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「小学生だった僕の世界のすべてだった」車中泊旅で立ち寄った岩成台団地で考えたこと

集英社オンライン / 2023年3月4日 16時1分

小学校のある時期を過ごした愛知県春日井市の団地を40年ぶりに訪れたら……移り変わる日本の世相、人々の意識、自分自身をそっと振り返る。

小学生の頃に住んでいた高蔵寺ニュータウン・岩成台団地は、
僕の世界のすべてだった

2023年1月半ば。
自力でカスタムした激安中古のスズキ・エブリイ号に乗り、10泊11日“男一匹真冬の車中泊旅”に出かけた。
自宅のある山梨県・山中湖村を発ち、確たる目的地を定めずただ西へと向かう。

旅の目的は、地べたを這うように車でひた走り、半世紀以上暮らしているのにもかかわらず、実は何も知らないのかもしれない我が祖国の“今”を肌で感じることだ。

そんな旅の序盤に訪れ、たっぷり時間をかけて歩いた街がある。


そこは観光地でもなんでもないので大多数の人は何も感じないだろうが、僕にとっては思い出深い場所だ。

小学1年生の春から小学4年生の夏までを過ごした、愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウン。
名古屋市のベッドタウンとして日本住宅公団(現在のUR都市機構)が開発し、1968年に入居が開始された、日本で2番目に古い大規模ニュータウンである。

○○台という呼び名で区分けされた多くの団地群が並ぶ高蔵寺ニュータウンのうち、特に訪れたかったのは“岩成台”という一角だ。
物心ついたばかりの僕にとって、当時、住んでいた岩成台団地は世界のすべてだった。

団地の間の細い道を駆け抜けていたあの頃

でもそこは、転勤族で一時的に名古屋支所勤めになった父の仕事の都合で住んでいただけなので、僕や僕の家族にとってもいわば“通りすがり”のような街だ。

街を去ったのは、もう40年以上前。
それがどのくらい昔なのかといえば、団地にいた頃に僕らの間で流行していたのが、スーパーカーとコカコーラヨーヨーとピンクレディーと沢田研二とコロコロコミックだったといえば、きっと分かってもらえるだろう。

個人的郷愁を誘う、岩成台団地の佇まい

ゲイラカイト、爆竹、クジラ、あべ静江、シャーボ……。
ノスタルジックが止まらない

高蔵寺ニュータウンを訪れたのは、出発から2日目の2023年1月14日(土曜日)のこと。
近づくにつれ次々と見えてくる風景に懐かしさを覚えつつ、車を高蔵寺ニュータウン最大のショッピングセンターであるサンマルシェの駐車場に停めた。

サンマルシェ。まだあったのか。

ここは1976年、僕が高蔵寺ニュータウンで暮らし始めた年の10月に、鳴り物入りで開店した商業施設で、ピッカピカの真新しいサンマルシェに、家族で初めて訪れた日のことを今でも鮮明に覚えている。

現在は北側のアピタ館と、サンマルシェ南館に分かれているが、当時はまだ南館は建っていなかった。
そこには大きな空き地が広がっていて、よく兄や友達と遊びに来ていた。
大人は滅多に通りかからなかったので、好き放題の冒険を繰り広げた思い出の場所なのだ。

サンマルシェ南館。あの頃は広大な空き地だった

いくつもつなげた長い凧糸でゲイラカイトを高く高く揚げ、隣の山の頂上に見える自衛隊の基地に届かせようとしたり、持ち寄った大量の爆竹に同時に火をつけ、テレビの爆破シーンの再現を試みたり、捕まえたトンボとバッタを糸でつなぎ、どんな動きをするか観察したりした。
動画を撮ってSNSに投稿したら、炎上しそうなことばかりだ。
スマホやネットがない時代でよかった。

現在のアピタ館の場所は当時、ユニーという名の総合スーパーと専門店街のサンマルシェが建っていたはずだ。
“アピタ”ってなんじゃ?と思って調べてみたら、愛知県稲沢市に本社を置くユニー株式会社が運営する店舗のうち、大型店のことを今はそう称しているらしい。

ユニー高蔵寺店は2005年、同社の新しいブランドであるアピタにリニューアルした。
そしてユニー株式会社自体は2019年、ドン・キホーテを運営するパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスの完全子会社になったのだとか。

