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【震災12年】2011年、放射能が降りそそいだ春「もう有機農業はできないのでは…」絶望した息子と勝負に出た父「“僕らが土を守ったよ”とほうれん草の声が聞こえた」

集英社オンライン / 2023年3月8日 10時1分

東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故は、「安全・安心」の野菜づくりをしてきた福島県の有機農家を苦境に追いこんだ。田畑を手放す人が相次ぎ、絶望して死を選ぶ農家も。そんななか、野菜の声を聞き、土の力を信じ、事故直後から種をまき始めた農家がいた。あれから12年、二本松市の父子は今も先祖伝来の地を耕し続けている――。

豊作の予感の春、降りそそいだ放射能

2011年3月は穏やかな天気が続いていた。ほうれん草は地面をはうように葉を広げ、ネギもすくすくと伸びている。例年より早めにまいた春野菜も芽を出し、豊かな実りを予感させていた。

JR二本松駅から約2キロ、標高220メートルの阿武隈川沿いの盆地で有機農業を営む大内督(おさむ)さん(1973年生まれ)は野菜の出荷を終えて車で帰宅する途中、3月11日午後2時46分を迎えた。



二本松市は震度6弱だったが、自宅は土壁が少しはがれた程度だ。だが、間もなく空が暗くなり大粒の雪が降ってきた。この世の終わりのような不吉な光景に思えた。

長い停電から復旧すると、テレビが映す津波被害に大内さんは絶句した。

大内督さん(写真は2021〜2022年に撮影、以下同)

さらに福島第一原発では12日に1号機、14日に3号機、15日に4号機が水素爆発する。放射能に追いたてられるように太平洋岸から二本松市に約7000人が避難してきた。

避難所にはパンやおにぎりしかない。農家が野菜を持ち寄って炊き出しを始める。畑のほうれん草をおひたしにして、大鍋で豚汁を炊いた。温かい豚汁のまわりには、くんくんと鼻をならして子どもたちが集まってきた。

「二本松は牛乳がいっぱいあっから、明日からは牛乳も出すぞ!」

避難所を訪れた市長は言った。

だがその日の夜、ほうれん草も牛乳も出荷停止になった。

すべすべ肌のネギは放射能を吸わなかった

督さんの父、信一さん(1941年生まれ)は有機農業を1970年頃から手がけてきた。提携する消費者に直接野菜を届け、田植えや稲刈り体験を受け入れて消費者と「顔の見える関係」を育んできた。

大内信一さん(右)

放射能が降りそそぐなか、督さんと信一さんは、ほうれん草や小松菜、キャベツなどを引っこ抜き、畑の隅に積み上げた。野菜に対して申し訳ない。むなしくてつらい作業だった。

