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「過去の自分と線で繋がっているわけではないから、ある時点の自分と考え方を戦わせたり混ぜたりして思いとどまることもある」今の自分は最新だけど、いちばん正しいとは思えない――又吉直樹の“時間と人間”

集英社オンライン / 2023年3月26日 13時1分

『東京百景』以来10年ぶりとなる又吉直樹のエッセイ集『月と散文』が刊行された。前編に続いて、後編では「時間と共に変化するもの」と「変わらないもの」について聞いた。(第2回/全2回)

――「草食系男子/肉食系男子」という言葉を取り上げたエッセイ「ほんまは怒ってないで」で「誰かの人生の一定期間を指して、『あの時、彼は肉食系男子だった』という言葉は既に破綻している」「一時的な状態を生涯その人に背負わせるのはおかしい」と書かれていました。

エッセイの本筋からは外れますが、物を書いたり表現したりする人は「一時的な状態を生涯背負わされる」事態が発生しやすいと思います。「あのときはこう言っていた」「かつてはこう書いてたのに」と言われるとき、又吉さんはどう感じますか?



そういうことを言う人、よくわからないんですよね。それって、人間が時間経てば変化するとか、周りの影響を受けて良くなったり悪くなったりするっていう大前提、世界の理(ことわり)みたいなものを無視してるじゃないですか。

ほんまの意味で言ってることがずっと変わらない人って、「言うこと変えんとこ」って決めてしまってる可能性も結構あると思います。

それは僕はいらないかな、と。根底にある「こういう材料が揃ってたらこういうクオリティの料理を出す」っていう腕とか素質のようなものが一定であれば、つくるものは変わるやろ、と思います。

昔できなかったことが、時間が経ってもっと何か別のものがつくれるようになったりするじゃないですか。

――受け取り手の中には、好きだと思っていたものが変わっていってしまうのが寂しい、という感覚を持つ人もいると思います。

もちろん、あるロックバンドがずっと同じ音楽性でやり続けるようなスタイルは、それはそれでかっこいいと思います。

でもそれは変わらないことをやろうと決めた覚悟がかっこいいのであって、変わることが格好悪いことではまったくない。好みとしては、変わっていったほうがかっこいいと僕は思ってしまうんで。

ただ、変わっていって変わっていって、 “今”がいちばん最新の自分であることはたしかなんですけど、それが最高の自分かどうかはわからんって思ってるんですよね。

3年前のほうが面白かったかもしれないし、どこかの部分では過去の自分に負けてるところは必ずある。

だから、今の僕が何か「こうしたい」と思ってても「5年前の自分やったらどう考えるかな」とか「10年前の自分だったら」「デビューしたての頃の自分だったら」って、一回その当時の自分の考え方を尊重するんです。

“点”において平等というか。過去の時点の自分と考え方を戦わせたり混ぜたりして、「今の自分はこうしたいけどこうじゃないかもな」って思いとどまることは結構ありますね。

エッセイは漫談で、小説は漫才、脚本はコント

――なるほど。どちらかというと、“点”ではなく、“線”で捉えている人が多い気がします。

自分も含めてですけど、ある程度経験を積んでしまうと「いや、これはこうやから」「それやっても無駄やから」とか、経験から導き出した結論めいたものを言いがちじゃないですか。

でもそれって必ずしも正しいとは限らないというか、そういうのに対して「うるさいな、言うこと聞くもんか」って思ってやりたいようにやった結果うまくいったことも若い頃にあったんで。

経験を積んでリスクに敏感になってくると、何かやろうと思ってもいろいろ考えた結果「やめとこか」ってなることが増えますよね。

でもどこかではやっぱ無茶してチャレンジしなければ超えていけないところって必ずある。

今の自分の確率論じゃなくて、「失敗したって来年になったら誰も覚えてないわ」くらいで思い切っていくべきときもあるのかなって。

そういう意味でいうと、今の自分がいちばん正しいとは思えないところはあります。

――実際に「リスクはあるけどやってみよう」と思って始められたことは、近年でいうと何でしょう?

