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〈歴史的スクープ!!〉服部半蔵は本当は服部平蔵となる予定だった!? 『どうする家康』人気キャラの知られざる命名エピソード…家康に気をつかって「平」が「半」に!

集英社オンライン / 2023年3月27日 8時1分

NHK大河ドラマ『どうする家康』で、今後も重要キャラとして描かれるであろう服部半蔵。その一族の末裔である、三重県で和菓子店「深川屋 陸奥大掾(ふかわや むつだいじょう)」の店主、服部吉右衛門亜樹(はっとり・きちえもんあき)さん。前編と中編では吉右衛門亜樹さんの半生や服部半蔵に対するパブリックイメージ、“忍術”を使った秘伝のお菓子作りについて紹介した。後編では服部家代々の壮大な歴史秘話を追いかけたい。

「機織部」が転じて「服部」に

服部吉右衛門亜樹さんの先祖は前編でも触れたとおり、天正6(1578)年に起こった第一次天正伊賀の乱で、三河にいる服部半蔵の父を当主とする服部一族の元へと逃げている。それとは別に、服部吉右衛門亜樹さん一族の本家の当主とその嫡男も、この戦いで行方不明となっていたそうだ。



「周囲はみな、死んだものと思っており、当時の過去帳(先祖の情報が書かれた書物)をひも解いても『信長により死す』と書かれている。
しかし、よく見ると小さく『生き延びて玉滝村(三重県阿山郡にあった村)の玉滝寺に匿われた』という記述があったのです。本家当主とその嫡男はその土地でとてもよくしてもらい、菓子作りの手解きを受けたため、代々、菓子司(かしつかさ。和菓子屋)をするようになりました。
そして、匿ってもらった地名が『深川』だったので、その恩を感じて屋号を『深川屋』としたと伝わっています」(服部吉右衛門亜樹さん・以下同)

服部吉右衛門亜樹さん

ただし、「深川屋 陸奥大掾」の銘菓「関の戸」を作った初代、服部伊予保重の正式な活躍年代はわかっていない。現在、深川屋を営む服部一族に関する現存する最古の文献に「財産譲状』があり、それによると「寛永19(1642)年に服部伊予保重一族の×代目から、分家の〇代目へ財産を譲った」とある。
その伊予保重から数えて、服部吉右衛門亜樹さんが十四代目にあたるのだ。

だが、服部家自体のルーツをたどると紀元前200年にまでさかのぼるという。「あくまで口伝ですが……」と前置きをして服部さんが教えてくれた。

服部吉右衛門亜樹さんが営む「深川屋 陸奥大掾」

「三重県に多い服部姓のルーツは2種類に分かれていて、ともに大陸から渡来した機織機で反物を織る『機織部(はたおりべ)』が祖。うち1つは紀元前にやってきた、『漢織(あやはとり)』、もう1つはその300年~400年後、三国志時代の呉から来たため『呉織(くれはとり)』と呼ばれた一族なんです。
音が似ているし、服を織ることから『機織部』は『服部』と変わったというわけです」

服部半蔵の名前の由来とは…?

漢織は時代が進むにつれ、機織機を一旦捨てて刀に持ち替えて、平家の武士になっていく。そして、安徳天皇の衛士大将にまで登り詰めたというのが、『源平盛衰記』にも登場する服部平内左衛門なのだという。

「その人が服部一族の出世頭で、今でも兵庫県には『平内神社』という氏神様があり、そこが現在に至るまで漢織の聖地になっています。
源平の戦いで平家が負けるわけですが、漢織は平家の血を大事に思っているため、逃げのびて隠れる。それで『忍び』になっていくんです。

漢織が平家であることを誇りに思っていた証拠に、漢織の「服部」の家系では、代々『平』と『保』の字を大事にしています。お父さんが『保』の字を使っていたら、その嫡男には必ず『平』の字をつける。そして、その嫡男には『保』をつける……そうやって『平』と『保』の字が代々受け継がれてきました」

しかし、服部半蔵の父は服部保長で「保」がつくのに対し、服部半蔵は本名の「正成」を含めて、「平」の字がついていない。

機織機(※写真はイメージです)

「これは服部半蔵が徳川家康公に仕えたことに理由があります。家康公は征夷大将軍になるのであれば“源氏の旗頭”になる必要があるため、『源氏長者』(源氏の棟梁)を称していました。そのため、一族としては服部“平”蔵と名づけたいところ、『平』の字を嫌う源氏の家康に気をつかい、『平』から横棒をずらした『半』を用い、服部“半”蔵とした。そのように一族に代々、口伝されています。
ただ、歴史学者の方々はこの説に賛同しません。資料や文献が残っていればいいのですが、(中編で)話したとおり、忍びは文献などで証拠を残してはいけませんからね」

一方で、呉織たちは漢織と異なり、ずっと機を織り続けた。そして堺の港辺りを中心として、輸入された錦糸や絹などを使い、実に雅な反物を作り続けた。それが有名になって「呉服」と呼ばれるようになったと、吉右衛門亜樹さんは話す。

残念ながらこれも口伝のみ。しかし、それはそれで大いにロマンを感じてしまう。

「伊賀越えをどう描くかが楽しみ」

そして、吉右衛門亜樹さんは今後の『どうする家康』の展開について、こう期待する。

「今回の大河は、服部半蔵像の新解釈といい、若年時代の家康の苦悩の描き方と言い、非常に興味深い作品。
個人的には伊賀越えをどう描くのかが楽しみです。実際、どのルートを通って三河へ帰ったのかは詳しくわかっていませんので、どの説を採用するのか。
家康公は伊賀越えの途中、この(店舗のある三重県)関宿の瑞光寺に一泊したと我々は伝え聞いています。このお寺の住職は家康公の幼馴染で、よく立ち寄って柿を食していたそうで、瑞光寺には“権現柿”という古木が今でも残っている。だから窮地で瑞光寺を頼るのも辻褄が合いますよね。
そこを描いてくれたら、私たちとしてはとてもうれしいですね」

伊賀上野城

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班

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