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「ええっ! 登ってしまったか!」登山歴2年の若者・栗城史多がマッキンリーで起こした奇跡

集英社オンライン / 2023年3月31日 17時1分

従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続け、話題を呼んだ栗城史多氏。2018年に亡くなった彼の活動には、一方で激しい毀誉褒貶もついて回った。そんな彼は登山歴わずか2年でマッキンリー登頂に成功するのだが、その実状は……文庫版『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』から一部を抜粋、再編集して紹介する。

偉大なるマッキンリー

マッキンリー

マッキンリーへの入山申請は、前述した札幌国際大学の助教授が代行した、いや、させられた。その様子を見ていた同い年の亀谷和弘さんは言う。



「栗城は先生に国際電話までかけさせてましたよ。『全部やってください』って。『お前、そんな調子で、向こうに行ってからどうすんのよ?』って聞いたら、『かめちゃん、2つの単語さえ言えればいいんだよ。アハンとウフン』って」

2004年5月下旬、栗城さんはマッキンリーに向かった。

「デナリ(偉大なるもの)」

先住民は巨大で荒々しいこの山を、そう呼んだ。いくつもの絶壁と稜線が折り重なって幾何学模様を成し、頂からは幅広い氷河が流れている。この偉大なる山に、登山歴2年の小柄な若者が挑んだのだ。

標高2200メートルのBC(ベースキャンプ)から山頂までは28キロ、標高差は約4000メートルある。荷物を積んだソリを引っ張り、体を標高に慣らしながら登っていく。ある程度上がると、一部の食料を雪の中にデポ(体力的な負荷を軽減するため、荷物をルート途中に置いておくこと)し、少し標高を下げたキャンプ地にテントを張る。

通常の登山隊はアルファ米という、お湯を注いだだけで食べられる米を持って行くが、値段が高いため、栗城さんは普通の生米を4キロ持参した。それを見た台湾からの登山者に笑われたそうだ。標高が高くなると気圧が下がる。お湯を沸かす際、外の空気の重しが少ない分、水蒸気になりやすく、100℃より低い温度で沸騰する。そのせいで、生米は家庭で炊くよりも相当硬く炊き上がった。それでも食べられないほどではなかったそうだ。

栗城さんは初めて高度障害とも闘った。

呼吸をする際、起きている間は意識して、深くゆっくりとするよう努めるが、寝ている間はどうしても浅くなってしまう。そうすると体に取り込まれる酸素の量が減ってしまうので、頭痛や、めまい、吐き気などの症状が出てくる。熟睡など到底できない。むしろ睡魔と闘わなければならないのだ。視界が紫色になる経験もした。そういうときは標高を十分に下げて回復を待つしかない。

標高4700メートル付近からフィックスロープが張ってあった。森下先輩に借りたユマールを使って、栗城さんは少しずつ高度を上げていった。

初々しくまっすぐなエゴ

写真はイメージです

6月9日。栗城さんは22歳の誕生日を、マッキンリーの標高4330メートルのキャンプ地で迎える。悪天候でテントには強風が絶え間なく吹きつけていた。

翌日の10日も稜線は厚い雲に覆われていた。他の登山隊に動く気配はない。だが、栗城さんは勝負に出た。風はさほど強くなかった。あさってには晴れるはずだ、と確信してテントを畳んだ。「ヘイ、ジャパニーズ・ボーイ、これから上がるのか?」と驚いた声が近くのテントから上がった。

だが、思わぬミスを犯してしまう。標高5150メートル地点にデポしてあった荷物を取り出そうと、ピッケル(つるはしのような金具がついた杖。氷雪を削って手や足をかける場所を作るなど用途は多い)で雪をかきわけた際、誤って燃料ボトルを突いてしまったのだ。穴が開いて中の燃料がこぼれ、半分の量になった。燃料がなければ暖をとることも、雪を溶かして水を作ることもできない。

心は下山に傾きかけた。しかし……。

『「誰かのために登るのではない、自分のために登るのだ」そう自分に言い聞かせ、僕は部室を去ったことを思い出した』(『一歩を越える勇気』)

