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「圧倒的な防衛省マネーが島の価値観を変えてしまった」自衛隊配備の進む与那国島で今、起こっていること

集英社オンライン / 2023年3月17日 15時1分

台湾から110km、石垣島から127km。日本最西端の与那国は人口約1700人の国境離島だ。中国の軍事的な台頭で緊張が高まるなか、2016年には自衛隊与那国駐屯地が開局し、今や自衛隊関係者が人口の15%を占めるまでに。「事実上、国がやりたい放題できる島」ともいわれるこの地で今、何が起こっているのか?

自衛隊配備が3月に迫る石垣島から飛行機で35分。日本最西端の島、与那国島へ飛ぶ。定員50人のプロペラ機は観光バスをひと回り大きくしたような外観で、心細さと旅の浪漫をかき立てる。

離陸するとすぐに窓から西表島の雄大な自然が見える。それをうっとりと眺める時間が過ぎると、激しく荒れ狂う海が広がる。絶海とはこのことだろう。俗世から切り離されて、異界へと放り出されるような感覚に眩暈がする。しばらく飛ぶと機体が激しく揺れる。



荒々しい雲の切れ目に、まるで幻のように与那国島の横顔が見えた。険しく切り立った断崖に囲まれ、人間を拒むような厳しさを感じさせる。機内アナウンスが一度目の着陸の失敗を告げる。半時間ほど空中を旋回した後、再度着陸を試みるが、「これに失敗したら石垣空港に引き返す」との乗務員のアナウンスがある。祈るような気分だ。窓の外の荒れ狂う海を眺めながら、「渡難」(どぅなん)と呼ばれてきたこの島の歴史を想う。渡り難き島と呼ばれてきた孤島は、21世紀になり文明が発達した今もその面影を残している。

到着時刻をだいぶオーバーして、どうにか揺れながら着陸できたが、この島に私が来ることを望まれていないような不思議な気配は、その後もずっと続くことになる。

図版作成/海野智

天然記念物の与那国馬。約130頭が飼育され、島の大部分は牧場となっている。

晴れの日には台湾が目視できる国境の島、与那国。人口約1700人。台湾からは110km、石垣島からは127km。台湾の方が近いことに驚く。周囲27km、自動車であれば1時間足らずで一周できる。町役場のある祖納、日本最西端の漁港の久部良、南部の比川の3つの集落がある。

映画化もされたドラマ「Dr.コトー診療所」のロケ地としても知られている絶景の島。島の東南には海底地形(遺跡)もあり、これが人工物か否かにはいまだに議論がある。もし仮に人工物だった場合、日本史、いや世界史を大きく揺るがす存在とも言われているが、真相は謎のままだ。なぜか島内にハブが生息していなかったり、この島には不思議なことが多い。

ミーニシ(新北風)と呼ばれる季節風の吹く秋から冬にかけては、ハンマーヘッドシャークの群れを見るためのダイバーが詰めかける。私もいくつかの宿に泊まったが、宿泊客のほとんどがダイバーと自衛隊の工事関係者で埋まる。観光客は1割にも満たないので島内に10軒ほどある民宿は予約が取れない状態だが、集落で観光客に出会うことはほとんどなかった。

自衛隊関係者が人口の15%! 事実上、国がやりたい放題できる島

2015年、自衛隊レーダー基地配備に関する住民投票が行われ、結果は賛成632票、反対445票で賛成が上回り、2016年に自衛隊与那国駐屯地が開局。沿岸監視部隊などが置かれ、160名の自衛隊員とその関係者の計250名が島へ移住し住民の15%を占めた。

この住民投票は、すでに基地建設工事着工後の実施だったため、すでに不可逆なムードの中の投票だったとある住民が話してくれた。さらに、住民投票一週間前の産経新聞を引用しよう。

“何を根拠にしているか定かではないが、こんな横断幕も掲げられていた。

「自衛隊基地ができたら米軍もやって来る!」

反対派議員の一人も産経新聞の取材に同じような主張をしたため、その根拠を聞いたが、まったく要領を得なかった。中略 「反辺野古」の勢いを陸自配備の住民投票に引き込みたいがために、何の根拠もなく米軍が展開してくる可能性があると主張しているのであれば、町民に理性ある判断を仰ぐ姿勢とは程遠い。邪の極みといっても過言ではあるまい。”(産経新聞2015/2/15)

