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最盛期には100軒以上。米兵相手の防波堤にもなったコザ・売春街のオンナの不条理な物語「離島や大島から女売りがきた」「娘なんかパンパンさせていたよ」〈1972年、沖縄コザ・パラダイス〉

集英社オンライン / 2023年4月14日 19時1分

沖縄県が日本に復帰して、今年で51年。これまで語られてこなかった裏の歴史にフィーチャーした電子書籍『パラダイス 占領下の売春地帯でしたたかに生き抜いた5人の女たちの物語』が刊行。当時を知る人々の貴重な証言をもとに、売春街コザの成り立ちを解説する。(トップ・サムネイル/©沖縄県公文書館)

現在のコザの街

昨年、沖縄は日本復帰50年の節目を迎えた。

NHKでは、「山原(やんばる)」と呼ばれる本島北部の家族の、1972年5月15日の日本復帰から現在までの足跡を描いたドラマ『ちむどんどん』が放送されるなど、沖縄の半世紀の歩みに注目が集まった。

第二次世界大戦において、日本で唯一の地上戦という悲劇に見舞われ、長い米軍統治の「アメリカ世」を経てもなお、過重な基地負担を負わされる苦難の戦後史を刻んだ沖縄。



しかし、沖縄についてこれまで語られてきたどの「正史」にも、売春街に生きた女たちの人生が登場したことはない。

本記事では、「売春街」に生きた5人の女たちを取り上げた電子書籍『パラダイス』(大洋図書)から、沖縄の売春街の成り立ちを一部抜粋して紹介する。歴史の裏側に秘められた、もうひとつの「真実」がここにある。


「売春防止法もあしたから発令だな」

1972年5月14日。米軍統治下の「アメリカ世」から日本に復帰を果たす前日、雨が降る「コザ」の街では、男たちがそんな会話を交わしていた。

「コザ」は、かつて沖縄県中部にあった街だ。「コザ市」から「沖縄市」へと街の名前が変わっても、地元の人間の多くがその通り名を口にする。

極東最大の米軍基地「嘉手納基地」を抱え、現在も市域面積の34,5%(2016年のデータ、沖縄市調べ)を米軍基地が占める「基地の街」。復帰前にあった猥雑な活気はもはや失われているが、日本復帰前、かつてのこの街の賑わいを支えたのが、「戦争」と「女」だった。

朝鮮戦争とベトナム戦争の特需だった

1950年代の朝鮮戦争、60年代から72年の復帰後も続いたベトナム戦争。戦争特需に沸き立つ街に、ドルを求めて「モトシンカカランヌー」、沖縄の方言で「元手がかからない」生業で暮らしを紡ぐ人々が集まったのだ。

米軍統治下の沖縄には、基地が所在する街の至るところに、こうした「特飲街(特殊飲食店街)」が存在し、そこで暮らす女たちがいた。

当時を知る人々は取材にこう答えている。

「当時、 嘉手納基地の第一ゲート近くにあった八重島にできたのが、『ニューコザ』 と呼ばれた特飲街さ。戦場に行く米兵を目当てに商売しようっちゅう連中が集まった」

新しい土地で商売を興す者、「アシバー」と呼ばれる寄る辺ない者も集まったが、 街の経済 を回したのは女たちだった。

「離島とか『大島』あたりから朝鮮戦争景気で女売りがきた。 娘なんかよ、パンパンさせていたよ」

国民の多くが窮乏した戦後。資源に乏しい宮古や八重山といった離島の貧困は、沖縄戦で焦土と化した沖縄本島よりもさらにひどいものだったのだ。

1960年のコザ市の街なみ ©沖縄県公文書館

米軍認可のAサイン

嘉手納基地を抱えるコザには、米兵相手の商売をする者が沖縄の内外から集まり、やがて、米軍認可の「Aサイン」の看板を掲げるバーやキャバレーが集まる「特飲街」が複数できた。

1950年、嘉手納基地そばの住宅街から離れた場所に最初期にできたのが、「八重島」、「ニュー・コザ」とも呼ばれた特飲街だ。最盛期には、100軒以上の米兵相手の「飲食店」が軒を連ねたが、その多くで売春が行われた。

米兵による婦女子への暴行が頻発していた当時、特飲街の女性たちが、彼らの劣情を受け止めることで、性暴力被害の拡大を防ぐ〝防波堤〟の役割も果たしていたようだ。

しかし、米軍による「オフリミッツ(立ち入り禁止令)」の度重なる発令で街は衰退。

1953年ごろ、米兵たちの「米軍人、軍属の健康、福祉の増進」と銘打って始まった「Aサイン」制度が発足すると、コザ十字路そばの「吉原」、黒人兵が集った「照屋」、嘉手納基地のゲートから胡屋十字路まで続く「ゲート通り」、「BC通り」の呼称もあった「センター通り」など「コザ」の各所に特飲街が勃興した。

