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「ガイドにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って」死後も登山仲間たちが栗城史多を語りたがらない理由

集英社オンライン / 2023年4月1日 13時1分

自身の登山の様子を動画配信するなど、従来の登山家のイメージには収まらない型破りな活動を続け、話題を呼んだ栗城史多氏。2018年に亡くなった彼の活動には、一方で激しい毀誉褒貶もついて回った。そんな彼の素顔を描き、このたび文庫版が発売された『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』から一部を抜粋、再編集して紹介する。

「栗城さんの登山の技術って、どの程度のレベルなんですか?」

写真はイメージです

「栗城のことですか? あまり話したくないですねえ……」



栗城さんが亡くなって2カ月ほど経った2018年7月。私は彼のエベレスト初挑戦を支えた山の先輩、森下亮太郎さんに電話をかけていた。そのときは、低く発せられたこの言葉とともに取材を断られたのだ。

森下さんははしゃぐタイプではないが、ユーモアを持ち合わせた人だった。私は栗城さんと森下さんが支笏湖畔の凍った滝でトレーニングをした際、森下さんにこんな質問をしている。

「栗城さんの登山の技術って、どの程度のレベルなんですか?」

何とも味わいのある笑みを、森下さんは浮かべた。

「えっ! 言っていいのかなあ?」

あのときの笑顔と受話器から伝わる警戒するような雰囲気が、私の中ではつながらなかった。

「正直、彼にはいい感情を持っていないので……」

北海道の7月は登山のベストシーズンだ。山岳ガイドの森下さんは多忙を極めていた。私は「秋になって時間ができたら読んでください」と、ブログのアドレスを森下さんにメールで送った。

年が改まってダメ元で電話をかけてみると、「会ってもいい」と言う。私のブログを読んで「話してもいいかな」と思ってくれたそうだ。ありがたかった。

森下さんの自宅に近い江別市内の居酒屋で待ち合わせた。山の会を主宰している鈴木暢さんが店主で、栗城さんも大学時代に森下さんやG先輩と一緒に何度か訪れたという。酔ってご機嫌になると、スッポンポンになって踊っていたそうだ。

2回目で登頂に成功したほうがドラマチック

エベレスト

私が森下さんに会いたかった一番の理由は、森下さんが初回に続き、2010年、栗城さんの2回目のエベレスト遠征でも「副隊長」を務めていたからだ。

2009年の初挑戦は、標高7850メートルでの敗退だった。8848メートルの山頂とは、ほぼ1000メートルの開きがある。森下さんは、栗城さんがこの標高差を克服できると思って同行したのだろうか?

「いや、仕事です」

あっさりと森下さんは言った。

「9月下旬ぐらいになると、北海道の山は霙とか降って閑散期になるんですよ。その時期に仕事が入るのはありがたいので。ボクもプロなので、飛行機代は出すからボランティアで来てくれと言われても行けないです。栗城を認めているわけではありません」

「登れるとは思っていなかったんですね?」

「うーん」と、森下さんは少し考えた。

「彼が高所に超人的に順応できて、プラス、風がなく快晴、すべての好条件が揃えば、可能性は低いけど、もしかしたら……ぐらいですかね」

実は、と森下さんは続けた。

「1回目エベレストに行ったとき、あいつ、ボクにこう言ったんですよ……今回は登れなくてもいいと思ってる、2回目に登れたらむしろその方がいい……。テントでボクと2人きりのときで、それ聞いてしまったら仕事ができなくなるから聞かなかったことにするわ、って彼には伝えましたけど」

いきなり登頂に成功するよりも2回目でリベンジした方がよりドラマチックだ……と演出家は考えていたようだ。

「あいつが本当に登りたいなら2回目はそれなりの準備をしてくるだろうな、という期待も少しはありました」

リベンジを目指す栗城さんが選んだのは、前回のメスナールートではなく、ネパール側から南東稜を登るノーマルルートだった。私は彼から「中継にはチベット側が適している」と聞いていたので、彼の死後その足跡をたどるまで2回目以降もチベット側から挑戦し続けたのだと思い込んでいた。技術スタッフがネパール側から電波を送る手だてを考えたのだろう。