昨年、2022年12月。自衛隊と米軍の共同訓練が開始され、公道を戦闘車両が通行。与那国島に米軍が来たのだ。住民投票から7年。産経新聞の論調を信じていた人々の気持ちは裏切られた。今になってみれば「町民に理性ある判断を仰ぐ姿勢とは程遠い。邪の極み。」とまでメディアに批判された反対住民の主張が、実は正しかったことになる。

そして昨年12月26日、防衛省は与那国島への地対空誘導弾部隊、電子戦部隊の配備計画を発表。2023年度予算に土地取得費用を盛り込んだ。政府が決定した防衛費倍増の具体的な結果がすぐさま反映された形だ。

これにより駐屯地は拡張され、駐留する隊員も大幅に増える見込みだが、もちろん住民との合意は成されていない。まして現時点ですでに1700人の人口の15%を自衛隊関係者が占めていることにより、防衛省の意に反する選挙や住民投票での意思表示もままならない状況がある。

「(自衛隊関係者の駐留により)事実上、国がやりたい放題できる島になってしまいました。住民の自治が機能しない状態を作られたのです。」自衛隊配備に反対していたある島民男性は暗い表情で語った。

与那国島に着いて初めの夜、私はひどい胸騒ぎを覚えた。それはこの島を取り囲む強すぎる自然のバイブスや、集落の中まで轟いてくる海鳴りへの畏怖だけではなく、なにやら得体の知れない不安感だった。闇の向こうから何かが私を監視しているような嫌な感覚。それは2020年にBLM(Black Lives Matter)の取材で米国、シアトルの自治区を訪れたある夜の違和感を想起させた。その不穏な夜、私は深夜に2発の銃声を聞き、翌日、BLMの自治区で2名の黒人少年が銃殺されたことを知った。あの夜の嫌な雰囲気と与那国の夜の空気はなぜかとても似ていた。

外は嵐、轟音で海風が吹き抜ける。殺風景な飯場のような民宿の一室で、震えるような気持ちで照明を付けたまま眠った。

翌朝、目覚めると、民宿の玄関にあった私のナイキのスニーカーが消えていた。まったく釈然としない事態に直面し、私は混乱した。私は集落の雰囲気に気圧されて警察に被害届を出すことを躊躇った。その時、この島には警官が2名しかいないことに気づいた。現在は警官2名に対して自衛官150人の島である。とても奇妙なバランスだ。

困り果てて石垣島の友人に連絡すると、御守りの作り方を教わった。米と塩を混ぜてそれを常に携帯すること、少しでも嫌な気配を感じたらその塩を舐めること。こうして与那国島取材は不吉なスタートとなった。結局、この島に滞在中、私はこの塩をフリスクぐらいの頻度で口にすることになる。

琉球王府による与那国島の過酷な歴史

私がこの島に来るのは実は30年ぶりだ。子どもの頃、2度ほど訪れた記憶がある。沖縄の離島(この言葉には賛否あるが、与那国の人々の許可を取った上で使用する)で夏を過ごすというのが、私の家族の習慣だった。この島で巨大なカジキマグロの水揚げを見たり、漁師のおじいさんの原付の荷台に乗って、生まれて初めてスナックに行ってカラオケを歌ったり、アンガマーと呼ばれる祭りに参加したり、特殊な少年時代を過ごした。

なかでも世界最大の蛾であるヨナグニサンの群れが飛ぶ光景は今でも脳裏に焼き付いている。90年代中盤のその頃は、石垣島と台湾をつなぐ定期便があったことで島内にも台湾人旅客や商売人の姿があり、それが活気につながっていた。

この島の数奇な歴史は子ども心に衝撃的だった。日本最西端の漁港、久部良集落の外れの断崖に、久部良バリと呼ばれる岩の裂け目がある。

久部良バリ、どれだけの数の島民がここで命を落としたことだろう。

15世紀、この島はサンアイイソバという女傑が統治していたとされる。1500年頃、首里の琉球王府は石垣島を制圧。さらに1522年頃には与那国も制圧され、琉球王府の支配下に入る。