「もう有機農業はできないのでは……」

督さんは絶望していたが、父の信一さんは違った。

「つくってみなければわからん。だめなら耕耘(こううん)してしまえばいい」

例年と同じように耕し、種をまく。ためらうことなくひとりでどんどん作業を進める。

督さんは父の行動が理解できない。

「こんな状況で種をまいていいのか。1年間様子をみて、研究機関とかの調査結果を待ったほうがよいのでは……」

信一さんは当時なにを考えていたのか。

原発事故後、「外に出るな、放射能が降ってくるんだから」と言われるなか、信一さんはほうれん草畑を見に行った。

雪が解けて最初に種をまくのがほうれん草だ。すでに直径20センチのロゼット状に育ち、地面を緑の葉がおおっている。

「僕らが畑を守ったよ」

ほうれん草が言った。

「なんかおいしくない食べ物がいっぱいあるよ」

「でもおなかがすいたらこれも食べざるをえないなあ~」

おかしな食べ物とは放射性セシウムのことだ。

「やっぱり堆肥の栄養のほうがおいしいな~」

セシウムは食べたくないけれど、腹が減れば食べざるをえない――。

そんなほうれん草の声が聞こえた。軽トラック10台分のほうれん草を捨てながら、ほうれん草が身を犠牲にして土を守ってくれたと感じた。

ほうれん草畑。2011年には土全体をおおっていた

一方、膝ほどの高さまで育っていたネギはこう言った。

「私たちはすべすべしてっから、放射能をまったく受けつけませんよ。根っこからも吸わねから、すぐに食べられるよ」

ほうれん草や小松菜からは1キロあたり800から1000ベクレルのセシウムが検出されたが、ネギは水洗いすれば放射能は検出されず、4月から出荷できるようになった。

「ネギは肌がすべすべで、病気になっても農薬がすべって流れるから効かないと言われています。そういう知識があるから、おやじはネギがそう言ったように感じたんでしょう」

督さんは振り返る。

東北地方は数年に一度、お盆でもこたつがほしくなるほどの大冷害に見舞われてきた。常識では、夏の気温が15度以下では稲は花粉ができず結実しない。ところがそんな年でも、ふだんの2割程度は実が詰まっていた。

「おう、お前たちどうしたの!」

信一さんが稲に尋ねると、「寒い夏に、みんなで生きたら全滅するぞって相談して『俺はここで死ぬけど、お前は元気そうだから生きて子孫を残せ』と話し合ったんだ……」。

そんな稲の声が聞こえたという。

「大冷害のときも原発事故のときも、私は作物の声が聞こえたと思った。だから作物の強さとか、賢さを信用してみようと思いました」

2013年に開かれた講演会で信一さんは語った。

産直の危機。「消費者」は去っていった

取引先の生協などの組織は「測定器で測って(放射能が)出なければ扱います」と言ってくれた。福島を応援する雰囲気もあって、春と夏の野菜はよく売れた。

2011年10月に知事が福島県産米の「安全宣言」をした1カ月後、農家が自主的に測った米から1キロあたり630ベクレルのセシウムが検出された。

検査はザルではないのかという不信が高まり、福島の農産物は大打撃を受けた。

大内さん一家が野菜や米を直接届けていた消費者も6割が離れていった。

「農業を守ろうとつながってきたつもりが、単なる『消費者』になっちゃった。顔の見える関係を大事にしてきたのに、と思うと本当につらかった」と督さん。

でも督さん自身も「自分が消費者だったら離れたかもしれない」とも思った。

田植えを行う督さん

畑からは安達太良山を望む

残った4割の客に野菜を届ける際には「放射能が未検出といってもゼロというわけじゃないんですよ」と説明した。

すると、「大内さんも食べてるんでしょ?」。

「はい」と答えると、「じゃあ大丈夫じゃん」と買ってくれた。

そんな経験を1年間続けてようやく農業を続けていく気になれたという。

「化学肥料や農薬をばんばん使うのが当たり前の時代におやじは有機農業を始めた。有機や無農薬に対するバッシングはすごかったはずです。

『負けてられっか!』という気持ちだったと思う。おやじたちはたくましい。僕らみたいに甘っちょろくないですよ」

大内さんのにんじん畑

チェルノブイリの経験に学び、にんじんに賭けた

大内さんら「二本松有機農業研究会」のメンバーは震災の2年前から、余ったにんじんを少しずつジュースに加工していた。

原発事故で米や野菜が売れなくなったとき、信一さんはにんじんに着目した。

チェルノブイリの経験で、にんじんやきゅうり、トマトは土壌のセシウムを吸収しにくいことがわかっていたからだ。信一さんは研究会で提案した。

「にんじんで勝負しよう」

「会長(当時)がそう言うなら」

震災4カ月後の2011年夏にいっせいににんじんの種をまいた。

督さんはその方針に反対だった。それでなくても福島の米や野菜は風評被害で売れない。

ジュースが売れ残って在庫が積み上がったら大変なことになる。そう心配したが、信一さんはためらうことなくにんじん畑を広げた。

いまや、研究会のメンバーのうち、7軒が1町(1ヘクタール)の畑でにんじんをつくっている。

収穫したにんじんを持つ信一さん

収穫したにんじんを洗浄する

ジュースは、すりおろした実を細かいメッシュフィルターでうらごしして果肉もまるごと瓶詰めする。

酸化防止剤がわりのレモン果汁と梅エキスを加えるだけ。砂糖を加えていないのに果物のように甘い。督さんは振り返る。

「おやじは勝負師ですね。俺だったら怖くてあの判断はできなかった。自分で育てたにんじんの味に絶対の自信があったんでしょうね」

後編につづく

取材・文・撮影/藤井 満

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