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「彼の技術じゃ無理だ、って誰もが思いますよ」登山器具もまともに扱えなかった栗城史多がマッキンリーを目指した理由

集英社オンライン / 2023年3月31日 17時1分

従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続け、話題を呼んだ栗城史多氏。2018年に亡くなった彼の活動には、一方で激しい毀誉褒貶もついて回った。そんな彼が登山歴わずか2年でマッキンリーを目指した理由とは? 文庫版『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』から一部を抜粋、再編集して紹介する。

初対面の女の子に落ちている石をプレゼント

写真はイメージです

北海道に戻った栗城さんは、2002年、1年遅れで札幌国際大学に入学した。

お笑いのプロは諦めたものの、栗城さんは入学直後からその方面での才能を存分に発揮していたようだ。高校時代の森聡先生同様、「彼に振り回された」と語るのは、人文社会学部の当時の助教授である。栗城さんとの初遭遇は、妙な噂を耳にした後だったという。



「入学してまもないころです。初対面の女の子にそこいらに落ちている石をプレゼントしている変な学生がいるって」

学術的根拠に乏しい俗説だそうだが、石をメスにプレゼントするのはペンギンの求愛行動と言われている。

「その〝ペンギン〟を捕獲しに行ったら、栗城君でした」

助教授は大学の「DJサークル」の顧問を務めていた。ブレイクダンスを踊る学生たちのために教室の床に段ボールを張っていたら、Tシャツ姿の男がタタタッと駆けてきて、バックスピン(背中でクルクル回る技)を決めた。

だが、彼が回った床にはまだ段ボールが張られていなかった。背中に血が滲むほどの擦り傷を、彼は負った。

「そのおバカなダンサーも、栗城君でした」

同い年の亀谷和弘さんはDJサークルの2年生だった。

「栗城は空手部だったんですけど、ボクらのサークルにも出入りするようになったんです。あいつ、DJのバックに映像を流すVJっていうのにハマっちゃって、札幌のクラブにも2、3回出ましたよ」

栗城さんとクラブとは、意外な取り合わせである。さすがにリュックは背負っていなかったようだ。曲の雰囲気に合わせて恍惚感のあるCG映像を流していたという。おそらく著作権フリーの映像をパソコンで編集したのだろう。助教授の研究室からプロジェクターを無断で持ち出して、夜、大学の校舎の壁に映像を映し出したこともあったそうだ。

大学祭では、犬小屋を改造して作った神輿の上に仁王立ちして、夜のキャンパスを練り歩いた。栗城さんは、ふんどし一丁、アフロヘアにサングラスという出で立ちだった。神輿には手持ちの花火がいくつも据えつけられ、勢いよく火の粉を撒き散らしていた。

「当然、裸の栗城にも火が飛びますよね。だから上半身やけどだらけですよ。本当バカです」

と亀谷さんは振り返る。

「山なんて楽しくない」と語っていた自撮り登山家

栗城さんには当時恋心を抱く女性がいた。Kさんだ。今は結婚し、東北地方で子育てに追われる毎日を送っている。

「栗ちゃんがグラウンドで野球をしてたんです、空手部の友だちと3人で。『人が足りないから入ってよ』って声をかけられたのが初対面でした。どんな人か? 子どもがそのまま大人になった、っていうときれいすぎるな……自分でも言ってましたけど、変態でしたね」

栗城さんは大学で登山を始めるが、彼が入ったのは、札幌の隣、江別市にある酪農学園大学の山岳部である。札幌国際大学では空手部だった栗城さんは、学友たちに山の話はほとんどしていない。

しかし亀谷さんは一度だけ、酔っぱらった栗城さんが山について語る姿を見たことがある。

「酒飲んでへべれけになった栗城がくだを巻いたんですよ。自分をフッた昔の彼女がなんで山に登っていたのか? 山なんてどこがいいのか? 何が楽しいのか? いくら登ってもわからない、って」

大学2年生の冬だった。栗城さんはDJサークルのメンバーと小樽のロッジに宿泊していた。

「山なんて楽しくない」は酔った末の戯言なのか、本音も混じっているのか……。

「これはビデオにも撮ったんですけど、あいつ酔った勢いで全裸になって、逃げる女の子たちを追いかけ回したんですよ。その当時『ファインディング・ニモ』っていう魚のアニメがヒットしてたんですけど、ニモに会いたい、ニモに会いたい、ニモ! ニモ! って。酔ってるくせに局部がカメラに映らないようにうまく走るんで、笑っちゃいました」

朝になって亀谷さんたちが目覚めると、栗城さんの姿がなかった。しばらくしてロッジに戻ってきた彼の手には、ビデオカメラが握られていた。

「皆で見てみようか、って話になって、再生したら大爆笑でした。あいつ、自撮りしてたんですよ。『おはようございます。これからこの山にニモを探しに行きます』って言って、スニーカーで雪山を登っていました」

自撮り登山家はこの3カ月後、マッキンリーに向かうのだった。

「センスはなかったですね、ヤツは。体も硬いし」

酪農学園大学の山岳部に入った経緯については、講演でもよく語られている。

大学生になって1カ月ほど経ったある日、栗城さんは高校時代の友人に会うため、酪農学園大学を訪れた。その構内で「山岳部員募集」の貼り紙を目にする。

「そういえば、うちの大学には山岳部はなかったな」

山が好きだったかつての交際相手の顔が目に浮かび、冗談半分で入部希望者の欄に名前と連絡先を記入した。主将だった3年生のGさんから不愛想な口調で電話が入ったのは、それから3カ月も経ってからだった。栗城さんは自分が連絡先を書いたことなどもう忘れていて、誰が何のためにかけてきた電話なのか、すぐには理解できなかったという。