街が最も活況を呈したのは、月に2回の「ペイデイ」の日だ。

「コザ」のAサインでバーテンとして働いていた女性はこう証言している。

「朝鮮が終わって今度はベトナム。Aサインにはアメリカー(米兵)がひっきりなしに来よったよ。ペイデイの日にはドルの束を机にドンっと置いて浴びるように飲んでいたよ」

「アメリカーって言っても下っ端の人はかわいそうなもんさ。それでもホステスの女の子はお構いなし。『明日、死んでくるんだ』っておいおい泣くアメリカーを『オーケーオーケー』言いながら慰めて。もう一方でグラスをどんどん空けていく。私にはようしきらんかったよ」

ベトナム戦争当時、「コザ」にある嘉手納基地は、兵士を前線に送り込む前線基地となっていた。任務のために戦地に赴き、沖縄に帰還した米兵は「山帰り」と呼ばれた。生命の危険と引き換えに多額のドルを手にした彼らは格好の「カモ」だった。

「コザ」の古参ヤクザは振り返る。

「ベトナムから休暇で帰ってくる連中がいるでしょ。『山帰り』いうてね。殺し合いから戻ってくるわけだから、もうみんな頭おかしくなっているわけさ。そういうのを待ち構えている連中がいるわけよ」

「連中は女に飢えているから、ちょっとあそこを触っただけでもう終わり。ましてアメリカーなんて若いさ。戦争の手当てでものすごいカネをもらっているけど、若いから感覚もわからんわけよ。そういう連中からカネをふんだくる。ぼったくり? ま、そうさね」

取材に答える羽賀研二

現在にも繋がるコザの変遷

人種間の対立が深刻な米国の実情を反映し、「コザ」でも肌の色による棲み分けがされていたことを知っている人は少ないのではないか?

そんな当時の「コザ」の空気を映像として残したのが、映像集団「NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)」が1971年に発表した記録映画「沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー」。撮影メンバーが取材拠点としたのが、黒人街と化していた「照屋」だった。

撮影メンバーのひとり、井上修氏はこう話している。

「コザは、明確に人種で棲み分けがされていた。ゲート通りと、そこにほど近いセンター通りは白人の街だった。僕らがいた照屋には黒人たちがいた」

黒人兵向けのAサインや米軍の認可を受けていない売春宿も点在していた地区のほど近くに、現在も残る「特飲街」がある。

1952年、コザの最初の特飲街で、「ニューコザ」と呼ばれた「八重島」に続いて拓かれた「吉原」だ。60年あまり、街の変遷を見続けてきた商店主が教えてくれた。

「もともとは白人相手の特飲街だったが、50年代の半ばに米軍の大規模なオフリミッツがあり、日本人相手に宗旨替えしたって話よ。名前の由来は、ソープランドが集中する東京の吉原からとったと聞いているが、確かな話ではないさ」

コザ出身のタレントの羽賀研二にも話を聞くことができた。米兵の父と沖縄人の母を持つ「アメラジアン」として生を受けた自身の半生、沖縄戦の記憶が刻まれた沖縄で「アメリカー」の子どもを宿した母親の思い出を振り返り、こう語っている。

「日本は本当に特殊な国だと思います。 だって、原子爆弾を落とされているんですよ。 沖縄戦では火炎放射器で住民を焼き殺されたりもしている。

それでも日本にいま、反米感情ってないでしょう。逆に憧れてるくらいだ。俺はそれがすごく不思議。じゃあ、自分に反米感情があるかといえば、ないですよ。だって、半分アメリカ人なんだから。反米感情、 持とうと思っても持てないんです」

「コザ」では復帰直前の1970年、住民らが米軍の車両を一斉に焼き打ちし、米軍への抵抗の意思を示す「コザ騒動」と呼ばれた民衆蜂起も発生している。

取材を通して、「コザ」が「基地の島」としての不条理が澱のように積み重なってできた街であるということを感得した。

沖縄にはいまも在日米軍専用施設の約7割が集中し、米軍の事件事故が相次ぐ「基地の島」であり続けている。

国防の重責を背負わされ続けている一方で、絶対的貧困が横たわり、4人に1人が命を落とした沖縄戦の悲劇を忘れまいと声を上げる県民には理不尽な敵意が向けられる。

半世紀前、「コザ」の女たちが生き抜いた不条理な物語はいまも続いているのだ。

※敬称略

取材・文/安藤海南男

パラダイス(ミリオン出版/大洋図書)

安藤海南男

2023/4/1

880円(税込)

118ページ

ISBN:

-

1972年5月15日。戦後アメリカに統治されていた沖縄が日本に返還された。その日から50年が過ぎた。だが、占領下を身ひとつで生き抜いた女たちのことがこれまで語られることはなかった。これはNHK『ちむどんどん』では描けなかった、戦後沖縄の「コザ」の売春地帯の真実だ。

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