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高卒後にNSC(吉本)東京に進学。「異色の登山家」栗城史多はお笑い芸人を目指していた!?

集英社オンライン / 2023年3月31日 17時1分

自身の登山の様子を動画配信するなど、従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続け、話題を呼んだ栗城史多氏。2018年に亡くなった彼の活動には、一方で激しい毀誉褒貶もついて回った。そんな彼の素顔を描き、このたび文庫版が発売された『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』から一部を抜粋、再編集して紹介する。

学園祭では3年間「脚本・演出・主役」

エベレスト

「いやあ、信じらんねえ……あいつがテレビカメラに囲まれてるなんて……」



新千歳空港の出発ロビー。栗城さんを見送る一団の中から、そんな声が聞こえた。2009年4月、栗城さんがエベレスト初挑戦を前にした最終調整で、ネパール北部ヒマラヤ山脈のダウラギリ(8167メートル・世界7位)に出発する日だった。

声のした方を振り向くと、いずれも純朴そうな2人の若い男性が立っていた。2人が栗城さんに向かって手を振ると、人垣の向こうで彼は小さく頷いた。話は聞けなかったが、かつての同級生だと思われた。

学生時代の栗城さんについて知りたいと思ったのは、「信じらんねえ」というその一言がきっかけだった。

札幌から南西方面へ車で4時間ほど走ると、恐竜が寝そべったようなどっしりとした峰々が右手に見えてきた。ギザギザしたその連なりの麓に、栗城さんの母校があった。

北海道檜山北高校。実家のある今金町には高校がないため、栗城さんは町内の大半の若者がそうするように、隣町、せたな町にあるこの高校に入った。

2009年7月。私を出迎えてくれたのは、高校での3年間、栗城さんの担任だった森聡先生である。当時45歳、私と同年輩の実直そうな先生だった。

「いやあ、栗城には振り回されっぱなしでしたよ」と森先生は優しそうな目を細めた。

「普段はそんなにしゃべらないんですが、学校祭が近づいてくると、急に張り切りだすんですよ。うちの学校祭ではクラス対抗で演劇のコンテストがあるんですが、その準備期間中ずっと、私は彼のパシリをさせられるんです。あれ用意しろ、あそこまで車を出せ、の連続で」

いったん話を切ると、森先生は懐かしそうに笑った。その笑顔を会話の句読点として挟みながら、教え子との思い出を振り返ってくれた。

「栗城は脚本も演出も手掛けて、主役も自分で演じていました。3年間ずっとそうです。しかも後になって気づくんですが、1年、2年、3年とストーリーが続き物になっているんですよ。1年目は原始人が出てきて、2年目はラーメン屋が舞台で、3年目は『踊る大捜査線』のパロディで刑事の話なんですが、実はつながっている。いろいろあった奇妙な出来事は、全部栗城が演じるワルの親玉が仕組んだことだったって、3年目でわかるんです。これには本当にビックリしました」

「お笑い芸人になりたい、って言っていましたね」

写真はイメージです

3年生のときの演劇は最優秀賞に輝いた。栗城さんはこの劇に並々ならぬ力の入れようで、夜の11時に練習のためクラスメートたちを体育館に呼び出したこともあったそうだ。

森先生が最も印象に残っているのは、その準備中のある出来事だった。

「栗城が『商店会の倉庫に連れて行ってくれ』って言うんですよ。いつもそうなんですけど、彼は『何のために?』とか『理由は?』とか聞いても一切教えてくれないんです。仕方なく倉庫に行ってみたら、ピンクの大きなうさぎの被り物がありました。商店会の売り出しセールに使う、胴体が布になっているやつで……。彼の家は店をやってるから、詳しいんですよ、その辺の事情。

あそこへ連れて行け、って言うだけで理由を言わないのは、それが彼のネタだからなんです。オチをつけるまでタネ明かしをしたくないっていうか、周りのリアクションを楽しむんですね。うさぎの被り物のときも、ボクが『これを使いたかったのか?』って聞いたら、ヤツはニヤッとしてました」