「栗城が一人で死ぬ分にはいいけど、周りを死なせちゃいけない」

写真はイメージです

エベレストに出発する前、森下さんは栗城さんを酪農学園大学のトレーニング壁に誘ったという。ところが、

「あいつ、上まで行けないんですよ、1年生でも登れるのに」

その1年生も「テレビに出ている有名な栗城さんがこの壁を登れないなんて……」と困惑していたそうだ。

「その前は冬に羊蹄山(1898メートル)に行ったんですけど、あいつ、ボクからどんどん遅れて、結局7合目ぐらいで下りることにしました」

リベンジを口にしながら、栗城さんは技術も体力も前年を下回っていた。

「1回目にあれだけ悔しがってたのは何だったの? 今まで何してたの? って……呆れましたね」

好条件さえ揃えば登頂できるかも、という森下さんの希望的観測には、現地に行く前からすでに暗雲が垂れ込めていた。

単独を謳う栗城さんが「栗城隊」とも名乗る違和感について私が森下さんに話すと、「いや、ボクは栗城隊の副隊長です」ときっぱりとした言葉が返ってきた。理由を尋ねた。

「ボクの仕事は、隊長の栗城を安全に下ろすことではないんです。彼以外のスタッフを守る立場だった。栗城が一人で死ぬ分にはいいけど、周りを死なせちゃいけない、無謀な冒険の巻き添えにしちゃダメだ。他の隊員の命を守ることは栗城にはできない。副隊長であるボクの一番重要な仕事だと思っていました」

このときの遠征で、栗城隊には「不幸」があった。私はこの事実も、栗城さんが亡くなった後に知った。

カトマンズからルクラの空港へと飛び立ったプロペラ機が墜落し、乗っていた栗城隊のシェルパが死亡したのだ。前年登頂を断念した栗城さんをエベレストのC2付近で救助した、テンバさんだった。栗城さんは次の便に搭乗予定だったが、強風により欠航となり無事だった。

テンバさんはダウラギリでも栗城隊をサポートした。BC(ベースキャンプ)マネージャーだった児玉毅さんによれば、「栗城君と同い年で、献身的で強いシェルパだった」という。

実は私自身も、海外でのロケ中に、水中撮影の男性カメラマンが行方不明になる事故を経験している。1週間捜索したが見つからなかった。

危険な海域での撮影とは思えなかった。現地の警察から取り調べも受けたが、何が起きたのか見当もつかず、捜索に当たったダイバーも謎だと言った。撮影は9割方終了していたが、遺族の感情に配慮して番組は放送中止となった。

事故の後、私は長くうつ状態に陥った。私が指示を出さなかったら、そのとき彼が海に潜ることはなかったのだ。彼は私にその番組の制作を持ちかけた、いわば企画者でもあった。私がその企画に乗らなければ、企画が没になっていれば、海に入るのが別の日、別の場所だったら……と、いつまでも悔やんだ。

だから私は、シェルパが亡くなったとき栗城さんがどんな行動を取り、どんな登山をしたのか気になった。おかしな言い方だが、この事故はそれまでの栗城さんを変える大きな「転機」になりえたのだ。栗城さんは、不幸を生かすことができたはずだった。

栗城さんには「演出家」が必要だった

栗城史多さん

栗城さんの登山は続行され、番組も放送された。

そうであるならば、この登山と番組は「夢の共有」とか「日本を元気に」といった、誰に宛てたかわからない目的のためではなく、ただ一つ「亡くなったテンバさんのために」山に登り、番組を作ればよかったのだ。

テンバさんがどういうシェルパだったか、仲間の話や、可能であれば遺族、そして前回の挑戦で彼に救助された栗城さん自身の証言を番組の中に構成する。

同時に、自分の登山がどれだけ多くのシェルパとスタッフに支えられているかを、きちんと映像にして、視聴者に伝えればよかった。

そうすることで、さりげなく、カミングアウトできたのだ。「これが栗城スタイルです。単独ではありません」と。

栗城さんの苦手な、謝罪も弁明も一切いらない。ただ、番組を通して伝えればよかった。そしてそれ以降、単独、という言葉を使わなければいいだけのことだった。

発想を更に広げて、チョ・オユーのときからつきあいのある日本テレビの『24時間テレビ』に企画を持ちかける手もあった。世界の登山隊のために命を散らすシェルパ族の窮状を訴え、日本の視聴者に彼らへのチャリティー募金を呼びかけるのだ。「テンバ基金」と名付けて。

