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「歌舞伎揚」ができるまで 会津若松へ丁稚奉公に出るはずが東京で一念発起 生みの親のいくつかの決断が結実

食品新聞 / 2024年7月20日 20時2分

 米菓のロングセラーブランド「歌舞伎揚」は、3月20日に88歳で永眠した天乃屋会長・齊藤孝喜(こうき)のいくつかの決断が実を結んだものとなる。

 孝喜は1936年(昭和11年)、福島県南会津郡下郷町(しもごうまち)に生を享ける。中学卒業後、会津若松にある床屋に丁稚奉公が決まり、電車で奉公先へ向かうも、会津若松駅を乗り過ごし上野駅に降り立った。これが最初の決断となる。

 東京で一旗揚げるべく、自転車の荷台に一斗缶を乗せ、仕入れた甘納豆を世田谷区の住宅地界隈で売り歩く。このとき同業の齊藤龍雄と毎日のように顔を合わせていたよしみで、1953年(昭和28年)、ともに立ち上げたのが甘納豆の製造卸・有限会社天乃屋となる。

1953年(昭和28年)に甘納豆の製造卸・有限会社天乃屋を設立

 世田谷区に本社工場を構え、甘納豆を製造から販売まで一貫して手掛けるようになる。
 この時、龍雄30歳、孝喜17歳。本社工場は龍雄の自宅を改装して建てられたもので、孝喜はここに住み込み龍雄の家族のように働く。
 この自宅兼工場には、当時3歳になる龍雄の娘がいて、高校卒業したのちに龍雄の強い薦めもあり、孝喜と結ばれることとなる。孝喜は龍雄とは義理の親子になり、旧姓の荒井から齊藤へと姓を変更する。

 なお天乃屋の創業年は、龍雄が東京都新宿区で甘納豆の卸売を開始した1951年(昭和26年)と定められる。初代社長が龍雄。孝喜は二代目社長となる。

 会社を立ち上げた戦後復興期(1950年~54年)は、菓子の種類も現在ほど豊富ではなく、甘納豆は、かりんとうと並んで、人々に楽しみを与える貴重な菓子とされた。だが、その後、日本経済の急成長とともに多様な菓子が発売されるにつれ、天乃屋では甘納豆の販売は徐々に下火になっていく。

齊藤龍雄氏(右)と齊藤孝喜氏

 一年の中でも特に需要が低迷する夏場。ある日、孝喜が犬の散歩に出かけると、モクモクと煙を吐き出しながら従業員が忙しそうに働いている工場に出くわす。
 煙とともに漂うおいしそうな香りに惹かれ、休憩に入る従業員をつかまえて質すと、ここが揚げせんべいの工場であり、揚げせんべいが売れに売れていることを知る。

 思い切って製法を尋ねると「釜の中に油を入れて生地を揚げる」との返答が得られる。その後、せんべいをおいしそうにほおばる人たちの姿を目の当たりにして米菓業界への転換を決意する。

 だが、米菓づくりは一筋縄ではいかなかった。孝喜が見よう見まねで始めたせんべい作りは失敗の連続で、失敗したせんべいを味噌汁に入れて食べる日々が続く。

1960年代、配送トラックの前に立つ齊藤孝喜氏

 大きく立ちはだかったのが生地の乾燥。“二次乾燥”と呼ばれる工程で、仕入れた生地を揚げる前に一度乾燥させる必要がある。その際、水分量の調整が上手くいかないと、揚げたときに生地が膨らまず固くなってしまう。

 1960年(昭和35年)、揚げせんべいの製造開始から6年後に「歌舞伎揚」の開発に成功する。

 味づけにも決断の跡がにじむ。当時の揚げせんべい市場は、生醤油だけをかけた味づけが主流であった。その中で孝喜は、甘納豆の経験から「甘いもののほうが受け入れられる」と判断。砂糖と調味料を混ぜて秘伝のタレをつくり、そのタレで付加価値化を図り他の揚げせんべいよりも高値で販売した。

「歌舞伎揚」の由来については、歌舞伎と米菓の両方の伝統文化を伝えるべく命名されたとされる。歌舞伎は開発当時の流行り言葉であり、庶民的でありながらも重厚感が付与できるとの思惑もあったと推察される。

社員旅行の様子

 「歌舞伎揚」を世に送り出すとともに、孝喜は今の発展につながる英断を下す。いち早く登録商標の取得に動き出したのだった。

 調べると名古屋の飴屋が菓子全般で歌舞伎の登録商標を取得していたことが判明。その飴屋に頼み込み、米菓の部分だけを買い取る形で譲り受けることとなる。

 米菓で歌舞伎の登録商標を取得し、2000年代に入ると、歌舞伎揚の登録商標も認められる。販売は軌道に乗り、スーパーマーケットの勃興にともない、一斗缶で出荷し店頭でバラ売りしていたやり方から、袋入りに変え、やがて顧客ニーズに合わせて現在の個包装タイプへ進化を遂げる。

「歌舞伎揚」製造の様子

 販売増にともない生産体制も拡充。生地は、岩手県にある企業の生地を使用していたことから、1972年(昭和47年)、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)に、同企業が新設した生地工場に隣接して岩手工場・営業所を設立。

 孝喜の故郷・福島県にも工場を設立。当初は浪江町に建設を予定していたが、着工に入ると遺跡が発掘されたことから、契約上、町に土地を買い戻される。
 1976年(昭和51年)、福島県矢吹町に新設した工場は、生地づくりから一貫して製造する工場となる。

 1984年(昭和59年)には、龍雄が会長に、孝喜が社長に就任。

齊藤孝喜氏お気に入りの場所である東京工場の敷地内にある直売店

 販売がさらに上向くと、岩手工場・営業所も手狭になり、1991年(平成3年)、前沢町(現奥州市前沢区)に新築移転。後継の問題を抱えていた岩手県の協力生地企業も、依頼を受けて買い取ることとなり、事実上、岩手県でも生地が内製化される。

 1986年(昭和61年)に小ロット生産可能型の東京工場が完成し、1996年(平成8年)には本社を東京都武蔵村山市に移転。福島工場は2019年(令和元年)、福島県西白河郡矢吹町中畑に新築移転し矢吹工場と改称する。

 「歌舞伎揚」は直近の10年間余でも大きく伸長し、天乃屋の売上げの約3分の1を支える屋台骨へと成長。天乃屋の前期(8月期)売上高は96億2000万円。今期は引き続き「歌舞伎揚」が牽引役となり初の100億円の大台を突破する見込みとなっている。

 売上高100億円突破は、孝喜が特にこだわっていた点だったという。

 孝喜が他界する10日前、孝喜の長女の夫である大砂信行社長が病室にいる孝喜を見舞い100億円突破の見込みであることを伝えると、意思疎通が困難な状態であるにもかかわらずうなり声を発し、明らかに反応を示していたという。

 7月1日、取材に応じた大砂信行社長は「最後に伝えられてよかった。生醤油をかけただけのせんべいが売られているときに、砂糖と調味料を使いタレを開発したのは凄いこと。揚げせんべいに転換したこととか歌舞伎の登録商標がなかったら、今の天乃屋はない。仕事には厳しかったがとにかく周囲を明るくする方で、社内外の方々から慕われていた」と敬う。(文中敬称略)

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