幼稚園から高校までずっと一緒だった齊下英樹さんも、この劇に出演している。

「クラスに西田っていうやたら背の高いヤツがいて、そいつに被せたんです。でかいヤツがでかい被り物つけたらメチャクチャ巨大じゃないですか? ウケてましたよ。栗城とは中学のときの行事でも、一緒に漫才やりました。放送禁止用語の連発で、ドッカンドッカン笑いが来てました」と笑う。

そんな栗城さんが高校卒業後に進んだのは、吉本興業のグループ会社が運営する「NSC(吉本総合芸能学院)東京校」だった。

「お笑い芸人になりたい、って言っていましたね」

森先生に聞いて、私は初めてこの事実を知った。事務所の児玉佐文さんも知らなかった。

NSC退学後は牛丼屋や警備員のアルバイト

吉本興業が運営するなんばグランド花月

芸人を夢見た栗城さんの足跡をたどって、私はカメラマンを伴ってNSC東京校に向かった。取材のカメラを見た生徒たちの反応は驚くほど素早かった。小躍りしながら近づいてきて「テレビ大好きです!」とレンズに顔を押し付ける者。ムンクの絵「叫び」のようなポーズを決めて撮られるのをじっと待つ者。校内のテンションの高さは尋常ではない。

事務の責任者が、過去の入学願書のファイルをテーブルの上に広げてくれた。栗城さんが入学したのは2001年だ。ボールペンで書かれた自筆の願書が残っていた。受験番号『189』。制服を着て生真面目な表情を浮かべた顔写真が貼られている。

「希望コース」の欄には、お笑い、俳優、構成作家、キャスター・リポーター、DJの五つの選択肢があり、「お笑い」に○がついていた。「応募したきっかけ」は、『才能豊かな相方を探すため』。「自己PR」の欄には、『高校1年生の頃から自作の喜劇を作り、3年生まで優秀な成績を残し、学祭で活躍して来ました。将来はお笑いとアートを融合した新しい笑いを追求したいと思います』とある。

事務の責任者は関西弁で話す男性だった。

「この方、途中で退学してはりますね。NSC東京の第7期ですわ。同期に○○や△△がいてます」

○○さんも△△さんも私は知らなかった。先輩や後輩にはテレビで看板番組を持つ売れっ子がいたが、取材当時で芸歴7、8年になるこの代からはスターが出ていなかった。

NSCを退学した栗城さんは、牛丼屋や警備員のアルバイトをしながら、川崎市高津区にあったアパートで次の人生の構想を練った。

「しかし、驚きですねえ、登山家になられたとは……すごいなあ」

NSCの事務責任者が、興味深げに願書の写真を見つめていた。

私の取材から2年後の2011年、栗城さんはこのNSCを運営する「よしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業株式会社)」と業務提携を果たす。ある意味、十代のころの夢を叶えたのだ。

当時の新聞を調べてみると『きっかけは、たまたま同社幹部と栗城氏が知り合ったことだった』とある。登山映像の管理やメディア対応、バラエティー番組などへの出演をテレビ局に働きかけることが提携の内容だとも書かれている。

現在の同社「文化人」担当マネージャーに聞いてみた。

「提携の経緯がわかる人間はもう誰もいないんですが」と前置きした上で言った。

「私が担当になってそこそこ経ちますけど、映像の管理は栗城さんの事務所の方でやっています。テレビ番組への出演交渉も、事務所直接ですね。うちが毎年必ず栗城さんにお願いしていたのは、新入社員への講演です。最後にエベレストに発つ少し前にもお願いしました」

2018年4月9日の講演が最後だったという。出国は4月17日だった。


文/河野啓 写真/shutterstock

「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多を語りたがらない理由(4月1日13時公開予定)

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

著者:河野 啓

2023年1月20日発売

825円(税込)

文庫判/384ページ

ISBN:

978-4-08-744479-7

第18回開高健ノンフィクション賞受賞作
「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。
メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。

両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。

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