そうすればエベレストには登れなくても、栗城さんはシェルパのために行動を起こした登山家としてネパールの人たちに感謝と敬意を持って語り継がれたかもしれない。

栗城さんには、演出家が必要だった。企画に営業、(一部)撮影から主演までを「単独」でこなすのは土台無理なのだ。

周囲が絶句した栗城さんのツイート

写真はイメージです

「栗城は泣いて、テンバさんの奥さんに『これからずっと面倒見る』とか言って……たぶんお金も渡したと思うけど。ボクらもこんな経験初めてだから、どうしたらいいのかわからなくて……。そしたら、あいつ、ツイッターで呟いたんですよ……」

これは河野さんも知っているかもしれないけど、と森下さんは私を見た。知らなかった。この原稿に残すのも嫌な言葉だが、ネット民を騒然とさせた事実だそうなので、書く。

「一言叫んでいいですか? うんこ、って。うんこ、たべたい……って」

栗城さんがそう呟いたのはテンバさんの死から四日後の夜だった。その翌日、スマートフォンを手にした栗城さんは森下さんに興奮した口調で言った。

「森下さん、きのうの呟き、すごい反響ですよ!」
「え、なんて呟いたの?」

返ってきたその答えに、森下さんは絶句したという。

栗城さんに寄り添って事態を解釈すれば、彼は親しかったシェルパの死に精神のバランスを崩していたのだろう……しかし……。

「そんな隊長についていく隊員なんていませんよね……」

BCの空気は終始重苦しかったという。特に仲間を失ったシェルパたちは皆、沈痛な面持ちだった。森下さんは自分にできることを淡々とこなすしかなかった。

「これはテレビの番組に使われちゃったんですけど、ボクがテントの中に一人でいたとき、栗城のピッケルを磨いてたんですよ。あいつ、ロープとか道具の扱いが昔から雑で、スパッツ(脚絆)とかもボロボロなんですね。厳密に言えば単独の登山で他の人間がピッケル磨くの、アウトなんですけど……。そのときあいつ、何してたか? ……外で凧揚げやってたんです。スポンサー用の撮影かもしれないけど、それにしても……」

森下さんがビールを呷った。ジョッキを空けた後の表情が悲しげだった。

「シェルパにも伝わりますよね、『こいつはニセモノだ』って。『登る気はないんだな』って。これじゃあ彼らとの信頼関係なんて生まれないし、他の日本の登山家の評判まで落としてしまう」

こんなこともあったという。前年に続いて栗城隊のサポートについた通訳のテトさんが、「シェルパから相談を受けたのだが……」と森下さんのところにやってきた。

「栗城の荷物の一部を実はシェルパが預かっている、って。持って上がるよう頼まれたみたいなんですけど、どうしましょう? って聞かれて……そうかあ、ごめんね、これじゃあ全然ソロ(単独)じゃないね、って……」

森下さんは、栗城さんにやんわりと伝えたそうだ。

「プロであるシェルパに、『自分たちの仕事は一体何なのか?』と疑問を抱かせるようなことを、ボクたちは絶対にしてはいけないと思う」

その言葉の意味を、栗城さんもさすがに理解した様子だったという。

文/河野啓 写真/AFLO shutterstock

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場

著者:河野 啓

2023年1月20日発売

825円(税込)

文庫判/384ページ

ISBN:

978-4-08-744479-7

第18回開高健ノンフィクション賞受賞作
「夢の共有」を掲げて華々しく活動し、毀誉褒貶のなかで滑落死した登山家。
メディアを巻き込んで繰り広げられた彼の「劇場」の真実はどこにあったのか。

両手の指9本を失いながらも〝七大陸最高峰単独無酸素〟登頂を目指した登山家・栗城史多氏。エベレスト登頂をインターネットで生中継することを掲げ注目を集めたが、8度目の挑戦となった2018年5月21日、滑落死。35歳だった。彼はなぜエベレストに挑み続けたのか? そして、彼は何者だったのか? かつて栗城氏を番組に描いた著者が、綿密な取材で謎多き人気クライマーの真実にせまる。

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