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〈60歳でお笑い養成所に入学)“初めて見たときはどうにも気味が悪かった”ミラクルひかるを世に出したものまね芸人兼芸能事務所社長、ダンシング☆谷村の現在。スタッフの裏切りで会社が傾くも…

集英社オンライン / 2023年3月4日 10時1分

谷村新司のものまねでおなじみのダンシング☆谷村。芸人だけではなく、芸能事務所社長の顔も持つ彼が、なんと昨年9月にタイタンのお笑い養成所に入学していた。前編では彼のものまね人生と、ミラクルひかるらを生み出した芸能事務所社長としての経歴を振り返る。

60歳でお笑い養成所に入校

「入学してよかったー! 生まれた場所も仕事も環境もまったくバラバラなのに、おんなじ夢を目標に集まってる。お笑いスクールってホントに面白いですよ」

ダンシング☆谷村さん、61歳。本家・谷村新司さんもやらないであろう激しい動きや、郷ひろみのものまねをする際の芸名「GO! ピロミ」としてもおなじみのものまねタレントであり、芸能プロダクション「ジンセイプロ」社長でもある。



そのダンシングさんが、爆笑問題やM-1王者・ウエストランドなどが所属する芸能事務所「タイタン」の経営するお笑いスクール「タイタンの学校」芸人コースに、なぜか昨年9月から通っているのだという。

「去年の9月に、“特待生”として入学しました。ものまね人生の長い僕は芸歴35年ですけど、お笑い芸人としては新人の気分。漫才の相方も見つけたいし、もっともっと面白くなりたい」

今年1月のとある日、「タイタンの学校」を訪れると、そこには「あ・え・い・う・え・お・あ・お」と発声の基礎からチャレンジするダンシング☆谷村さんの姿があった。
芸人コースは週に2回、2コマずつの授業がある。カラダを動かすポージングやネタ出し、さらには書道を学ぶ日もあるという。同じコースを受講する“同級生”は当然ながら軒並み若い!

芸の基本である発声練習を行う谷村さん(中央)

「ネタ出しして、審査してくれる構成作家さんから批評とアドバイスをもらうんです。もちろんまだハタチの同級生からも意見もらいます(笑)。ここで認められると、月2回あるライブの出演権がゲットできるんです。僕の段位を見てくださいよ、『地獄』でしょ。これは芸歴35年を加味するとそうなるらしいです……」

ダンシング☆谷村こと“今野仁誠”の段位は最低ランクの「地獄」

しかし、実はダンシングさんはすでにタイタンの所属提携タレントのひとりでもある。自らの事務所も経営しつつ、なぜタイタンに……?

谷村新司ものまね誕生のマル秘エピソード

ここに至るまでには紆余欲説があった。

「広島県福山市の工業高校を出て、日本工学院専門学校の公害工学科に入るために新聞奨学生で上京してきました。子どもの頃はひたすら大人しくて人づきあいが苦手、本ばかり読んでいて目立たないタイプでした。
高校で野球部に入ったんですけどね、高3の甲子園予選の広島大会で唯一の補欠選手でベンチ入りはしたものの、試合終了後に監督から『ゴメン、代打で出すの忘れてた!』って言われたほど目立たなかった。わからないものですよね、それなのに芸事の世界に入るって」

23歳、横浜のライブハウスのウエイター時代のダンシング谷村

いくつものバイトを転々とした。横浜でライブハウスのウェイターをしていたとき、たまたま司会役に任命されてマイクトークをすることになった。1984年のことだ。

「それがめちゃくちゃウケて、お笑い芸人になろうって思ったんです。ところが、何人かの相方と漫才コンビを組んでも何年も鳴かず飛ばずの状態でした。のちに芸能リポーターになった三井三太郎さんとも『DXコブラ』って漫才コンビやってたんですよ。でもそれも解散して、ピンで暗中模索状態でした。
ちょうどその頃、ものまねで有名なショーパブが、ものまね以外の芸人も募集しているのを知り、即席コンビで入ったんです。そこに待っていたのはまさに驚きの世界でした。楽屋にはニセモノの松田聖子さんやニセモノの五木ひろしさんがいて、なんとも魅惑的な雰囲気(笑)。話を聞いたらものまねのみなさんって『営業』でものすごく稼いでるんですよ」

「ショーパブで漫才やコントをやっても、お酒が入ってるお客さんは聞いてくれない。でもものまねには目がいく。いま考えればムチャクチャなんですけど僕、『1000の似てない声を持つ男』ってネタは持ってたんです。ものまねのクオリティはプロにかなわなくっても、トークの面白さには自信がついてきていた。
それで東急ハンズに行って、カツラを買って、自分でカットしておでこをだしてやってみたのが谷村新司さんでした。

ご本人は絶対やらないオリジナルダンスの“喋りものまね”って当時はまだやる人がいなかった。おかげで漫才からものまねに転向して、数か月でテレビに出られました。上岡龍太郎さんの番組で、ちゃんとした谷村新司さんのソックリさんと、めちゃくちゃなソックリさんの僕で出た。何年もまったくテレビに出られなかったのに、そこから立て続けにオファーがきました」

スタッフに裏切られ事務所存亡の危機…!

