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編集長が暴露! ジョニー・デップの表紙が続いたのは部数低迷のせい? フィービー・ケイツ人気は日本だけ? 「ロードショー」でいちばん売れた号は?

集英社オンライン / 2023年4月12日 12時1分

昨年7月より、「ロードショー」の1972年創刊号~2009年最終号までのカバーを、1年ずつに分けて考察してきた。流行や世相の変化までも反映する表紙の顔。当時の編集部はどうやって選び、またどんな気持ちで休刊を迎えたのか。今だから語れる裏話をオンライン版ロードショー編集長に聞く。

ジョニーじゃないと売れなかった

1972年の創刊号から2009年の最終号まで、表紙を通じて「ロードショー」の足跡を振り返ってきた「COVER TALK」。筆者は1996年ごろに同誌でデビューしてから、13年にわたって執筆してきた。休刊の際には大きな落胆を味わったが、中の人たち…編集部はどんな思いでそのときを迎えたのだろうか。

最終回となる今回は、筆者と同期間、編集者を務めた現レーベルの杉原麻美編集長に、「ロードショー」秘話と休刊後の動きについて聞く。



──「COVER TALK」の総括なので、まずは「ロードショー」の表紙について質問させてください。最終号に向けた数年、カバーはジョニー・デップばかりになっていきますよね。初登場が2004年なのに最多20回も表紙を飾っています。これは部数の低下と関係があるでしょうか?

その通りです。当時、部数は落ちていたんだけど、ジョニーが表紙のときはそこそこ売れて、ジョニーじゃなくなるとがくっと落ちて。だから、ジョニーをやり続けるしかない(笑)。

2000年6月号~2008年5月号まで、のべ20回も表紙を飾った
©ロードショー/集英社

──苦肉の策だったんですね(笑)。

日本中の通信社にあるジョニー写真は、ほぼぜんぶウチが買っていたと思われます(笑)。

──なぜジョニー・デップがそこまでの起爆剤になったのでしょうか?

単純にかっこいいとか、自分のスタイルを貫いているとか、もちろんそういう要素はあります。もともとはマイナーな作品を優先するアーティスト肌の人で、そんな彼を知っているってことが、一部の映画ファンにとって自慢だった。私だけが知っている存在、っていう。
でも、『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出てメジャーな存在になり、新規ファンが一気に生まれた。昔の彼を知っているファンと、『パイレーツ』からの新しいファンの両方がブームを盛り上げていったんじゃないでしょうか。

──一方で、ジョシュ・ハートネットやベン・バーンズなどを新たな看板スターにしようとしていましたよね。

日本でこれから人気が出そうって人を紹介するのは、常に「ロードショー」のテーマでした。『ナルニア国物語』のベン・バーンズにはものすごく期待をかけていて。『ライラの冒険 黄金の羅針盤』にしても、ロンドンのジャンケット(試写と記者会見がセットになったイベント)まで編集者を飛ばして、ページもたっぷり割いていたし。どちらも次の『ロード・オブ・ザ・リング』にはなりませんでしたが。

──当時は『ハリポタ』や『~リング』に続けとばかりに、ヤングアダルト小説の映画化が相次いでいましたね。いずれもクオリティが低く、ヒットには至りませんでしたが。

悔しいのは、休刊直後に『トワイライト』シリーズが始まるんですよ。

──確かに! クリステン・スチュワートとロバート・パティンソンなんかは、むちゃくちゃ「ロードショー」向きですね。さらに『ハンガー・ゲーム』も始まって、いずれもアメリカでは大ヒットシリーズになります。

「ロードショー」がそのときまで生き延びていたら、どうなっていただろうって思います。どちらのシリーズももっと日本でも盛り上げられたかもしれない。悔しいですね。

──ちなみに、日本で人気が出るスターの特徴ってありますか? たとえば、「ロードショー」の表紙登場回数で歴代2位のフィービー・ケイツは、アメリカじゃマイナーな存在じゃないですか。

えっ、そうなの? そんな気はしてたけど。

日本でなぜか絶大な人気を誇ったフィービー・ケイツ。回数はジョニーに譲るも、1982年9月号~1990年11月号までで19回と、なんと9年もカバーガールだったので、本当の「ロードショー」の顔はこちら?
©ロードショー/集英社

──どうして日本ではあそこまで受けたのでしょうか?

金髪碧眼の女優さんって、憧れを抱いても、どうしても距離を感じてしまうものよね。その点、フィービー・ケイツは黒い目、黒い髪で、まあ、厳密には黒じゃないんだけど、日本人に近い。同じことはジェニファー・コネリーやウィノナ・ライダーについても言えます。親近感を覚えるルックスをしていることが重要なのかも。

編集者の役得は、やはりスターに会えること

──「ロードショー」編集部では13年間仕事をされたわけですが、どんな日々でしたか?

いつも仕事が大量で、毎月自分の担当が決まってから「こんなにできるのか、私!?」っていうプレッシャーに押しつぶされそうになる毎日で。ただ、あなた(註・筆者)とか、イラストレーターのともゑさんとか、新人を見つけては育てていくのはものすごく楽しくて。

──そこが不思議なんですよ。ぼくなんかは杉原さんから原稿執筆を基礎から指導してもらったんですが、忙しいのにどうしてそんな面倒なことをしてくれたのか謎で。

“種を撒く”ことが人生のテーマだと個人的に思っているんです。だから、自分が撒いた種が芽を出したんだという嬉しさがすごくあった。

ただ、これは私だけじゃなくて、それが集英社の社風だということもあります。そもそも「週刊少年ジャンプ」が、1968年創刊の後発の漫画誌なので、新人発掘を命題としてきた。私も入社時にはジャンプ系の編集部にいて、その精神を叩きこまれたんです。それをそのまま「ロードショー」で生かしただけで。

──個人的に思い入れのある表紙はありますか?

