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「給食費を学校の先生に立て替えてもらった」「トイレが遠くて夜は“おまる”で用足し」人気ママブロガー・元SDN48・光上せあらが経験した極貧と差別

集英社オンライン / 2023年3月26日 10時1分

2019年に自営業の男性と結婚し、現在2歳と1歳の子どもを育てながら、ありのままの日常をブログで発信している元SDN48の光上せあらさん。そのストレートな表現がときに物議を醸し、“炎上クイーン”と呼ばれることも。インタビュー第2弾は、今の彼女を作り上げた壮絶な生い立ちや、アイドル時代に感じた悔しさについて聞いた。

給食費を払えなくて小学校の先生にお金を立て替えてもらって……

――光上さんのご両親は中国の出身だそうですが、光上さんも中国で生まれたんですか?

光上せあら(以下同) そうです。両親が中国の田舎で出会って、私が生まれて。その後、親の仕事の都合で一家で日本に来て、15歳で日本人に帰化したんです。だから、価値観や生活スタイルは中国人ですね。



――来日後は、どんな生活を送って来たんですか?

3歳から9歳までは京都に住んでいたんですが、結構サバイバルな環境で生きてきました。両親も最初は、日本語が話せなかったし、当時は中国人に対する差別がすごくあったから、働き口がなかったんですよ。
苦労して見つけた仕事だから、家庭の都合で休むこともできなかったんでしょうね。

私は家の外で一人座って両親の帰りを待っていて、心配した近所の人に保護されて、そのお宅でご飯を食べさせてもらったり……なんてことも。本当に貧乏で、小学校でも給食費を払えなくて学校の先生にお金を立て替えてもらったこともありました。

――大変な生活だったんですね。

貧乏はまだ耐えられたけれど、学校でのいじめが一番きつかったです。当時は中国名だったので中国人というだけで差別される。「あの子は中国人だから一緒に遊ぶな」と、クラスの子のお母さんたちが言っていたというのも聞いたことがあります。

あと、文化的な違いも大きかったですね。日本人は毎日お風呂に入るけれど、中国ではお風呂に毎日入る習慣がなかったから、私も週1回ぐらいしか入浴してなかったんです。だから、不潔だし、服も汚くて。
それをからかわれて、いじめられていました。

――京都ではどんな家に住んでいたんですか?

あるときから家庭の事情で、母は京都大学で働き始めたので、キャンパス内にある吉田寮というものすごく古い学生寮に母娘で住んでいたんです。家賃1万円で共同トイレの部屋でした。そのトイレが部屋から5分以上かかるから、夜トイレに行きたくてもいけない。

夜は、母がいないこともあったから、一人で歩いていくなんて怖くてできなくて。それで、8歳ぐらいになるまで部屋でおまるでしていたんですよ。その頃、寮で家事が起きたことがあって。寝ていたら突然「火事です!」って館内放送が流れて。あれは怖かったですね。

子どもたちの玩具 せあらさんは幼少期、貧しい環境で育ったという

――火事の後、どうしたんですか?

母が忙しかったこともあって、母の知り合いの家に預けられました。やっぱり他人の家だから肩身が狭かった。週末は寮で母と一緒に過ごせるから寮に戻るんですが、母が帰ってこない日もあったから自分でお米を炊いてチャーハンみたいなものを作って食べたり。何でも自分でやるようになっていました。

中国人というだけでいじめられて

――京都を離れた後の生活は?

母が大学で博士号を取るために、名古屋に引っ越したんですが、そこでも中国人というだけでいじめられましたよ。やっぱり仲間に入れてもらえないから独りぼっちで孤独でした。中学生くらいからは日本語も上達したし、日本の文化も分かってきて友達もできたけど、よくグレなかったなって自分でも思います(笑)

――東京に来たのは、いつ頃ですか?

15歳の時です。母が大学の教授になって東京に家を買ったんです。でも、母はその後、鹿児島で働くことになり、私は東京の家で一人暮らし。母に仕送りしてもらって、高校に通っていました。

――「芸能人になりたい」と思ったのはいつ頃だったんですか?

3歳ぐらいの頃から、漠然と「歌手になりたい」って思っていました。幼稚園や学校でいじめられていても、歌を歌うと「上手いじゃん」ってみんながほめてくれたので、「これが私の生きる術だ!」って。だから高校生になったら東京で歌手になろうと決めていました。

それで、エイベックスのレッスン生になって、たまたまオーディションで松浦さん(現エイベックス会長の松浦勝人氏)の前で歌ったら、見出してもらえたんです

――2007年にデビューを果たしましたが、その後は思うように売れなかった?

もう全然でしたね。それで、再起を図るためにSDN48に入ることになったんです。実はSDNのオーディション、2回受けているんですよ。3期生の私が加入したのは、AKB48が大ブームを巻き起こしている時期で「ポニーテールとシュシュ」がヒットしたあたりだったかな。

CDデビューしていた光上せあら

――当時はまさにAKBブーム全盛。一方で、SDNは今一つブームに乗り切れていなかったように思うのですが……。

そうなんです。だから、めちゃめちゃ悔しくて。48グループ内では、AKBがやっぱり王様だから、何もかもAKBを中心に動いてましたね。たとえば紅白歌合戦でも、私たちは出番が20時でも朝5時にNHKホールに入る。でも、AKBが来るのは、出番ギリギリの時間。その間、ずっとAKBのこと待ってる感じでしたね。

私は、曲がりなりにもソロデビューしている歌手だったのに、キャリアも年齢も下のAKBメンバーの子たちをずっと待ち続けないといけないのは、正直複雑な思いがありました。

ぴかちゃんって呼んでください♡

――本当はAKBに入りたかった?

いやいや、年齢的に難しかったし、そもそもアイドルになりたいって思ったことがなかったんですよ。事務所に「オーディションがあるから受けてみたら」って言われて入ったのが、たまたまSDNだったという感じ。私、すごくサッパリして男勝りの性格だから、アイドル向きのタイプじゃないんです。

でも、現役当時は頑張ってました。ファンの方に「ぴかちゃんって呼んでください♡」とか言ったりして(笑)

――3期生ながら選抜メンバーに選ばれたり、1期生や2期生に並ぶ人気で注目を集めましたが、加入した翌年の2012年にSDN48が解散。実質1年も活動できなかったんですよね。

そうなんです。加入してすぐ、「実は、解散します」って言われたから、楽しむっていうより“無事にやりきる”みたいな意識だったかも。もっと楽しめばよかったと今は思いますね。
ただ、解散後、あらためて感じたのは、AKBの存在の大きさ。「SDNにいた」ではなく「AKBグループにいた」って言っちゃう(笑)。そうやって今も恩恵を受けているんです。

――SDNを辞めた後は何をしていたんですか?

その後、少しの間は、SDN時代のファンの方が応援してくれて、なんとかライブを開催したりできたんですが、それもだんだん減って仕事もなくなって。「芸能界はもう潮時かな」って思って、食品の輸入会社に入社して、4年間会社員として働いていました。

――幼少期、アイドル時代と波乱万丈の人生だったんですね。

人生を前半・後半で分けて考えると、前半はずっと地獄でしたね。アイドル時代も会社員時代もあまりお金はなかったから、金銭的に豊かになったといえるのは、結婚してからなんですよ。

年齢的に、今ぐらいからがちょうど人生の折り返し地点だとして、ここからは前半の苦労が報われて、少しずつ幸せが来てくれるって信じるようにしているんです。



第3弾では、炎上クイーンならではのアンチコメントに対する考え方や、こっそり明かしてくれた仰天のセックスレス解消法について、余すところなくお伝えします!

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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