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実家が太いからって人生甘くない。2代目お坊ちゃん社長がかつて苦悩した「絶対的な父親」との関係

集英社オンライン / 2023年2月28日 9時1分

2代目お坊ちゃん社長の会には、全国から家業を継いだ経営者たちが集う。何かと人に羨まれがちな「お坊ちゃん」。しかし、その人生は決して平坦ではない。若き日に抱いた「実家が太い」からこその悩みやコンプレックスについて聞いた。

子供の頃からつきまとう
「両親のために生きている感覚」

全国から家業を継いだ2代目社長が集い、それぞれの生い立ちや悩みを語り合いながら、自分なりの経営ビジョンを見出していく「一般社団法人2代目お坊ちゃん社長の会」(以下、お坊ちゃん社長の会)。その代表理事である京南グループ代表の田澤孝雄氏は、初代社長である父との関係や周囲からのプレッシャーで苦しんだ経験をもとに、2代目社長のコミュニティを発足した。



「親が社長」。
そんな人を一度は羨んだことがあるかもしれない。裕福な家庭、潤沢なおこづかい、豊富な人脈。「自分だって実家が太ければ!」と、やりきれない思いを抱える人も多いだろう。しかし、田澤氏の生い立ちからは、お坊ちゃんの"影の側面”がうかがえる。

「僕は『孝雄』という名前なんですが、子供の頃から『親孝行する男の子になるんでしょうね』と言われて育ちました。それがとてもつらかった。『自分は親のために生きているのか?』という疑念が鬱積していくんです。だからこそ、親や同級生に自分の実力を認めさせようという気持ちが人一倍強かったと思います」(田澤氏。以下略)

田澤氏は4人兄弟の次男として生まれた。父は不動産業を営む経営者。家庭は裕福で、幼少期の田澤氏にとっての「お買い物」とは、百貨店の外商サロンを訪れることだった。両親に手を引かれ豪華なソファに座り、販売員にうやうやしく「お坊ちゃん、このお靴はいかがでしょう」とかしずかれたことを、今でも覚えている。

そんな田澤氏を同級生たちは妬んだ。「いじめられたわけではなかったけど、イジられはしましたね」。はやし立てる同級生を見返そうと勉強やスポーツに情熱を注いだ。だから、子供の頃からスポーツ万能で成績優秀の優等生だった。

その姿を見て両親は喜んだが、どれだけ頑張っても「両親のために頑張っている」という感覚は拭えなかった。

「人造人間みたいでした。自分の意思はどこにあるんだろう。主体的に生きている実感はあまりなかったかもしれません」

思春期に苦悩した「絶対的な父」との関係

お坊ちゃん社長の会の公式サイト上で、田澤氏は初代社長である父のことを、こう記している。「まさに天皇。言い返すことは不可能」。

一代で財を成した百戦錬磨の経営者である父。家庭内は「お父さんが絶対」という雰囲気が支配的で、父に向かって意見すらしたことがなかった。そんな関係は思春期に入ると複雑な感情に変わっていく。印象深いのは高校受験のときのエピソードだ。

「僕は中学生の時にバスケットをしていて、仲のよかった部活の仲間と都立の進学校に行こうと約束していたんです。それで一生懸命に受験勉強をして2人とも合格したんですが、父親の鶴の一声で別の私立高校に進学先が変更になりました。

母親も『お父さんが言っているんだから…』と話を聞き入れてくれない。今となれば、その高校に通ったことに後悔はないですけど、当時はつらかったですね」

田澤氏は大学卒業後から29歳で家業に入るまでの間、大手電機メーカーで社内弁理士として勤務している。弁理士を目指したのも父への反発心がきっかけだった。

自らの将来を考え始めた高校2年生の頃。長年気になっていた疑問を父に勇気を振り絞ってぶつけてみた。「将来、僕が会社を継ぐんですか?」。父の答えは「好きにしろよ」だった。

「後継ぎだと思われていないことが悲しかった。だから大学に入ったあとに『見返してやろう』と弁理士を目指したんです。弁理士が扱うのは知的財産ですから、父親が不動産業で扱う固定資産とは真逆だなと。全く違う分野で活躍すれば、父親を超えることができるのではないかという、いかにも子供っぽい反発心でしたね」

田澤氏は「2代目社長は自分を見失うようにできているんです」と話す。絶対の存在である父との関係に悩み、周囲から奇異の視線に晒されるなかで、「自分は何をしたいのか」が曖昧になってしまうのだという。

事実、家業に入ったのちも田澤氏は自分なりのビジョンを打ち出すことができず、経営は難航。どん底の精神状態に陥った(#1に詳述)。

しばしば、人は妬ましげに「実家が太いね」と口にする。だが、そのとき「恵まれているからこその悩み」に光が当たることはまずない。「実家が裕福なら人生すべてうまくいくはず」という見方は、あまりにも短絡的なのだろう。

もう「お坊ちゃん」がコンプレックスではなくなった

数々の苦悩の末に「自分なりの経営ビジョン」を打ち出すことの重要性に気づき、同様の悩みを抱える仲間とお坊ちゃん社長の会を発足した田澤氏。名称にあえて「お坊ちゃん」を掲げたのにも理由がある。かつてはコンプレックスだった生い立ちを、今では肯定的に受け止めているからだ。

「昔は『お坊ちゃん』『2代目』という下駄を履かされていることに負い目を感じていましたが、いざ経営者になってみると、下駄でも履いていないと従業員を何十人も養っていけないなと(笑)。それに、ゼロから資金を集めるのと、すでに蓄えがあるのとでは、経営のスピードが全然違います。

だから僕はもう『自分の力だけで戦ってやる』『父親を超えてやる』なんて思いません。父親が築き上げた財産はありがたく活用させてもらって、その分僕は社会にとって価値がある事業をやります。

『お前は金があっていいよな』と憎まれ口を叩かれても、今は気になりません。『はい! なので、頑張らせていただきます!』と答えるだけです」

では、かつて仰ぎ見ていた父との関係に変化はあったのか。田澤氏は「激変しました」と答える。父は80代を迎えた今も現役で、田澤氏とともに経営の舵を取る。そして、いつからか田澤氏を「弱々しい2代目」ではなく「一人の経営者」として捉え、対等に接するようになったそうだ。

「関係性は昔と全然違います。物の言い方ひとつにしても相当変わりました。僕を一人の経営者として見ている証拠なのかなと。だから、これからは父親とコミュニケーションを取って、経営者としての知恵をもっと学んでいきたいですね。僕のビジネスの師匠ですから。吸収できることはまだまだあるし、そうすれば僕もさらに成長できるでしょう。それが今後最も力を入れたいことですね」

しかし、2人の会話はもっぱら経営の話題ばかり。プライベートな会話や家族の思い出を振り返ることは皆無だ。

「父親も創業者と後継者という構図を崩したくないんでしょうね。それは僕も同じで、それほどプライベートな会話をしたいとは思わないです」

一般的な家庭円満とはかけ離れた、冷めた関係にも思える。しかし、田澤氏にとっては、数々の苦悩を乗り越えた末にたどり着いた、自分なりの父との向き合い方なのだろう。父との関係を語る田澤氏の表情に「お坊ちゃん」時代の頼りない面影は、微塵も残っていなかった。


取材・文/島袋龍太

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