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中3で担任の先生との子を妊娠・出産。高校卒業後、温泉コンパニオン、愛人、ソープ嬢を経た元風俗嬢が2度のがんを乗り越えて追いかける夢

集英社オンライン / 2023年2月15日 17時1分

「風俗に落ちた」といった言葉はよく聞くが、「風俗から抜けた」後の話を聞くことは少ない。風俗をやめた後、彼女たちはどんなセカンドキャリアを過ごしているのだろう。ある地方都市で介護福祉士として働き、特別養護老人ホームでプロジェクトリーダーを担う女性に話を聞いた。

15歳で妊娠・出産…セーラー服で保育園に送迎する日々

介護福祉士として働きながら、県からの任命で介護の特別チームのメンバーを兼任する吉田裕子さん(55歳、仮名)。彼女がかつて22歳から41歳までソープランドの人気嬢として働いていたことを知る人は、夫以外、誰もいない。


「私の少女時代はハードモードだったんですよ」と自嘲気味に語る吉田さんだが、聞くと本当にハードだった。

「9歳の時に両親が亡くなり、母方の祖父母に育てられました。不自由ない生活でしたが、どこかで寂しかったんだと思います。中3の時の担任の先生に毎日のように寂しさや満たされなさを話すうちに男女の関係になりました。

誤解のないように言うと、先生に憧れの父の姿や自分を守ってくれる男の姿を見て、私から誘ったんです。その行為は当時の複雑な環境で思春期を過ごす私にとって慰めだったから。そして15歳で妊娠したんです」

高校進学前の15歳で妊娠、それは衝撃的な展開だが、本人はただただ嬉しかったという。

「子供ができた、家族ができた、という喜びであふれました。産む以外の選択肢はなかった。祖父母はもちろん先生ともしっかり話をし、先生は『認知はできないが養育費と生活費で20万円を子供が成人するまで毎月払い続ける』ことを約束してくれました」

中学卒業と同じタイミングで出産。高校進学後は子供は登校前に保育園に預け、学校が終わると共に連れて帰ったという。

「セーラー服で保育園に子供の送迎をする姿は、他の母親から見たら自分のきょうだいを送迎するお姉ちゃんくらいにしか見えてなかったと思う。高校卒業までは先生からいただく養育費と生活費で暮らし、卒業後は温泉コンパニオンになりました。

当時はバブルでコンパニオンの仕事は忙しく、昼間に1軒の旅館に行って帰るだけで月30万円は稼げました。子供に寂しい思いをさせたくなかったので、子供との時間をしっかり作るために夕方には帰っていました」

「男を喜ばせる技術」より大切なこと

そんな生活の中で転機が訪れる。コンパニオンとして働く中で、出会った貿易業を営む企業の経営者に「愛人になってほしい」と誘われたことがあった。

「その方には2年ほど生活から家まで全て面倒を見ていただきました。都内のマンションの一室を与えられ、子供と共に住んでいました。ある時、同じマンションに住んでいた高級ソープランドの社長にスカウトされたんです。私もちょうど自分で稼いだお金で自由に暮らしたいと思い始めた頃だったので、躊躇することなく決めました」

30年前の高級ソープ店の新人研修は言葉遣いから所作までかなり厳しいものだったという。客を取る前に1週間の研修期間を設け、接客からマットプレイを頭と体に叩き込んだ。

「男性客をご案内してから迎え入れるまでのきめ細やかな接客態度はもちろんのこと、ボディ洗いにマットの使い方からローションの作り方、マット上での体位など…ソープの仕事はやることが多すぎて、とても一週間で全てを身につけられるものではありません。

私にとっては男を喜ばせる技術を身につけたというよりも、真心込めて人に尽くすことの真意やその大事さを学んだ場でもありました」

ソープ嬢として働いていた当時の写真

1年、2年と経験を積んでからも、自ら銀座のママに講習料を払って接客指導を受けに行くなどの努力も怠らなかった。そして20代後半頃には現役ソープ嬢から講習依頼を受けるようになり、その評判が広がり、現役嬢として働きながら講習師としても名を馳せるように。

