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山田邦子の一言が投げかけた「たとえ話」のOKライン。テレビは「全員が分かる」の呪縛を乗り越えられるのか!?

集英社オンライン / 2023年2月22日 18時1分

昨年のM-1審査員でまさかの注目を集めた山田邦子。ここでは消費し尽くされた採点にまつわる話題ではなく、オープニングの「つかみ」をクローズアップ。「みなさん榮倉奈々だと思ってない?」というワードのチョイスはアリかナシか? テレビ番組に関する記事を多数執筆するライターの前川ヤスタカが、正解なきジェネレーションギャップに翻弄される芸能人のスキルを考察する。

M-1視聴者に「みなさん榮倉奈々だと思ってない?」は正解?

昨年の『M-1グランプリ』(ABCテレビ・テレビ朝日系列)で未だにどうにも引っかかっている場面がある。

何ヶ月経っているのか。そしてもう何百人もの書き手がフライドチキンの細いあばら骨についた肉をしゃぶるくらいに書き尽くしてきたM-1で何を今更書こうというのか。そのように思われることだろう。私もそう思う。



ただ、私が気になっているのはどちらかというと本戦とは別なところで、山田邦子がショートカットの自身を紹介する際に「山田邦子ですよ。みなさん榮倉奈々だと思ってない?」と言ったシーンのことである。

ここでの「榮倉奈々」は正しかったのだろうか。それがずっと気になっている。

世間的に美人とされている人を引き合いに出して、自身とのギャップで笑いをとりにいく手法は令和的かどうかは別として古来から行われていることだ。

しかしここで比較対象として出す「世間的に美人とされている人」の正解はかなり難しい。

唯一無二の正解というのはたぶんない。
それは、客層だったりメディアだったりによって伝わり度合いが異なるからだ。

客の平均年齢が70歳くらいの寄席だったら吉永小百合が正解かもしれないし、学園祭だったら橋本環奈とかが正解なのかもしれない。

コアな声優ファンが聴くラジオと、大勢が見るテレビ番組では当然全く違うし、同じテレビでも『笑点』と『有吉の壁』(どちらも日本テレビ)では異なるだろう。

そもそもそのくらい繊細なチューニングが必要となる作業であるのに加え、独特な客層と雰囲気の『M-1グランプリ』。今回審査員として初登場の邦ちゃんがあそこで正解を出すことはそもそも難しかったのだと思う。

野田クリスタルはポケモン、周囲は…というギャップ

この「たとえとして何を出すか」問題は時に人を大いに悩ませる。

先日の『あちこちオードリー』(テレビ東京)でマヂカルラブリーの野田クリスタルが、吉本興業に入った当時、同期は世代がひとまわり上で、自分がポケモンの話をしたいところ、周囲はキン肉マンや北斗の拳のたとえを使ったネタをしていて難しかったと語っていた。その結果、野田クリスタルは吉本ライブから地下ライブへと潜っていったという話だったが、こういった例は芸能界に限った話でもない。

学生時代というのは基本同世代と行動を共にするので、その世代での共通ボキャブラリーで話をすればいい。しかし、社会人になれば自分の親よりも年上の人と同じ空間で仕事をしたり飯を食ったりするのが当たり前になる。

同級生とのカラオケでは当たり前のように歌っていたボカロ曲を、50歳過ぎた部長の前で歌うのはどうだろうと考えて、カラオケランキングから事前に仕入れておいた『タッチ』とかを歌ったりして「なんでこんな曲知ってるの?」とか言われて「お母さんがよく聴いてたんです」とか答えて「お母さんいくつ? 48? 俺より年下じゃない。まじかー」とか言われたりするようになるのだ。

一方でおじさん部長の側も「あんまり若い曲入れたら、“無理してついてこようとすんなよじじい”とか内心は思われるんだろうな」とか「かといって古い曲入れてキョトンとされたり愛想タンバリンとかされたりするのもきちー」とか思ってしまうわけで、一次会からの流れでいく世代ギャップありの職場のカラオケなんて百害あって一利なしである。あれ、法律で禁止できないですかね。