なんだか時の流れをしみじみ感じるが、読者の方はついてきているでしょうか?
まあ、いいけど。

今っぽい店が並ぶアピタ館に、かつてのユニー&サンマルシェの面影はない。
僕が記憶しているサンマルシェは、中央広場を囲う「ロ」の字形の建物だった。
その中央広場では色々なイベントが催され、僕はいつも楽しみにしていた。

アピタ館につながる歩道。ここには当時の面影があった

特に強く記憶に残っているのは、中央広場に本物のクジラがやって来た日のことだ。
もちろん生体ではなく、クジラの屍体が広場にドーンと展示されたのである。

触るのもOKだったので、僕を含むちびっ子は皆、興味津々で死んだクジラを撫で回したり抱きついたりして感触を確かめた。
いま考えると、なかなかすごい企画だ。
70年代って、現代の日本とはまったく違う世界だったのかもしれない。

“あべ静江歌謡ショー”もあったっけ。
思えば、生の芸能人を初めて見たのはそのときだった。
可愛かったなあ、あべ静江さん……。
今は71歳らしいが、お元気なのだろうか。

スガキヤのラーメンのおいしさを知ったのも、文房具屋で見かけたシャーボやカメラ店で見かけたポケットカメラが欲しくてたまらなくなったのも、サンマルシェだった。

嫌で嫌で仕方がなかったのに、半ば無理やり通わされたサンマルシェ内のスイミングスクールがあった場所は、現在、ユニクロの店舗になっていた。

変わらないようですべてが少しずつ違う団地の中を一人歩く

いつまでもサンマルシェを懐かしがっていても仕方がないので、住んでいた団地に向かって歩を進めた。

岩成台団地エリアに入ると、大袈裟ではなく、少し涙が出そうになった。
当時の僕は小学校低学年だったから、岩成台団地は無限に広い世界だと思っていたが、53歳のいま散策してみると、端から端まで歩いて15分とかからない、小さな箱庭のようだ。

岩成台団地の入り口

大好きだった公園の中を歩く。

大好きだった公園

巨大だと思っていたコンクリート製の滑り台は、いま見てもなかなか立派だったが、残念なことに周囲をフェンスで囲われて使用禁止になっていた。
コンクリートがかなり劣化しているようだ。
この滑り台、時間を忘れて無限に滑っていたんだけどな。

使用禁止になっていた大きな滑り台

どうも小さな頃の思い出は、すべて「無限」だった気がする。

時間の流れというのは主観的で相対的であるため、現在と比べて子供時代の時間の進み方が、相当にゆっくりと感じられるということはよく知られている。
だから記憶している遊びの数々は無限に繰り返したように思えるし、この土地で過ごした小学校1年から4年までの記憶も、永遠に近いような気がするのだろう。

いい枝ぶりだったため、よく登って遊んだ木がまだあった。
当時よりかなり大きくなってはいたけど、いい枝ぶりに変わりはない。
引っ越す前、何か記念を残したくて、この木に登って幹にシャーペンの先で自分の名前を小さく彫った。

懐かしの木は大きくなっていた

それを確かめることなどできないが、木は僕のことを覚えている気がしたので、「あのときはゴメン」と心の中で謝った。

両親と3歳上の兄と一緒に住んでいた部屋がある棟の前に来ると、気持ちがさらに高揚して動悸が早まった。
今はともに80代で介護施設暮らしをしている両親は、あの頃、今の僕より10歳以上も若い30〜40代だったのだ。

父は棟の前の小さな公園でよくキャッチボールをしてくれた。
母は近くのスーパー、ピーコックに一緒に行ったあと、20円のガチャガチャをいつもやらせてくれた。
兄は自転車の後ろに僕を乗せ、僕にとっては異世界である隣の藤山台団地まで遠征してくれた。

正面に、家族と暮らしていた16号棟とキャッチボールをした公園が見えた

と、記憶を蘇らせていたんだけど、そういえば公園の中に、当時の僕のような子供の姿をほとんど見かけないことに気づいた。
雨上がりで足元がぬかるんでいるからかな?と思ったが、考えてみれば当時は、雨が降ろうと槍が降ろうと、公園内には無数のガキンチョがいたものだ。