「意外と多かったのが、お客様がご自身の奥様を連れてきて“マット体験をさせてくれ”という特殊なご依頼(笑)。旦那さんのソープ遊びが奥様にバレて“そんなに楽しい所なら私も連れてって”といってご夫婦揃っていらっしゃるケースが何回かありました。

私は奥様からも気に入られることが多く、後日、奥様から単独でご予約いただくことも。さすがに同日に旦那様からもご予約が入った時は気まずかったですけど(笑)」

子宮がん発覚で風俗をやめて
介護福祉士の資格取得

約20年、横浜、川崎、吉原とあらゆるソープ店を経験しながら働き続けた吉田さんだが、再び転機が訪れたのが2011年に起きた東日本大震災だった。

「自分がそれまで生きてきた中で、初めて経験する事態に驚いたのはもちろん、なにより“風呂屋で働いてる場合じゃない”と現地にボランティアに行きました。石巻までバスで向かい、現地に降り立った時は泣き崩れました。瓦礫とヘドロにまみれて働きながら、今後自分がこの世の中に貢献できることはなんだろう、と考えていました。もう風俗の仕事に戻る気はなかったからです。

ヘトヘトになりながらも充実感のあった1か月を経て家に帰ると、下腹部の異変に気づいたんです。というか、その半年くらい前から若干気づいていましたが目を逸らしていました。子宮に大きな腫瘍(子宮がん)ができていたんです」

これはただ事ではないだろうと思いながら、吉田さんには病を克服しようという考えはなかった。その時すでに子供は成人し、先生から欠かさず送られてきていた養育費も手をつけずに渡していたし、将来託せる貯金や不動産は風俗嬢時代にすでに蓄えていた。

それまで子供のためだけに生きてきた吉田さんにとっては、もう自分の親としての役目は終わったものと考えていたからだ。

「先生には私は手術も抗がん剤治療もしたくないと言いました。すると先生は“みんないつか死ぬんだから急ぐことはない。孫の顔を見てからでも間に合いますよ”と。その言葉で子宮と卵巣の摘出手術と抗がん剤治療を受けることにしました。

そうして生かされる命なら、今後の高齢化社会に向けて人手が足りていない介護業界でお役に立ちたいと考えました。術後、外来治療を受けながら介護職員初任者研修を受けに行ったんです」

抗がん剤治療を終え、特別養護老人ホームで3年の実務経験を経て介護福祉士の資格も取得。さらには介護福祉士実務者研修も修了した吉田さん。これから介護福祉士として頑張っていこうと思った矢先に、癌が膵臓近くに再発したことが判明。

「呆然としました。でも、もう抗がん剤治療はしたくなかった。そんな時、穏やかなだけで甲斐性のない夫が、私の生まれ故郷の集落にUターンして暮らそう、と提案してくれました。故郷で暮らせばなんとかなる、と。その言葉通り、毎日温泉に入り、素朴だけど美味しいものを食べ、長閑な景色や星空に感動したりしているうちに再発した癌が消失したんです」

「今、人生で一番勉強してるし、燃えている」

今は介護職につく若い世代が働きやすい環境作りができるようにと邁進する日々だという。

「介護業界に入って驚いたことは何よりも給料が少ないこと。手取り30万円、ボーナスも月給1か月分とプラスα程度。これでは子育て世代は家族を養えません。

職場の不要な理事や管理職らには勇退していただき、それで浮く莫大な人件費を現場の若い職員へ、と声をあげ続けてます。そのためには、もっと賢く知識を付けて今の仲間達が働きやすい環境に整える指針を作っていきたいと思っています」

現在働く老人ホームのユニフォームを着る吉田さん

毎週末のように学会に提出するレポート作りをしたり、県から任命された介護特別チームの仕事などで忙しい日々を送る。「今、人生で一番勉強してるし、燃えてるなって感じします」と吉田さん。

「ソープ時代はお金がすべてで生きてきたけど、それこそ“円”の価値はどんどん下がる一方で、お金も食の価値も変わる時代になりつつある。だから私、最近は狩猟免許を取得したんですよ」

地方都市で暮らす吉田さん

吉田さんの話では、これからの時代は自給自足できる力こそが求められているんだとか。

その力強い眼差しに勇気をもらった。

取材・文・撮影/河合桃子

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