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「15店舗くらい風俗店を経営してたけど、脱税みたいなことをしてたら国税局が入って…」バン仲村、真っ黒に焼けたサッカー少年が甲府有数の実業家になるまで〈『BreakingDown 7』で因縁の対決〉

集英社オンライン / 2023年2月12日 19時1分

黒く焼けた肌に、真っ黒のサングラスに赤いスーツ。頭の回転が早く、ユーモアに溢れたワードセンスはピカイチ。ただ、サングラスの奥にある眼光の鋭さは、カタギの人のそれではない。格闘技イベント『BreakingDown』の注目人物、バン仲村。その知られざる半生や瓜田純士との過去の因縁についてを、彼のホームタウンである甲府市内で聞いた。

プロサッカー選手を目指していた高校時代

――このようなインタビューを受けられたことはありますか?

いま二冊の本を出版予定で、その準備でライターさん相手にいろいろと語りました。

一冊が自叙伝で、生い立ちから今回の『BreakingDown 7』に至るまでのストーリー。もう一冊は自己啓発的な本。僕と同世代のサラリーマンをメインターゲットに、僕のワードセンスや喋りのコツ、SNSを活用するロジックなどをテーマに書いています。



――これまでの半生についてうかがってもよろしいでしょうか?

どこから話すかにもよりますね。幼少期からなのか、もしくは、大学時代からなのか。その後、実業家の道に進んで、日焼けサロンや無料案内所を経営していたり、他にも彫り師という一面もあるので。

――では幼少期から聞かせてもらえますか?

小さい頃から高校時代までは、サッカー選手になることだけを夢見ていました。プロを目指せるくらいの実力はあって、山梨県大会であの中田英寿と対戦したり、城彰二やリトバルスキーがいた頃のジェフユナイテッド市原に、契約候補生として練習に参加させてもらったこともあります。

ただ、プロ契約を勝ちとるには高校最後の冬の選手権で最低でも全国大会出場は果たさないと、他のネームバリューがある選手と比べられたら厳しい、というような立ち位置で…。結果的には、県予選で敗れてしまいました。

もしかしたら、それでも諦めずに食らいつけば、プロになるチャンスをもらえていたのかもしれない。でも、当初の目標を成し遂げられなかった挫折感が強すぎて、「サッカーをやめろってことなのかな」と、自分の中で線を引いちゃいました。

1日10時間以上勉強した浪人時代

――その後、どういう方向に進まれたのですか?

高校までサッカーしかしていなかったから、それがなくなった時に「自分はサッカー以外に何もない人間なんだ」と、さらに心が砕かれちゃって。だから “サッカーで行ける大学”という選択肢は頭の中にはなかったですね。

あれこれと考えた結果、「じゃあ、一番嫌いなことをやってみよう」と心に決めました。なんの根拠もないけど、そうすれば違う景色が見られるんじゃないかと思って、浪人して大学を目指す、という道を選んだんです。

高校卒業と同時に勉強に向き合い、1年間、1日10時間以上は勉強しました。中学生レベルの問題集から始めて大変でしたけど、ある時から「学ぶって面白いな」と感じ始めて。

――大学浪人の経験があるんですね。

本も読むようになって、著名な経営者たちの自叙伝なんかを読んでみると、どんな成功者でも天狗になったり、勘違いしたりして、大きく失敗している…そこから「失敗からより大切なことに気付くことこそが大事」だと学びました。

「夢は3つ以上持つ」という自分の哲学も、その頃に定まりましたね。それまではサッカーだけの“バカのひとつ覚え”だったけど、成功者の本を読むと、ひとつの目標が失敗したとしてももうひとつが伸びればいい、という保険が大切だとわかったから。