各局のテレビ番組に出ることで営業の仕事が増え、一気に収入がアップした。1997年、36歳になっていた。

テレビ番組の出演依頼が相次いでいたころの写真

「どこか事務所に所属したかったけれど、『年齢がいってる』って断られちゃったんですよね。でも、当時は携帯電話が出てきていたから、日本全国のイベンターさんから自分で電話を受けて、それから年間100本以上のペースで営業に回ってました。
最初は、こんな神様からのご褒美みたいな状態はせいぜい1年だろうと思っていたら、2年たっても3年たってもなかなか終わらない。これは長期戦になるかもと思って、自分が代表取締役の『ジンセイプロ』を作ったのが2000年。38歳のときでした」

だが、始まりは順調だったものまね芸人&社長業は、4年目に大波乱に巻き込まれることとなる。

「マネージャーで経理もすべて任せていた取締役に裏切られてしまったんです。1000万円横領されて、裁判にもなりました。そのとき所属していたタレントを全員連れて出て行かれてしまったんです。悔しかったですね……。いきなり会社が傾くわけですからね。
それで急いで、『よし、また人を育てよう!』と立て直しに走ったんです。
ゼロから探すのは大変だから、知り合いの事務所に応募して落ちた人たちのプロフィールを何人分か見せてもらうことにしました」

インタビューに応じるダンシング☆谷村さん

そこで目にした1枚のプロフィール書類が、救世主となるあの人物だった。

「中にひとり、“田村梨果”って、お世辞にもカワイイとは言えない、映りの悪い写真のプロフィールがあったんですよね。今でも忘れないですよ。冷蔵庫に手をかけて笑ってる写真だったけれど、どうにも気味が悪い(笑)。見せてくれた他事務所の人も、『こんなのやめときなさいよ』って言うんだけど、なぜだか勘が働いたんですよ。『このコは売れるハズだ』って。
ポイント? わからないです。本当に“勘”」

田中梨果、のちの「ミラクルひかる」だった。

ミラクルひかる、売れっ子への道

「当時、彼女は24歳の美容師。カラオケで友達を笑わせる程度の素人ものまねで、いろんな事務所のオーディション受けては落ちまくっていました。実際に会うために呼んだら、顔はオバQみたいなメイクをしちゃってたし、パタパタとペンギンみたいに突進してくるしで驚きの連続だったんです。でも、カラオケで宇多田ヒカルを唄った瞬間に、『イケる! これで事務所を再建できる!』って確信しました」

「芸能事務所がタレントを育てるのって実は大変なんです。たとえば芸に使う衣装や道具を買い、スタジオを借りてメイキャップを頼んで宣伝写真を撮ることにもお金をかけます。もちろん芸の道筋もアドバイスして、タレントが食べていけるように仕事をとらなきゃならない。授業料をとれる養成スクールとは違い、僕の事務所はスカウトをしてきて売れるまで無料でそれをやる。
でも事務所の立て直しという命題があるから、売れてくれなきゃ困るわけです。

最初は宇多田、仲間由紀恵、オセロ中島の3人くらいしかレパートリーがなかった彼女には、『君はこれから売れて大変なコトになる。事情があって半年以内にメジャーにするから、これだけはわかってほしい。下積みのないままものまね番組に出だすと、慣れない環境のなかで新しいネタを作らなきゃいけなくなる。環境はサポートするから、とにかくネタ作りと練習に専念してくれ』と話して、週一回の定期ライブとその練習のために長時間使えるカラオケボックスを準備しました。

3か月後に、ミラクルひかるのお披露目と僕のものまねショーを兼ねた事務所ライブを開催して、そこから一気に巻き返しをはかったんです」

奇跡を起こして事務所を立て直す――そんな願いを込めて名付けた「ミラクルひかる」は見事に売れっ子になった。そして赤字になっていた会社は再び安定を取り戻したのだ。

ミラクルひかるが巣立ち、再スタートしたジンセイプロ

ミラクルひかるとダンシング☆谷村が屋台骨となり、さらに新人スカウトやタレント育成もうまく運び、会社は再び軌道に乗り始めた。

「でも、やっぱり小さい事務所ですからね。『テレビタレントにシフトしたい』とミラクルが言い出したのは5、6年後のことです。彼女の願いを叶えられるように事務所を移籍させて、ジンセイプロは業務提携となりました。もちろん円満で、今でもものまね界の戦友としてお互いリスペクトしています」

「僕、研ぎ澄まされて、“売れる原石”がわかる瞬間があるんです。ミラクルのほかにもこんなこともありました。九州で仕事のあと、3次会で地元のパブに行ったらそこでカラオケが聴こえてきたんです。『いま歌ってたの誰?』と尋ねると、仕事終わりで来ていた女性数人組のなかで、いちばん地味なコでした。でもその一曲で売れる“絵”が浮かんで名刺を渡してスカウトしたら、最終的にものまね番組の決勝戦まですすめるものまねタレントになりました。
でも、そうやって何人も見つけて育てましたけれど、テレビに出始めたり営業で生活できるようになると、スタッフと独立していったり、取引先と直接に仕事のやりとりされたりしちゃうんですよ……。

宝の原石を見抜く目を持ちながらも、小さな事務所からは次々と人が離れていき……。
ものまねタレントとしてより、経営者としての悩みが深くなったダンシング☆谷村さん。

後編では「タイタンの学校」の生徒となった理由を聞いてみよう。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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