菅野 御本人を前にして恐縮ですが、橋爪先生の今回の御本を読んで、学者ってすごいなと思いました。統一教会や日本会議に関して、学術的な方向からの研究は、極めて少なかった。統一教会に関しては、学術的な研究も、被害者救済、カルト対策、統一教会への反撃がモチベーションになりがちでした。
橋爪先生が御本の中で採用された参考文献の一覧を見ると、山のようにある書籍、資料の中から、「そこ!」というのをピンポイントで抜いていらっしゃいます。その資料の選別眼、そして、読まなくていいものを読まないという潔さには、本当に素直に感服しました。
その結果出来上がった御本は、無駄のない内容で、横道にそれず、読者に伝わらなければいけないものだけが一直線に書かれていて、すばらしいと思いました。
橋爪 私が今回の本を書こうと思ったのは、菅野さんの『日本会議の研究』に触発されたからです。出てすぐ読んで、感銘を受けました。徹底的に調べている。ふつうここまで調べなくても、それっぽい原稿は書けると思う。でも菅野さんは、そこで止まらない。なにか怪しい臭いがする、もっと裏があると感じると、とことん掘り下げて取材を進める。当事者に取材し、埋もれた文献を捜しあて、意外なストーリーを掘り出していく。読んでいて本当にわくわくする。ノンフィクションはこうでなければいけないと思った。その菅野さんにお褒めいただいたので、安心しました。
菅野 統一教会や日本会議に関して研究が少ない、書かれたものが少ない理由の一つに、当事者たちの手によって書かれたものが大量にあり過ぎるということがあります。文鮮明の言葉を集めた本だけでも百何巻ありますし、日本会議の実質的な運営を担う「生長の家」に至っては、かつて昭和の時代では「出版宗教」と言われているぐらい、月に十五冊ぐらいのペースで新刊書を出し続けていた(なお、宗教法人生長の家は、80年代末に路線変更し政治運動から撤退しており、日本会議とは一切の関係がない。しかしその路線変更に反発するメンバーが教団と決別し、旧来の谷口雅春の教えを頑なに守る原理主義運動を展開しており、その一環として日本会議の運営に携わっている)。さらに月々出される機関誌、集会でまかれるパンフレットの類がある。その膨大な資料の山を見ると、みんなたじろぐと思います。「到底読みきれない」と。
僕がラッキーだったのは、取材の初期に、「生長の家オタク」の人に出会えたこと。その方の導きで、それはあそこに書いてあるよというナビゲーションをもらえたのが本を書き得た要因の一つです。
橋爪 内情に詳しいひとが取材者と接触すると、自分の知っている情報を相手に伝えていいものかどうか、逡巡があるはずです。この取材は悪意でなく、真実のため、読者のための調査である。そういう、率直でオープンな気持が伝わったからこそ、協力がえられた。それは、菅野さんがたぐり寄せた情報源だと思います。
菅野 ありがとうございます。実際、本当にたくさんの人に導いていただいて、僕も感謝しかありません。
橋爪 カルトの研究は、ジャーナリズムとしてむずかしいテーマだし、もっと言えば、危険です。なぜなら、痛いところに手を突っ込むから。相手も危機感を覚えて、なりふり構わず攻撃をしかけてくる。その点アカデミズムは、気楽と言えば気楽です。宗教学は、実証科学ですからね。参与観察をしなさいとか、先行業績は全部読みなさいとか、そういう世界。宗教はいくつもあるので、ゾーンディフェンスで、わたしは○○教、あなたは○○教、と分担して、縄張りができている。メジャーな宗教が中心で、あんまり小さな宗教やカルト系の宗教を研究すると、研究者仲間で肩身が狭くなっちゃうんですよ。
菅野 うんうん、アカデミアの世界ではそうだと思います。
橋爪 そんなもの研究してると、就職は期待できないかもね、的なことを言われると、カルト系に興味があっても、怖くて研究できない。危険なカルトで、日本の社会によくない影響を与えている宗教があっても、アカデミアのちゃんとした研究は存在しない可能性が高い。その意味でも、菅野さんが大きなリスクを引き受け、労力も使って、研究したのは貴重です。これを、ジャーナリズムが消費するだけに任せておいてはいけない。その先に少しでもつけ加えなければという決意をもって、私はこの本を書いたのです。