宮内庁編『昭和天皇実録』3、4巻

○秩父宮雍仁親王著『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版)

○久松定孝謹話「思ひ出のいろいろ」(田中光顕監修『聖上御盛徳録』所収)

○秩父宮雍仁親王インタビュー「肉親としての天皇陛下」(柳沢健著『御殿場清話』所収)

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