そして1609年、薩摩藩の琉球侵攻により悲劇が始まる。1611年、薩摩藩の役人が検地を行い、そこから人口に応じて徴税される「人頭税」が開始された。この重税に苦しんだ島民たちは、人口を抑制するためいわゆる「間引き」を行う。妊婦を久部良バリに集め、この岩の裂け目を飛び越えさせた。幅3m、深さ8mのこの亀裂を飛び越えられなければ妊婦は胎児ともども転落死する。運よく飛び越えられても、ほとんどが流産してしまう。筆舌に尽くし難い悲惨な歴史だ。

一方で男性には人桝田(トゥングダ)という死の試練があった。銅鑼や法螺貝の音が突然鳴り響くと15歳から50歳の男たちは皆、島の中央にある田んぼに集まらなければならなかった。制限時間に遅れた者たちはその場で首をはねられたという。病人や障がいのある者たちは「生産性」を問われ、こうして重税のために殺されていった。

現在は「Dr.コトー診療所」のロケ地として観光客が訪れる与那国南部、比川集落の人々もこの重税から逃れるため、さらに南にあるとされる楽土「はいどぅなん(南与那国島)」へ集団で逃避したとの伝承がある。人々は一体どこに辿り着いたのだろうか。深い悲しみが込み上げる話ばかりである。

先島や八重山の島々を苦しめたこの人頭税は1637年から1903年まで続いた。明治時代になってもこの税制が残っていたことに驚く。この人頭税廃止も当時の沖縄県民たちの強い抗議運動によって達成されたもので、島民の代表は嫌がらせを受けながら東京の帝国議会にまでおもむき、請願書を提出した。

辺境のこの島はいつも大国に翻弄されてきたのだ。人頭税に関する琉球と薩摩からの二重の植民地支配を考えると、どうしても今の沖縄の日本と米国からの二重の植民地支配構造が頭をよぎる。

こうした悲しみの歴史は、私の子ども心に刻みつけられていた。それでも私にとっては美しい思い出の残る島だ。

あの頃、お世話になったおじさんはおじいさんになり、おじいさんだった方は亡くなっていた。当時10歳だった私が40歳になったのだから当然だろう。

あれから30年が経過した今も、この島の海の色は他のどことも違う美しさを見せる。現在、沖縄北部に住んでいる私が見ても驚き、同時に怖くなるような強く鮮やかな自然の美しさだ。

祖納集落の漁港、外海は激しく時化ていた。青い内海の向こうに墓地が見えて異界との境界を思わせる。この島にはまだ一部で土葬や洗骨の風習が残っている。火葬せずに埋葬した遺体を数年後に掘り返し、海で洗ってから再度埋葬する。この儀式によって、死霊が浄化され祖霊となるという。台湾や大陸に近い道教的な死生観だ。そう考えると、この島に漂う死の気配にも納得が行く気がした。

祖納集落、浦野墓地では現在も洗骨が行われており、よそ者が簡単には近づけない雰囲気がある。

自然の純度の高さや霊的な話とは少し違う次元で、この島に漂う息苦しさを感じた。季節のせいだろうか、天候のせいか、薄らと漂う悲しげなムード。私が大人になったからということもあるだろう。しかし、集落の所々にゴミが散乱していたり不穏な空気があるのは確かに思えた。どこか疲れ切った「倦怠」のようなものが渦巻いているのだ。それは賛成と反対で分断され、沈黙を強いられた辺野古の集落と似た静けさだった。

私は異界に旅立ったスニーカーを探すのをあきらめ、サンダルのままで島民たちへの取材を始めた。自衛隊への賛否を問わず、この島の人々の本音が知りたかった。

賛成した人たちも何も聞かされていない

2014年4月、自衛隊基地工事の着工式のため島を訪れた小野寺防衛大臣に向けて、反対する島民から「帰れ!」との声が飛んだ。一方、自民党沖縄県連副会長だった新垣哲司県議は「ナイチャー(内地人)は帰れ!」と反対する住民たちに叫んだ。

「これから自衛隊員という内地人たちを誘致する立場なのに矛盾している」当時を知る島民はそう回想する。

基地誘致賛成派と反対派の対立は激しく、地域住民同士が分断されてしまった。友人や親戚でも意見が割れ、村八分にされる者や反対したことで仕事を失うものもいた。嫌気がさして、島を離れる者もいた。今は時が経ち、表面的に穏やかさを取り戻してはいるが、その傷は癒えず、この島のあらゆるところにトラウマのように残ったままだ。