少子化なのだ。
どうせ子供が少ないから、あの大型滑り台も修理されないのかもしれないと思うと、なんだか侘しい。

誰もいない公園があちこちに

高蔵寺ニュータウンは、高度経済成長期にどんどん建てられた、全国の大型団地の多くと同様、入居者の高齢化と空洞化が進んでいるそうだ。
ニュータウン全体の入居者は、1995年の52,000人をピークに減少が続き、現在は40,000人ちょいとなっている。

岩成台団地内を歩いていてすれ違うのは、子供ではなく高齢者ばかりだ。
かつてピーコックが入っていた場所は、空き店舗になっていた。

かつてピーコックがあった場所はテナント募集中

団地内の小さな商店街は軒並みシャッターが降ろされ、床屋と鍼灸院しか営業していない。
ガチャガチャもなければ、コロコロコミックを売っている店もない。
たった1時間前にやって来たよそ者に何がわかるのかと思われるかもしれないが、40数年ぶりに来たからこそ、社会の歪みの一端を垣間見た気がした。

団地内の小さな商店街はシャッター店舗だらけ

最後にどうしても確かめなければならなかった
公園の隅の排水口。もしもあの中に……

少子化の波で地方都市の小中学校の多くが閉校しているので少し心配だったのだが、かつて通っていた岩成台小学校はまだちゃんとあったので、ほっとした。

懐かしい岩成台小学校

小学校のすぐ近くには、愛知用水という大きな用水路が流れている。
恐らく今の小学生もきつく戒められているだろうが、ここは子供時代の僕にとって、決して遊んではいけない“魔の川”だった。

V字形に掘られた深い用水路のため、誤って落ちると上がってこられなくなると脅かされていたのだ。
水面はいつも暗く恐ろしげで、橋を渡るときもなるべく用水側から離れたところを、駆け足で通過していた。

愛知用水

ところが今の愛知用水は、少し様子が違っていた。
用水横にフェンスはあるものの、脇には散策路が整備されていて、住人がのんびり散歩しているのだ。
昔は用水には絶対に近づけないよう、あちこちが有刺鉄線でガッチリ固められていたのに。
きっと、制御できないほど大量のガキンチョがワサワサと暮らしていて、少し脅かさなければ事故が心配だった70年代と、穏やかに暮らす高齢者が多数を占める現代とでは異なるのだ。

岩成台小学校と愛知用水の間には、細長い形をした公園がある。
最後にどうしても確かめなければならないことがあるのを思い出し、僕はその公園に向かった。
目指すのは、公園の片隅にある排水口である。

確かめなければならないものがある公園

あの頃、公園の端っこにある排水口に通い詰めた理由は

僕は小学4年生の夏休みのはじめに、東京へ引っ越すことになる。
引っ越し直前の1979年7月、僕は一人でこの公園に毎日通い詰めていた。
公園の端っこにある排水口の中を覗き込むために。

そこには、一匹の大きなカエルがいた。
茶色がかった体だったから、恐らくトノサマガエルだったのだと思う。
理由はわからないが、どこかからそこに流れ着き、脱出できなくなったようなのだ。

排水口の中なので水はあるし、エサの虫も捕まえられていたようで、衰弱する様子はなかったが、カエルはいつまでもそこにいた。
かわいそうだと思ったが、小学生である自分にはなす術もなく、ただ元気でいることを確認するために、引越し当日まで繰り返し見にきていたわけである。

引っ越した後もしばらくそのカエルのことが頭から離れなかったが、東京での新しい暮らしに慣れるにつれ、いつしか忘れてしまっていた。

そのカエルが棲んでいた排水口が、いま目の前にある。
中を見てみよう。

あの排水口だ

非現実的なのはわかっているが、なんだか今でもあのカエルがいるような気がする。

カエルの姿を見た瞬間、時空がグワアンと揺らぎ、半ズボンを穿いた小学4年生の僕が現れるのだ。

排水口をそっと覗く。

カエルは、いない……。

いない……

そりゃそうだ。

そして、干支がもう一周すると高齢期に入るおっさんの僕は黙ってそこを立ち去り、車中泊の旅を続けるのであった。



写真・文/佐藤誠二朗

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