彼はこの5年後「冒険の共有」を叫ぶようになるが、このときは「自分のために登るのだ」と初々しくまっすぐなエゴを見せている。

次の日は予想に反して大雪だったが、その翌日、テントの外は朝から晴れ渡っていた。登り始めて16日目の6月12日、17時10分。栗城さんはマッキンリー山頂に立った。

栗城さんから返却されたユマールに挟まっていたもの

写真はイメージです

「ええっ! 登ってしまったか!」

技術も経験もない後輩が偉大なるデナリに登頂した……森下さんは悔しさを感じないわけではなかったが、むしろ「無事で何より」と安堵した。

帰国した栗城さんとどんな言葉を交わしたのか、と私は尋ねた。すると森下さんは、口の中で小さく噴き出した。

「何をしゃべったかは覚えていないんですけど、あいつがユマールを返しにきたときの記憶は鮮明です。汚れていて埃っぽくて、金具に……陰毛が挟まってたんですよ。普通、人に貸してもらった道具はきれいにして返すじゃないですか。とにかくその陰毛の記憶が強烈で、あとは覚えてないですね」

古き良き時代を懐かしむような笑みを、森下さんはしばらく浮かべていた。

「ただ、植村直己さんが遭難した山に登った栗城はすごい、って勘違いしている人も多いけど、植村さんは厳冬期に登って遭難したんです。夏と冬では難度がまったく違います。けど、この登頂が自信につながったのは間違いないでしょうね」

栗城さんの人生は、周囲が「奇跡」と呼んだマッキンリー登頂がなければ、まったく違ったものになっていただろう。

《彼にとって、どちらが良かったのか?》

……その答えは本人でさえわからないかもしれない。

撮らなきゃ「もったいない」

写真はイメージです

栗城さんは、マッキンリーの頂上でガッツポーズを見せている。

「マッキンリーにカメラを持っていったのは、登頂した証拠を残すためでした。撮ることを意識するようになったのは、次のアコンカグア(6959メートル)からですね」

「だって、もったいないじゃないですか? こんなに苦労して登っているのに誰も知らないなんて」

登山の過程を自撮りする理由を、栗城さんはそう語った。私は彼の言葉に納得がいった。取材する人間の心情に近い気がしたのだ。

マッキンリーに登った半年後の2005年1月、栗城さんは南米大陸最高峰アコンカグアに向かう。撮影された映像を見ると、栗城さんが「シーンを作ろう」と意識しているのがわかった。

この登山で栗城さんは、肺水腫にかかってしまう。気圧が低いため毛細血管から水が染み出て肺にたまる、高山病の一つだ。息が苦しくて3日間動けなかった。テントの中でひたすら腹式呼吸を繰り返す自分の姿を、栗城さんは映していた。

《苦しいときこそ見せ場だ、カメラに収めなければ……》

そんな思いが伝わってきた。

ルートで一番の難所は、斜度60度の氷河の壁だった。壁の上から下へカメラをゆっくりパンダウンして、傾斜の強さをしっかりと映像でわからせた。そこに自ら語りを入れている。

「ここで滑ったら谷底まで落ちてしまうでしょう」

壁を登っていく汗みずくの顔も自撮りしていた。このとき栗城さんは、自分の上を別の登山者が登っている幻覚を見たそうだ。気圧が低いと、肺もそうだが脳にも水がたまる。「幻覚を見たのは軽い脳浮腫を発症していたからだと思う」と語っていた。

アコンカグアの山頂には、鉄製の十字架が置いてある。栗城さんはその十字架を起こすと、恋人のように胸に抱いた。

「もうダメかと思ったね」

文/河野啓 写真/pixta shutterstock

「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多を語りたがらない理由(4月1日13時公開予定)

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

著者:河野 啓

2023年1月20日発売

825円(税込)

文庫判/384ページ

ISBN:

978-4-08-744479-7

第18回開高健ノンフィクション賞受賞作
「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。
メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。

両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。

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