1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

〈写真で振り返る東日本大震災〉原発事故から避難した酪農夫婦を待っていた現実「牛は愛玩動物ではなく生きるための資源」「私たちはもう被災者でもない」牧場用の土地を買って新たな生活へ

集英社オンライン / 2023年3月7日 12時1分

震災によって牛舎と約90頭の乳牛を放棄せざるを得なくなった福島県浪江町の三瓶さん夫婦。80キロ離れた避難先の猪苗代町で牛を思って枕を濡らす夜。そして転居して1週間がすぎたある日、親戚から1本の電話が来る。その親戚の言葉を聞いて、恵子さんの心は激しく高鳴った。

「牛は愛玩動物じゃない。生きるための資源」

「牛、まだ生きてるぞ」

三瓶夫妻が避難し誰もいなくなった自宅の居間(2011年6月撮影)

気づくと夫婦は持っているものを全て投げ出すかのようにして、浪江町に向かっていた。
自宅に着いたが、牛舎の入り口で足が止まった。牛に対して申し訳ないという気持ちで、心が締め付けられる思いがした。

「すみません、自分ばっかり逃げて」



牛に謝る恵子さんは、牛たちの顔を直視できなかったという。だが、恵子さんの不安をよそに、繋がれた紐に絡まって死んだ1頭を除き、残りの牛は全て無事だった。猪苗代町に避難する1日前に生まれたばかりの仔牛まで生きていたのだ。

「猪苗代で生活していても、耳の奥で牛の声が聞こえてくるんだよ」

そう話す恵子さんの唇は、かすかに震えていた。
浪江町に戻ると、夫婦は6月頃まで牛の世話を続けた。近隣には、誰かが逃がした牛などの家畜が闊歩していたそうだ。

「動物愛護を訴えるNGOが、可哀そうだという理由で、繋がれている牛を見つけては、紐を切って勝手に小屋から逃がしていたようです」(写真家・郡山氏)

三瓶さんの元には、メディアも度々取材に訪れた。

「牛、可哀そうでしたね。牛も家族ですものね」

原発事故直後に避難してしまった牛舎の外には白骨化した牛の死骸が放置されたままだった(2011年12月撮影)

避難生活を美談にしたかったのだろうか。記者らは、三瓶さん夫婦に、そんな問いかけをしたそうだ。だが、それは三瓶さんにとって的外れな問いかけだった。
恵子さんがいう。

「牛は愛玩動物じゃないの。牛は我々が生きるための資源で、経済動物なの。乳が絞れなくなれば、餌を多くやって脂肪をつけさせてから屠畜する。そのお肉を人間がいただくわけでしょ。人のためになる牛。だから、単純に可哀そうだけでは済まされない。酪農家には、牛を飼っている責任がある。我々にとって、そこはきちんとした線引きがあるんだ」

酪農を廃業して新たな生活をスタート

そして当時の心境をこう続けた。

「猪苗代に避難する前、私は『牛、殺してから行くっぺ』とお父さんに言ったほど。もし牛を殺せる注射器と薬があれば、このまま殺してあげたいと思ったんです。
ただ残念ながら、そういう道具もなくてね。乳牛は野生動物ではない。だから自分の力だけでは生きていけない。私ら人間が100%管理して、人間のルールの中で人の役に立たせる動物。殺してあげようと思ったのも、愛情なんです」

搾乳作業を行う。牛乳の出荷は出来ないが、牛のために毎日2回の搾乳作業は欠かすことは出来ない(2011年5月撮影)

5月になると、三瓶さん一家は、内陸へ約30kmの距離にある福島県本宮市に引っ越した。牛舎を借り、津島の牛舎で飼っていた牛を移動させた。そして親戚と共同で酪農を続けることになったのだ。
ところが、牛乳の出荷は禁じられ、搾乳しても廃棄処分する日々が続いた。

「酪農以外、私たちに何ができるのか……」

当時の三瓶さんは、郡山氏に自身の心境を、そう吐露している。東電からの補償金が入ったものの、酪農での収入は途絶え、それでも、なんとか生活を続けていた。そして震災から5年目にあたる2016年、夫婦は遂に大きな決断をする。

「もう酪農は無理だ」

廃業を決意した三瓶さん一家は、この12年で何もかもが変わった。

一家は福島県大玉村に移り住み、自宅から車で10分ほどの場所に牧場用の土地を買い、新たな生活を始めた。三瓶さん自ら整地を行い、厩舎も建てた。そこで安価な馬を2頭飼って、夫婦で愛情たっぷりに馬の世話をして暮らす日々だ。

馬を運動させる三瓶さん(2017年3月撮影)

「私たちは動物が好きだからね」

「俺はここで暮らしていくから。前向きに」

恵子さんは馬を飼った理由をそう話すが、馬の数は次第に増え、現在は9頭になる。競走馬を預かって世話もしている。乗馬を楽しみたい地域のお客さんや、馬好きな人々が、三瓶さん夫婦の周りに集まるようになった。昼時は、茶菓子を囲んで、集まったお客さんたちと談笑するのが日課だ。朴訥な性格の三瓶さんの口数も増えた。

浪江町立請戸小学校の体育館にある時計は津波が襲った時間で止まっていた(2011年10月撮影)

「大玉村で馬の世話を始めるようになってから、夫婦に笑顔が増えた」

12年前から夫婦を撮る郡山氏もそう話す。

92歳になる三瓶さんの母・安子さんは4、5年前から認知機能の低下がみられ始めた。津島で暮らしていた頃は、家の横の畑で作業をするのが大好きだった明るい性格の安子さん。かつて、郡山氏にも「土いじりがしたいなぁ」と漏らしていたこともある。
だが、今では息子である三瓶さんの名前もわからない。もちろん、故郷のことも忘れてしまっているだろうと恵子さんは言う。昨年5月から安子さんは昼夜の生活が逆転しはじめ、今年2月、家族と離れて介護施設に入居した。

この12年で三瓶さん夫婦には孫もできた。そして大玉村には、三瓶さんの元に集まるお客さんや、近所のひとたちとのコミュニティーが生まれた。

孫たちと年末のひとときを過ごす(2017年12月撮影)

「震災に遭った私たちは、ある時までは可哀そうな人だったかもしれない。だけど、ある時からは、もう被災者でもないと思っていますよ」(恵子さん)

目深に被った黒いニット帽から日焼けした顔をのぞかせる三瓶さんに、確かめるようにこう問うてみた。

また故郷に戻って暮らしたいですか?

すると彼は首を横に振りながら力強く言った。

新たな生活を送っている三瓶さん夫婦(2023年2月撮影)

「俺はここで暮らしていくから。前向きに。それなりに」

取材・文/甚野博則
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください