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三方ヶ原の戦いで家康は信玄に負けてなかった? 「逃亡中の脱糞」逸話も後世の作り話? 家康最大の危機に“新説”!? 地元歴史家は「信長に気をつかって惨敗と報告」

集英社オンライン / 2023年3月19日 11時1分

大河ドラマ『どうする家康』では、いよいよ阿部寛演じる武田信玄がストーリーの中心に。これから武田信玄による駿河侵攻が始まるわけだが、そのなかでも特に有名なのが三方ヶ原の戦い。一般的には家康が信玄に惨敗し、落ちのびる途中、馬上で恐怖のあまり脱糞したと伝えられているが、その説に待ったをかける人物が現れた。

三方ヶ原とはどんな土地?

徳川家康75年の生涯において“最大の危機”とされるのが徳川軍と武田軍が激突した「三方ヶ原の戦い」だ。1573年(元亀3年)12月におこったこの戦いは、武田信玄率いる2万5000とも3万とも言われる軍勢を、徳川勢8000と織田信長軍から派遣された援軍3000で迎え討ち、徳川軍の惨敗に終わったことは有名だ。



当時の家康は31歳。現在の静岡県浜松市にある浜松城を拠点とし、織田信長と同盟を結んでいた。そこへ、上洛するために甲府を出陣し、徳川方の城や砦を次々と落とし西上していた武田軍が浜松城に迫ってきた。

籠城を勧める部下たちの反対を押し切り、家康は浜松城から討って出たところ、当時最強と言われた武田軍に完膚なきまでに叩きのめされ、部下に身代わりになってもらいながら命からがら浜松城まで逃げ帰ったのだ。

三方ヶ原古戦場後に建てられた石碑

両軍がぶつかった合戦場は、浜松城の北西に広がる三方原台地と呼ばれる場所だ。

「三方原台地は“暴れ天龍”とも呼ばれていた天竜川の河口にできた扇状地が地殻変動などで隆起したあと、さらにそこを長年に渡って天竜川が削り取ることによって残った洪積台地です。

東西約10キロ、南北約15キロに広がり、標高は最も高いところで100メートルを超えます。台地上には河川がなく、土地も痩せていたため農地には向かず、明治時代になるまでは藪が茂り、狐や狸ばかりが住むような荒れた土地だったそうです」(地元の郷土研究家)

明治に入ると治水事業が進み、畑が広がるようになり、三方原茶園やじゃがいもが全国に知られるようになったという。現在は宅地や商業地域が広がり、航空自衛隊浜松基地も位置している。

百戦錬磨の信玄の術中に見事はまり…

家康はどんなふうに三方ヶ原の戦いで完敗したのか。これまでの通説によれば、武田軍がこの三方原台地に上がり、一旦は南側にある浜松城に攻め込むと見せかけながら、くるりと方向を変えて西へ向かったという。

さらに、家康に背中を見せるように台地の北側にある祝田坂(ほうだざか)を降り始めたところ、その知らせを聞いた家康が信玄に挑発されたと憤慨し、籠城を進言する部下の反対を押し切って浜松城から出陣した。

武田軍に背後から襲いかかるべく三方原台地に駆け上がった徳川軍だが、そこで驚愕の光景を目にすることになる。狭い祝田坂を下っているはずの武田軍が、見事なまでに陣を整え、待ち構えていたのだ。百戦錬磨の武田信玄にまんまと騙され、城からおびき出された徳川軍はわずか2時間ほどで総崩れとなった。

浜松城に逃げ帰った徳川家康がこの松に鎧をかけて木陰で休んだという伝承が伝わる(現在見られる松は3代目)

わずかな部下に助けられながら、家康は命からがら浜松城へと逃げ帰った。家康の兜を被り、身代わりとなって首を獲られた武将もいる。その際、家康はあまりの恐怖のために馬上で糞を漏らしまい、城にたどり着いた後、それを部下に指摘され「これは味噌だ!」と叫んだといった逸話も残っている。

また、二度とこのような負け戦をしないよう己への戒めにするため、「しかめ(顰)像」を描かせた話は有名だ。しかめっ面で頬杖をつき、足を組んだ姿の家康の肖像画を誰もが一度は目にしているはずである。

実は三方ヶ原では脱糞していなかった?

だが近年、この馬上での脱糞や、しかめ像を家康が描かせたというのは、史実ではないとの指摘が出ている。

家康が馬上で脱糞したとの記述が残っているのは、『三河後風土記』だが、この資料は寛永・正保年間(1624年~1648年)以後に書かれたものとされている。そこには、この脱糞の逸話は三方ヶ原の戦いの2か月前に武田方と徳川方が衝突した「一言坂の戦い」でのことと記されているのだ。

ところが史実では家康自身は一言坂へ出陣していない。そもそも三方ヶ原から逃げ帰る際に漏らした、という話はどこにも残っておらず、どうやらこの逸話は後世の創作である可能性が高いのだ。

三方ヶ原の戦いについて学べる浜松市犀ヶ崖資料館

しかめ像も同様だ。「東照宮尊影」とはあるものの「家康が描かせた」との記述は一切見つかっておらず、初代尾張藩主の徳川義直が描かせたとの見方が有力だという。

さらに徳川美術館によれば、昭和10年開館の翌年、当時の尾張徳川家9代目当主徳川義親氏が地元新聞社の取材時に「家康の苦難を忘れないように」と話したことが、いつの間にか家康自らが描かせた、という話になってしまったのだそうだ。

こうした指摘が出てきたことにより、浜松市博物館や、家康の生まれ故郷である岡崎市などでは、展示方法の見直しを始めている。

逸話ばかりだけではない。家康ゆかりの地である浜松では、「家康は三方ヶ原は負けてなかった」との見方まである。地元の歴史愛好家は、こんな説を述べている。

信長への建前として負けたことに…

「三方ヶ原の戦いは、実は謎が多い戦いと言われています。家康の敗走時にはいろいろな逸話が残りますが、敗走中に腹が減って茶屋で小豆餅を食べたが代金を払わずに去ったとか、後世の創作と思われるようなものが多いのです。

家康は惨敗したというものの、実は両軍の死者数は資料によって大きな隔たりがあります。家康は、三方ヶ原の戦いの結果について、信長に『負けた』と言わなければならない理由があったのだと思います。

その一番の理由は、織田援軍として参戦した平手汎秀(ひらて・ひろひで)が討死したことです。信長は平手汎秀を非常に高く評価しており、なぜ守れなかったのかとなる。なので徳川軍が武田軍と互角に戦ったなどとは、口が裂けても言えないでしょう」

加えて、徳川軍の敗走には別の見方もあるという。

「徳川軍の陣はたしかに崩されたと思いますが、そもそも軍勢の数で敵わないことは家康は百も承知のはずです。そこであえて敗走しながら、武田軍を犀ヶ崖へと誘導したのではないかと考えています。

通説では浜松城に逃げ帰った家康が一矢報いようと武田軍に夜襲をかけ、犀ヶ崖へとおびきよせて転落させたとされています。崖に白い布を貼って橋に見せかけ、これに殺到した武田軍は次々と崖底へ落ちてしまったとされていますが、夜間とは言え、それほどうまく騙せるものなのか。なんらかの準備をしていたのではないかと考えてもいいのではないでしょうか」(地元の歴史愛好家)

家康の策略により武田軍が次々と崖底に落ちていったという説がある犀ヶ崖

浜松では、こうした“家康は負けてない”という家康びいきの説がそこかしこで見られる。
また、浜松市内の小中学校の運動会で行われる騎馬戦には、他の地域にない特徴があるという。

「白組紅組のように、まず徳川軍と武田軍に分かれます。最初に相手の帽子を取り合う普通の騎馬戦を行い、次に三方ヶ原の戦いを模した『城落とし』が始まります。敵陣の模型のお城に向かって玉入れの玉を投げつける競技です。中心に命中させると、模型の中に仕込んである装置が作動して爆発音がなり、白煙が上がります。早く爆発させた方が勝ち。
浜松に育った我々はこれが一般的な競技だと思っていましたが、この地域ならではの文化と知って驚いた記憶があります」(40代・三方原地区小中学校の卒業生)

松潤も驚きの“家康愛”。
実際に三方ヶ原の戦いで勝っていようが負けていようが、浜松市民はやっぱり家康が好きで好きでたまらないのだ。

取材・文/神保順紀
集英社オンライン編集部ニュース班

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