好きなことでワクワクしながら、世の中に求められるのが仕事

甲府市内にある、バン仲村氏が経営する日焼けサロン

――そのマインドが現在の多様な活動に繋がっているのですね。では、大学以降のお話をお聞きしてもよろしいでしょうか。

大学と大学院は、地元の山梨学院大学に通いました。親父が亡くなってから経済的に厳しかったので、昼間は実家の農作業を手伝いながら、授業料を自分で捻出して。

その後、山梨学院大学の職員採用試験を受けて就職。五次面接くらいまである難関だったんですけど、喋りが得意だから「筆記試験さえ通ればこっちのもんだ」と思っていたら、案の定、面接は楽勝でしたね(笑)。

――大学職員をされていたのは意外な一面です。

でも2年ほどで辞めちゃいました。「頑張っていようがサボっていようが同じ給料」というサラリーマンの仕組みだと、マインドもモチベーションも上がらなくて…、おまけに創造性も感じられないから、ワクワクしなかった。

その後に自営業を始めるんですけど、大学職員の経験があったから、「ただ金儲けをすればいい」のではなくて、「自分で仕組みを生み出して、ありがとうの代わりにお金を頂く」というのが、僕の中での“職に就く”ということだと気が付いた。

あとは、ワクワクしないとやりたくない。自分が好きで得意で、なおかつ世の中の人に求められていること。そういう思考で、まず日焼けサロンの店舗経営を始めました。

――なぜ日焼けサロンだったのでしょうか?

まず、サッカー少年だった頃の“一年中真っ黒に焼けている自分”というアイデンティティに親しみがあったから。サッカーをやめた大学時代から、日サロには通い始めていて。

次に日サロの経営は、機械が接客するようなもんだから、人件費と固定費が抑えられて、利益率が安定している、という点。大学で経営学を学んだからこそ、その利点には注目していましたね。

三つ目がキーポイントで、当時の日サロって、薄暗い雑居ビルの中にあって、音楽がガンガン流れて、ギャルがだるそうにタバコを吸って、タオルが積まれて…俗に言う風俗店みたいな、少し入りにくいイメージだった。

だからこそ、その真逆のイメージのお店を始めればいいんじゃないか、と閃いたんです。

僕のお店はここからすぐ近くにあるんですけど、路面店ですぐに入店できて、24時間営業で、基本は無人営業。

お店の入り口を顔認証にして、500円玉を入れて、自分で焼いて、自分で掃除して帰る、という徹底的に効率化したシステム。今でこそ同じシステムの日サロも増えましたけど、20年以上前の当時はかなり画期的だったと思います。

日焼けサロン、ネイルサロン、風俗、無料案内所、彫り師という様々な顔

甲府市内にある、バン仲村氏が経営する無料案内所

――その経営をしながら、彫り師になる勉強もされたのですか?

その次に始めたのが、彫り師とネイルサロンの経営です。実は日サロとネイルサロンと入れ墨って、客層が少し似ていて。ファッションの一環で日焼けもネイルもするし、入れ墨を入れている人が日サロに来るケースも多い。

まあ彫り師の仕事は、 “入れ墨ってかっこいい”という入り口から興味を持ち始めたんですけど、「なんで肌に直接インクが入ったり、グラデーションで彫ったりできるの?」という仕組みの方に、次第に意識が向き始めて…。

独学で勉強して機械も自分で組み立てて、「イテテ」って言いながら、自分の体に彫り始めました。

今は忙しすぎるので、新しいお客さんは取らずに、既に予約を取られている方たちだけ進めている感じで、一旦休憩中です。またいつかやりたいとは思っていますけどね。

――その次に、無料案内所を始められたのですか?

彫り師を始めた数年後に、無料案内所と風俗の経営を始めました。風俗はもうやめちゃったんですけど、10年くらいはやっていたかな。山梨エリアだけの経営でしたけど、一番多い時は15店舗くらいデリヘルを経営していて。

ただ、脱税みたいなことをしていたら、案の定バチが当たって、国税局の調査が入って…結果的には、その事業を立ち上げた意味もほぼなかったくらい(笑)。その傍らで、フリーペーパーを創刊したんですけど、これがいよいよ、瓜田純士との因縁に関係してくる話です。

取材・文/佐藤麻水
撮影/浅井裕也

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