「米軍が島に来た昨年11月から、島の空気はまた急激に重くなりました。そこに防衛省からさらなる基地建設計画が発表され、再びあの対立の空気が島を包むのではないかと島民たちは動揺しています」

ある島民女性が語ってくれた。私が集落で感じる重い気配の理由の一端が理解できた気がした。

前述したように安保3文書改正と防衛費倍増が決定されると、突如としてこの島へのミサイル基地、電子戦部隊の配備が発表され、さらには空港滑走路の延長や海上自衛隊の軍港の建設案までが浮上している。

「賛成した人間にも何も情報がこない。何も聞かされていない」

島内で自営業を営むある男性はシニカルに言う。

「多くの自衛隊家族が島に駐在し、すでに家族ぐるみの付き合いになっているので、この状態で自衛隊反対を言うのはもう難しいんです」

反対運動をしていた島民女性はそう語る。とくに基地に反対していた住民には、自衛官の家族や縁者から手厚く手紙や贈り物が届くそうだ。

それが個人的な思いやりなのか、防衛省の島民懐柔策の一部なのかはわからないが、狭い島のなかで自衛隊と共存する複雑さを感じさせる。

そして驚くことに自衛隊誘致の旗振り役だった前町長、外間守吉氏は2月18日付の八重山毎日新聞にこう話している。

「監視部隊は国土を守る思いで賛成だったけど、ミサイルや米軍までとは…」

「国防や国策が、島民の心までを傷つけている」

「こんな小さな島にミサイルを配備するのは理不尽なことで、誰が見ても反対する」

「自衛隊は沿岸監視だけで十分。なし崩し的に(防衛省が町民に)物事を強いると、とんでもないことになることを分かってほしい」

前町長の発言に後悔の念を感じとったが、私が子どもの頃にお世話になったある自営業の男性Aさんは「外間さんは言っていることとやっていることの辻褄が合わない。どちらに向けても良い顔がしたいだけじゃないか?」と前町長を批判した。

Aさんのお宅には元自衛官の自民党議員、ヒゲの隊長こと佐藤正久氏のサインが飾られていたので、意外に思い真意を尋ねた。

「賛成も反対も、私たちの意見は聞き入れられない。国が強引に押し進める。そんな中で私たちは生き延びるしかない。腹が立っても長いものに巻かれるしかない。子どもの学費を払うために、基地関連の仕事ももらってでも、必死で生計を立てるしかないんですよ」

その言葉には強い説得力があった。高校のないこの島では、子どもたちは皆、中学卒業と同時に島外へ出る。安定した収入源の乏しいこの島では、その子どもたちの月々の仕送り代に苦労している親がほとんどだ。Aさんの言葉は重く響く。ここで暮らしている人たちを批判する言葉は、島外の私たちには無いと改めて痛感した。

Aさんはミサイル基地建設についても話してくれた。

「いつか私が死んだ後、この島は基地しかない島になるかもしれない」

前述したヒゲの隊長、佐藤正久議員のサインには「絆」と記されていた。いったい誰と誰の絆なんだろうか。

人口減少や経済振興策として誘致されたはずの自衛隊だったが、島民たちにその実感は薄い。自衛隊家族の児童の増加で小学校の複式学級が解消されたが、それも一時的なものだった。台湾有事がメディアで喧伝される中、自衛官も単身赴任が多くなったのだ。

ある島民は語る。

「町長がシェルター配備の必要性を訴え、島外への避難基金が設立された今、常識的に考えて、自衛官もわざわざ島に家族を連れてこようと思わないでしょう。しかも、隊員は3年ほどの周期で異動しますから、島の祭りや伝統文化の担い手にもなりません。ジーンズ姿で神事に参加して問題になったこともありました。人事異動も機密のようで、挨拶もなく突然いなくなってしまう家族もいます。人間関係を一から作っても結局、去っていく。その繰り返しの虚しさはあります」