長年務めていただいたアートディレクターが校了直前に急逝されて、棺に入れたジョニー表紙号や、最終号ひとつ前のアンジェリーナ・ジョリーの号にもぐっときますが、アリシア・シルヴァーストーンの表紙も思い出深いですね。あのころは来日したスターを何日も追っかけ取材をして、一緒に食事をしたり、スタジオで特写もした。

カメラマンの亀井重郎さんの腕がよく、アリシア本人も気に入って、渡米して専属カメラマンにならないかというお声がかかったほど。アリシアは局地的な人気で終わってしまったけど、彼女のキュートさと強さをとらえた写真がすばらしくて、私自身にとっても初めて親しくおしゃべりしたスターだったので忘れられません。

アリシア本人とパブリシストもお気に入りだった、日本での特写を使用した表紙
©ロードショー1996年3月号/集英社

──「ロードショー」の編集で役得だなと思ったことはなんですか?

やっぱりスターに会えたこと。取材の場はビクビクもしたけど、わくわくしましたね。

──取材は主にライターさんがするんですよね?

そうです。でも、たまに自分でやることもあって。2000年代に入ると紙媒体の取材時間がどんどん短くなってきたから、通訳さんを通す時間がもどかしく、英語でインタビューもしました。私なんかの英語力でよくやったなあって思います(笑)。でも直接取材した人のことは特に忘れられない。ポール・ウォーカーの水色の瞳とか。2013年に40歳で事故死しちゃったから、ますます鮮烈です。
とにかく「ロードショー」では、人生で初めてのことをたくさんやらせてもらえました。

──ちなみに「ロードショー」でもっとも売れた号はどれですか?

発行部数でいうと『E.T.』(1983年2月号)だけど、盛り上がったのは1997年の『タイタニック』だと思う。特集別冊も重版を重ねたし。『もののけ姫』もあって、映画業界全体が盛り上がっていましたね。

記録によればこの号が、史上最高の35万5000部を発行
©ロードショー1983年2月号/集英社

今でも“復活してほしい雑誌”調査の常連上位

──「ロードショー」最後の日を覚えていますか?

校了日に『めざましテレビ』の取材が入ったんです。老舗雑誌が最終日を迎えるということで取材したいと申し入れがあって。最後に、編集長が「はい、これですべて校了です」と言って、みんながパチパチって拍手をして。普段はぜったいそんなことやらないのに(笑)。

──テレビ向けの演出ですね(笑)。

そう。ちなみに、編集部内には“整理”っていう役職があるのね。当時はいまみたいにデータ入稿じゃないから、写真と原稿がちゃんと揃っているか確認する大切な仕事で。そして、整理担当の人が校了紙を通用口に運ぶと、あとで印刷所が受け取ってくれる仕組みになっていた。最終号の最終校了日、整理のおじさんが、「最後は杉原が下ろしな」って言ってくれて。

──粋な計らいですね。印刷所に渡す最後の原稿を運んだんですね。

私の“ロードショー愛”をわかってくださっていたから。泣きながら校了紙を通用口に運びました。

──その後、「ロードショー」を振り返る機会はありましたか?

新聞や雑誌で、“復活してほしい雑誌”なんていうアンケートがあると、今でも「ロードショー」が必ず上位に入るんです。昨年も「週刊女性」のアンケートで2位になりました。

ほかにも、読者の人生に影響を与えたんだなって気づかせられるタイミングがしばしばあって。たとえば、読者コーナーを担当していたんだけど、「ずっと読んでました! ハガキが採用されたこともあるんですよ」って言ってくれる人と会ったり。つくづくみんなが若い頃に一度は読んでいた雑誌なんだなあと実感します。そんな雑誌なんてあまりなんじゃないかな。女性だったら女性誌でそういうことはあるかもしれないけど、男性も「買った、買った!」って言ってくださる。非常にユニークな雑誌だったと思います。

──どんな世代の人が多いんでしょう?

創刊したのは、そうした需要があったからだから、70年代に読んでくれていた人はやっぱり熱い。80年代の読者…私もそこに当たるけど…これも熱いですね。80年代のハリウッド映画といえば、ルーカスとスピルバーグがいて、明るく楽しくていい映画がいっぱい出ましたし。

──昨年、集英社オンラインの映画記事レーベルとして復活し、「開運! なんでも鑑定団」ではスターの色紙が鑑定に出されて、話題になりましたね。

「なんでも鑑定団」スタジオでは、MCの今田耕司さんも大興奮

集英社オンラインでの復活が決まって、資料を整理しているときに、写真は使い道があるけれど「サイン色紙はどうしよう?」となった。若いスタッフが、「鑑定団に出してみたらどうですか?」って言ってくれて。制作会社に相談してみたら「ぜひやらせてください!」となって。

2000万円という鑑定結果に、依頼人絶叫

──今後の「ロードショー」はどうなっていきますか?

読者のみなさんが、新しい映画やスターに出会うきっかけを提供するというテーマは、紙版から集英社オンラインへと引き継いでいきます。そのうえで、歴史ある雑誌「ロードショー」のレガシーを生かしていきたい。「鑑定団」のおかげで、管理状態が悪かったスターのサイン色紙も、温度と湿度管理がしっかりした倉庫に移してもらえた。その展示をからめたイベントを企画したいです。
また、この連載を書籍化したり、「ロードショー」が主催していた賞を見直すなど、「ロードショー」が残したものをマルチに生かしていければと思っています。

取材・文/小西未来

※雑誌「ロードショー」の表紙から歴史を振り返る「COVER TALK」は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。

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