脚本がそうかもしれないです(2017年にNHK『許さないという暴力について考えろ』で初のドラマ脚本を執筆)。小説書いてエッセイ書いて、その他もろもろ仕事がある中で脚本も書くってなると、もう一個広げる感じがするじゃないですか。

広げていくべきか、深めていくべきかっていうのがあって、最初に小説書いたときに「これからも書いていくのか」「もう芸人はやめるのか」とかいろいろ言われたんです。

僕はそういう質問の意図があまりつかめなくて「どういうことなんやろう」と思ってたんですけど、ここで脚本もとなると、さらに増やしてる感じがするのかなとは思いました。

でも根本で「何か面白いものをつくりたい」という部分は一緒で、そこでつくるのが自分に特性があると信じられるもの、あるかもしれないと思えるものであれば、やっていいんじゃないかなと思って始めました。

――若手時代に、神保町花月で舞台脚本は書かれてましたよね。

そうですね、書いてました。昔から演劇が大好きでコントも大好きで、その2つってそんなに違うかな?って思っちゃうんですよね。

自分たちの単独ライブではコントをいっぱいやるんですけど、最後に30分くらい演劇みたいなことをやってました。お客さんは多分コントとして見てたけど、それってそんなに垣根あるのかなって。

今は映像の脚本を書いてますけど、コントを書ける場になるかもしれないという気持ちは結構ありますね。

イメージとしては、エッセイは漫談で小説は漫才で脚本はコント、みたいな感じはしています。

――「小説は漫才」というのは会話の部分ですか?

会話ですね。それと、今のところ僕の小説の書き方って、自分の内側にも向かっていくけど、どっちかというと人との関係性みたいなところがあるんですよね。

漫才も結局、言葉遊びもあるけど、二人の関係性にちゃんと熱があるものが面白いと僕は思ってるんで、そういう意味で共通するかなと。

人に言われて初めて気づいた
「小説の登場人物がよく歩いている」ワケ

――最後にお聞きしたいんですが、又吉さんのエッセイは散歩してる場面が多いですよね。又吉さんにとって散歩はどういう意味を持つ行為なんでしょうか。

それ、僕もあまりわからなくて。『火花』を書いたときも『劇場』を書いたときも「登場人物が歩いてる場面が多い」って言われたんですよ。

たとえば作中で人物が何かに気づいたり思い出したりするのが、人によって風呂だったり会話の中だったりコーヒー飲んでるときだったりすると思うんですけど、僕は歩いてるときなんですよね。

「このことに気づく必然性があるシチュエーションは散歩やろ。歩いてるときに思いつくはずや」と思って書いてたら「なんでこんな歩いてんの?」って言われて「そうなんや」って(笑)。みんなそんな歩かないんだ、って。

それは多分、僕自身が歩いてるときにいろんなこと考えるからなんですよね。『月と散文』の中にも書いたんですけど、家が関西でいう文化住宅ですごい狭くてどこにおっても家族がいたから、外に自分の時間とか自分の孤独を求めてたんです(「家で飼えない孤独」)。

一人で走ったり歩いたり、公園にずっといたりして。そういう時間にその日1日あったこととかいろんなことを考えてたから、その名残がいまだにある。

エッセイにもそれが出てるとは思ってなかったですけど、たしかにあるかもしれないです。

――無意識だったんですね。『東京百景』を読んだときに「よく歩く人だな」と思っていて、今作でも同じ感想を抱きました。

若い頃と比べたら減りましたけど、散歩、好きですね。

人としゃべってると影響を受けて新しい意見がいっぱい出てくるときってあるじゃないですか。あの感じが散歩にもあるんですよね。

自分の目の前を通っていった人を見たり、看板が目に入ったり、聞こえてきた音だったり、知らない道を通ったときになんか寂しくなったり怖くなったり、そういうふうにカウンターで出てくる感情や考えがあって、それをもらいに行ってるところもあります。

自分の考えや意見をまとめに行くのもあるけど、そっちも結構多いですね。書くことないときもとりあえず歩いてたらなんかしら思いつくやろ、って。

――収録されている「散歩」はまさにそういう内容でしたね。タイトルからしてそのものずばりです。

あれ、歩いてるときに思ったこと書いてるだけですもんね。でもあの散歩はなんか良くて、気持ちいい散歩でした。でも、散歩好きって結構いろんなところで言ってるんですけど、それについての仕事が来たことは一回もないですね(笑)。

取材・文/斎藤岬 写真/松木宏祐

『月と散文』
又吉直樹

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