今の地上波テレビが全方位に気を使っているように見える理由

話がそれた。
かように世代が広がるとそこに共通ボキャブラリーを見出すのは難しくなるという話である。

とくに地上波テレビは「老若男女が見る」ものであり「不特定多数に向けて発信する」ものでもある。ここに出て何かをたとえに出す人の苦労は並大抵のものではない。

たとえば、バラエティ番組の収録で、ツッコミ的な役割を担わなければならなくなったら、「この作品はもう結構世間に浸透したよね、じゃあ説明なしに使っても大丈夫かな。まあでも伝わらなかったらカットしてもらえるだろうし、テロップで画面右下くらいに画像とか注釈とか入れればまあなんとかなるよね。あれ、そういえばこの間オンエア見たら、俺の発言のテロップがなんか変な感じになってたけど、編集したディレクターって世代じゃないから、あれわかんないのか。そうだよなー。そっちも気にしなくちゃならないよなあ」といった感じで全方位に気を使い、結果、やっぱり何か特定の作品や人でたとえるのはやめよう、と躊躇したりするのだ。

確かに難しい。しかしテレビだからといって、あまりに「誰もが知っている」「ダイレクトに伝わる」にこだわりすぎる必要はないのではないかとも思う。

問われるのは「置いてけぼりにする」層を生む勇気

映画なのでもちろんテレビ番組とは前提が異なるが、たとえば『花束みたいな恋をした』には大量のカルチャー分野からのボキャブラリー引用がある。多くが老若男女みんなが知っているとは言い難いものばかりだ。

しかし、この作品で伝えたいことは、そこで引用されたアーティストや芸人を知っているいないで左右されることではなく、主人公二人の自意識だったり、未熟さだったりする。

自分が表現したいもの、伝えたい層にこだわりがあるのであれば、ある層を切り捨てたり、置いてきぼりにする勇気を持つべきだと思う。

「らしさ」全開のダウ90000、ヨネダ2000という価値

お正月の『爆笑ヒットパレード』(フジテレビ)。天才蓮見翔率いる平均年齢24歳の8人組ダウ90000が「間違い探し」のコントを披露していた。

彼らの「らしさ」は、若い世代ならではの設定、会話、空気感であり、客層も含めてホームである劇場でこそ伝わるもの。少なくともダウンタウンの同期のハイヒールが漫才をしたすぐ後にやるようなものではないと思っていた。

しかしすごくウケていた。

もちろん劇場のバージョンに比べれば若干テレビ向けに変えていた部分はあったが、若者の日常感あふれる会話劇はこれぞダウ90000というものであり、その魅力が「画面越しのお茶の間」にも十分伝わることを証明して見せた。

また、『M-1グランプリ』では博多大吉が審査についてポッドキャストで話した回が話題になったが、そこでヨネダ2000が「DA PUMPのKENZO」と言った部分について「シニア世代がわからないだろうと気を使って説明でいれたのかもしれないが、不要だった」と語っていた。

実際に彼女たちがそのフレーズをいれた意図は不明だ。しかしヨネダに期待されていたのはシニアな審査員が頭で理解するのをあきらめるような本能に訴えかける面白さであり、そこで意味を説明するようなワードが出てきたのは少し野暮に見えたということだろう。

テレビだからといって過度にシニアに気を使う必要はないのだ。
過保護にしなくてもちゃんと伝わる。わからないなら、わからないことを楽しめばいいだけのことだ。

「縛られずに楽しむ」テレビの新常識は生まれるか?

これまで、若手芸能人がベテラン芸能人に忖度してその層にウケそうなたとえや行動を付け焼き刃でしてきた歴史が、なかなかテレビ界の世代交代が進まない原因でもあった。そして番組の作り手も過剰に「全員わかる」ということに気を使いすぎていたように思う。

しかし近年、作り手も出演者も新しい世代がどんどん出てきている。テレビはオールドメディアと卑下しているのはむしろベテランばかりで、若い世代はテレビというメディアにいろんな可能性を見出している。

地上波テレビは「老若男女が見る」ものであり「不特定多数に向けて発信する」ものでもあるからこそ、いろんな世代のボキャブラリーが飛び交う場所になってくれればいい。そう願っている。

直近、山田邦子はラジオ番組で『M-1グランプリ』のことを振り返り「榮倉奈々」の箇所は「IKKO」であるべきだったと後悔の念を語ったと聞く。

個人的には「IKKO」もまた、あの場での正解ではなかったと思うが、私としてもまだ正しい答えは見つかっていない。

次回の『M-1グランプリ』、百戦錬磨の邦ちゃんが再び自分のことを誰かにたとえ、爆笑をとることを期待している。

文/前川ヤスタカ イラスト/Rica 編集協力/萩原圭太

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