自衛隊誘致派の人口増加の目論みは期待はずれに終わった。

圧倒的な防衛省マネーが島の価値観を変えた

駐屯地の賃貸料で町に年間1500万円。自衛隊員160名規模の町民税収入が年間約3100万円。町役場が算出した部隊配備の経済効果の一部だ。

建設業などの基地工事関連業者にはお金は落ちたが、一次産業の多いこの島では根本的な経済の活性化には繋がらなかった。

まして誘致に反対した事業者は、手厳しく蚊帳の外に置かれたという。

自衛隊建設のバブルは3年で過ぎて行った。

民宿を営むある50代男性に話を聞いた。

「最近、与那国の宿が取れないという話があるが、それは観光客ではないんです。防衛省が長期で工事関係者の宿泊先をおさえる。しかも通常の宿泊料の3倍以上でおさえる場合もある。私たち民宿経営者からすれば、おいしい話です。観光客のように毎日、部屋の掃除やベッドメイクをする必要もない。長期の借り上げだから空室でも賃料がもらえる。その結果、観光客を断る民宿が多くなってしまった。自衛隊バブルを経て島民たちはカネ、カネ、金の話が増えました。」

「残念ながら観光産業が機能していない状態です。せっかく『Dr.コトー』の映画公開で観光客が大勢興味を持ってくれている時期なのに、受け入れられる宿泊施設が足りない。民宿の多くは工事関係者で埋まってしまい、島で唯一あった大型ホテルもコロナ禍で廃業、今は基地工事関係者専用の宿泊所です。この島の自然や環境、文化的なものを活かした観光産業が風前の灯で、これでは基地依存の島になってしまいます」

もどかしい気持ちを吐露するのは、民宿経営者の女性だ。彼女は防衛省からの部屋の借り上げを今も断っている。

島に移住して20年になる、ある飲食店店主は言う。

「私が来た頃、この島では空き家にすると家が悪くなるからと、物凄く良心的な値段で家を貸してくれることが多かった。お金が中心ではない、もっと牧歌的な共同体がありました。しかし、自衛隊バブルで家がお金になることを知ってしまった。宿泊できる場所が足りないから、無理やりベニヤ板で区切った粗悪なタコ部屋でも防衛省は高額で借りる。この島の価値観は大きく変わってしまった」

私が民宿で感じた、飯場のような雑然とした雰囲気はそういう理由だったのだ。

島に来る建設労働者たちも、下請けの下請け、自分がいつまでいるのかも知らされていない人もいる。代々住んでいる島民か、この島が好きで住み着いた移住者しかいなかった牧歌的な島に、この島に来たくて来たわけじゃない、この島への愛がない人々が労働者としてあふれてしまった。結果、島民たちは集落でも島外の者と挨拶を交わすことを躊躇うようになった。離島独自の地域の共同体は変化してしまった。どこか警戒しながら暮らすことを強いられているように感じた。

比川集落にあるDr.コトー診療所のロケ地。この作品の内容もあり、訪れる観光客は穏やかな人たちで安心感がある。その活気もあってか比川集落には明るい雰囲気がある。しかしこの観光客たちも宿泊場所が少なく、日帰りの人も多い。

この島の地域性を活かした自立ビジョンがあった

私が「沖縄島から取材に来た」と言うと「こんな何も無い島に?」とある島民女性は笑った。この島に対する自己肯定感の低さが気になった。今でこそ人口1700人と、過疎の進むこの島だが、最盛期には人口6000人、実人口が2万人にもなったという時代があった。いわゆる「ケーキ(景気)の時代」だ。

戦後まもなく1945年から1951年のかけてこの島は、台湾や香港、中国大陸やマニラなどと沖縄島、糸満、本部町、そして日本をつなぐ密貿易の中継地点として黄金時代を迎えた。

この時代の話をすると、与那国や八重山のおじいさま、おばあさまたちは目を輝かせる。枕の中の蕎麦殻を抜いて札束を詰めて枕にしたとか、与那国の鶏は落ちた米粒をついばまないほど豊かだったとか、伝説のような話がたくさんある。

「離島」と呼ばれるこの島が、「離島」だからこその地理的ポテンシャルを発揮して格差を逆転させた豪快な時代だ。

この時代の成功体験を踏まえて2005年、与那国町独自の「自立ビジョン」を作成したのは、当時、町役場で経済課長を務めていた田里千代基氏(現町議)だ。姉妹都市である台湾、花蓮市と定期便を結び、貿易や交流をすることで、この島を行き止まりの島ではなく、国際的に人々が往来する文化と経済の交流の島にしようという試みである。