当時、酪農学園大学の7年目4年生だった森下亮太郎さんは、珍妙な新入部員に心底驚いたと話す。

「随分気合が入ったヤツだな、って。よその大学から入部するなんて初めてのケースでしたから」

のちに森下さんは、栗城さんの「エベレスト劇場」に深く関わることになる。

森下さんの自宅アパートは、山好きの若者たちの溜まり場だった。そこには人工壁が設置されていた。森下さんが積雪量の調査やテレビ番組の撮影機材運搬など、山に関わるアルバイトをした稼ぎで購入したものだ。若者たちはここで様々なムーブを反復練習して技術を磨いた。栗城さんも2回、この壁を登りに来たそうだ。

「センスはなかったですね、ヤツは。体も硬いし」と森下さんは苦笑する。

「在学中は一緒に山には行かなかったけど、山関係のアルバイトを紹介したりはしてました」

栗城さんを直接山で指導したのは、もっぱらGさんだった。しかし3年生になった2004年、栗城さんは師と仰いでいたGさんと仲違いをしてしまう。

その原因だが、私が栗城さんから聞いた話と森下さんの証言とでは一致しない。
栗城さんは私にはこう言った。彼の著書にも同様の記述がある。

「G先輩からマッキンリーに誘われたんですよ。一緒に登ろうよ、って。迷ったんですけど……結局断ったんです。先輩の後ろについて登っても、そこは先輩の山でしかない、ボクはボクの山に登りたい……そう思って単独で行くことにしました」

「そのマッキンリーはボクの話です」と森下さんに言われて、私は「え?」と声を上げてしまった。仲違いをしたGさんの計画ではないという。

「栗城がマッキンリーに行こうとしてる、しかも一人で」

マッキンリー

森下さんはこの前年(2003年)に大学を中退し、山岳ガイドを生業とするようになっていた。それでも大学にはよく顔を出し、後輩たちの面倒を見ていた。

「ボクが後輩たちとマッキンリーに行こうって準備してたんです。その中にGはいなかった。計画は99パーセント出来上がっていて、あとはお金を払うだけって段階になってから、Gが言いに来たんです。栗城がマッキンリーに行こうとしてる、しかも一人で、って」

森下さんは、山の仲間でよく集まる居酒屋に栗城さんを誘った。

「入山申請は英語で書かなきゃいけないけど、お前書けるか? 何よりお前の技術じゃ一人では無理だぞ、何なら一緒に行くか? って言ったんです。でもあいつ、ボクらの会議の日に顔を出すと言いながら、ドタキャンでした。まあボクらもその後メンバーの一人が都合悪くなっちゃって、結局行けなかったんですけどね」

栗城さんとGさんの仲違いの理由は、何だったのか?

「よくわからないです。何が原因ってわけでもなかったと思うんですけどねえ……」と森下さんは首をひねる。

栗城さんはGさんのことを「技術的にも体力的にもすごい人だった」と私に話していた。しかし先輩の森下さんから見れば「Gは歴代の部員の中でも不器用なヤツで、山は上手じゃなかった」という。

「ただ、あいつはすごく努力家なんですよ。登山からフリークライミングに転向して、今はトップクラスでジムまで構えています。一方の栗城は、Gとは対照的に何も努力をしない。そもそも水と油だったんじゃないですかね」

私はGさんに連絡を取りたかったが、森下さんは首を振った。

「前にもメディアの人から依頼があったんですけど、Gは栗城のことにはもう関わりたくないって……。絶対に会わないはずです」

私はGさんの取材を断念した。ところがこの2カ月後、森下さんから「Gと会う用事があるので、何か聞きたいことがあるならボクが代わって聞いてもいいですよ」とありがたい連絡が入った。

著書に書かれた「夢」は事実だったのか

写真はイメージです

私はGさんへの質問項目をまとめて、森下さんにメールで送った。『答えたくない質問にはお答えいただかなくて結構です』と書き添えた。7つの質問をしたが、4つが無回答で返ってきた。仲違いした理由も空欄だった。

ただ、『Q.栗城さんの著書に「先輩は、僕と2人でマッキンリーに登るのが夢だった」と書いてありますが事実でしょうか?』という問いには、「事実ではない」と回答している。

単独でマッキンリーに登ると言い張る栗城さんを、森下さんは「考え直せ」と何度も説得した。しかし、翻意させることはできなかった。

「栗城の技術じゃ無理だ、って誰もが思いますよ。中山峠から小樽まで縦走したぐらいの経験でマッキンリーに登ろうだなんて、普通は思わないんです」

マッキンリーに登頂するにはユマール(登高器)を使わなければならない。固定されたフィックスロープが張られた斜面があり、そのロープにセットするのだ。ユマールはカムの働きで、上には上がるが下には落ちないようになっている。安全を確保しながら登るために必須の道具である。

「あいつに、ユマール持ってるの? 『いえ、持ってません』、じゃあ俺のユマール貸してあげるよ、うちにおいで、使ったことあるの? 『ないです』……それが出発の前日か前々日でした」

文/河野啓 写真/pixta shutterstock

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

著者:河野 啓

2023年1月20日発売

825円(税込)

文庫判/384ページ

ISBN:

978-4-08-744479-7

第18回開高健ノンフィクション賞受賞作
「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。
メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。

両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。

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