「目で見える場所に人口2千万人を超える台湾の経済圏があり、その先には東アジアがある。考え方を変えれば、この島は辺境ではなくなる」

田里氏はそう熱っぽく話してくれた。

彼を中心とした町役場のプロジェクトチームは国境を越えて奔走し、花蓮市にも事務所を開設。台湾側からのバックアップを受けることにも成功した。実績作りのためにチャーター機も飛ばし、自民党議員へのレクなども積極的に行われた。「どぅなんちま交流・再生プログラム」と名付けられたこの「国境交流特区」構想は今、読んでも新鮮な驚きがある。しかし、2007年、アメリカ軍の掃海艦が2隻、与那国の租納港に入港した。

「あれからすべて変わってしまった。与那国は米軍に目をつけられてしまったのです。あれから今までのことは米国のシナリオ通りに感じる」と田里町議は話す。

2007年の寄港時に在沖米国総領事のケビン・メア氏が「与那国は台湾海峡有事の掃海拠点になりうる」と本国に公電していた事が、後に「ウィキリークス」によって暴露された。

そこからこの「国際交流特区」構想を国は冷遇するようになった。翌年には自民党のヒゲの隊長こと佐藤正久議員が島を訪れるなど、「自立ビジョン」ではなく「自衛隊配備」による地域振興論がこの島を包み込んでいく。

与那国・自立ビジョンを掲げる田里町議。台湾、花蓮市との定期便就航などの取り組みは現在も継続して行われている。

そこで私は、この自衛隊基地に足を運んでみた。ところが、陸上自衛隊与那国駐屯地付近で撮影していると、すぐに自衛隊員が撮影を制止してくる。聞くと撮影していいのは看板のみだという。もちろんそのような法的根拠はない。「写ってはいけないものがある」との説明を受けたが、写ってはいけないものがあるなら隠しておいてほしい。よくわからない理屈だ。

奥には小銃を持った自衛官が静かにこちらを見つめていた。住民と自衛隊員が酔って喧嘩騒ぎになったという噂も聞いたが、公には事件化していないようだ。

自衛隊与那国駐屯地。付近での撮影は厳しく制止されるが法的な根拠はない。中には小銃を構えた自衛隊員がいた。

民主主義を奪いながら造られた基地が守るものはなんなのか

昨年12月、糸数健一町長は政府に対し、与那国空港の滑走路延長と比川集落への新港の建設を要望した。島民避難のためという名目だが、この要望はなぜか米軍や防衛省の計画と一致している。

「東京に行くたびに意見が変わる」と島民から揶揄されている糸数町長は、昨年の安倍晋三氏の国葬に沖縄県内で唯一、個人として招待状が届いた人物だ。島民避難の基金を開設し、人口増加や経済振興のための基地配備との言説との矛盾を感じさせる。

自衛隊与那国駐屯地は広大な牧場に囲まれた場所に位置する。

私はある集落でダイバーたちの飲み会に交えてもらった。海中の美しい写真などを見せてくれる心優しき人々であったが、自衛隊配備の話をふると、県外から訪れたあるダイバーはこう言った。

「国防のために基地ができて、島民がいなくなるのはしょうがないですよ。離島の経済は苦しいし、島民がいない方が海もきれいになる」

私はこの言葉に絶句した。「島民が聞いたら傷つくと思いますよ……」そう返すのがやっとだった。島の民宿に泊まり、港からの船でダイビングを楽しみ、島民の築いた文化に恩恵を受けながら、よくもこのような島民軽視の発言ができるものだ。

私は凍てつくような冷たさを彼の言葉から感じ取ったが、沖縄県外の人間たちの中ではある程度、浸透してしまった言説のように感じた。台湾有事ありき、それは避けることができないかのような報道に染まり、思考停止してしまう人々の存在を現実的に感じた瞬間だった。

「自衛隊賛成派はもちろんいろんな利益がもらえますけど、反対派だってお金もらっているでしょう? 辺野古の座り込みだって日当が出るわけで」

ある島民の言葉に唖然とした。辺野古から遠く離れた与那国にも、基地反対住民は日当がもらえると思い込んだ人々がいる。ちなみにその方はインボイス制度に反対だという。そういう感覚の人ですら、辺野古日当デマを信じ込み、それを与那国の基地反対住民にまで当てはめてしまうのだ。

正しい情報がないまま、人々は選択し決断する。これは与那国だけではなく、日本全土が侵された重い病理のように思う。

昨年1月、元自衛隊統合幕僚長、河野克俊氏が台湾有事に備え、与那国への自衛隊配備の必要性を語る記事を見つけた。統合幕僚長とは自衛隊の最高幹部であるから、その言葉には一見大きな説得力があるが、そのネット記事をよく読むと、旧統一教会系のサイトだった。安倍晋三氏殺害事件より前で、旧統一教会問題をメディアが取り上げる前とはいえ、自衛隊の元最高幹部が一宗教団体のサイトにまで登場する姿は異常に思えた。

台湾有事の危機を煽り、防衛費倍増を叫ぶ人の言論の背景に何があるのか、前回記事の「防衛省インフルエンサー接触計画」などを踏まえ、私たち有権者はもう一度、注意深く観察する必要があるのではないか。

「ここには人が暮らしています。生活しています。最近の流れは、自分たちに決定権がないような無力感を感じます。ミサイルの話ばかりじゃないんです。独特の自然や育まれてきた伝統や文化もあります。この島にずっと住み続けたいし、住める島であってほしいから、試行錯誤しています」

そう語る30代の島民女性は「東アジアの緊張緩和を求めて」という台湾有事を避けるためのシンポジウムを島内で企画した。自衛隊への賛成反対ではなく、有事を避けることは皆で取り組めるのではないか? むしろ自衛隊員も自衛隊家族も有事を望むものはいないはずなのだから、そんな想いだった。

昨年8月、与那国には初めての図書館ができた。

責任者の田里鳴子さんは、この図書館を開くために司書の資格まで取得し、行政と連携して事業を立ち上げた。この島の文化や伝統を子どもたちに教育してこなかった。このままでは時代とともに大切なものが消失してしまう。そんな危機感が彼女を突き動かしていた。今では、この図書館は郷土資料などを取り揃え、歴史をつなぐ重要な場所となっている。

共同体が変容し、民主主義が機能しづらくなってしまった島で、それでも人々は人間の知性を後世につないでいく。その姿は涙ぐましく映る。

「異次元の少子化対策」と銘打った子ども予算倍増は、今国会でどうやら骨抜きになりそうだ。

一方で閣議決定された防衛費倍増は、政府と軍事産業の結びつきが倍になることでもある。今後の日本政府の意思決定には軍産複合体がより大きな影響を与えることになるだろう。これにはシビリアンコントロールが溶かされるような不安がある。

25年後、日本の人口は1億人を下回るとの試算がある。防衛という「壁」だけ高くして、その中には人がまばらになってしまう、そんな空虚な未来が見える。

政府は敵基地攻撃能力を持つ巡航ミサイル、トマホークを400発購入したことを、先日の国会で明らかにした。

沖縄島、うるま市の自衛隊勝連駐屯地にもミサイル配備計画があり、数百人単位での大幅な増強が予定されている。今月、ミサイル基地が完成する石垣島、さらにはすでに配備された宮古島、奄美。これらの自衛隊基地も当然、米軍との共同使用が予測できる。この島々は重要土地規制法の特別注視区域に指定され、住民の行動が大幅に制限される懸念がある。

辺野古の新基地建設への反対票が71.7%を占めた県民投票から4年が過ぎた今、琉球弧には実質的に軍事基地が増えている。

民主主義を奪いながら造られた基地が守るものはなんなのか。

「国防」や「有事」という言葉に思考停止せずに、我々はこの国の在り方を見つめなければならない。

「今、ここにある本を読んでほしいのは、本当は大人たち、政治家たちですね」

与那国に図書館を開いた田里鳴子さんはそうつぶやいた。

だが、2023年3月5日には、反対する市民たちを機動隊が排除しながら、石垣島には200台の自衛隊車両が配備された。

島々に暮らす人々の存在を私たちは忘れてはいけない。

祖納集落、なんた浜からの夕暮れ。最西端のこの島では日本最後の夕陽が沈む。

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