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「ハブをあそこに入れちまった」1970年・沖縄日本復帰前のあの日、紫煙立ちこめるコザの店内で見たハブと性愛のダンスを踊る、“遊女”キワコの一生

集英社オンライン / 2023年4月14日 19時1分

沖縄県が日本に復帰して、今年で51年。これまで語られてこなかった裏の歴史にフィーチャーした電子書籍『パラダイス 占領下の売春地帯でしたたかに生き抜いた5人の女たちの物語』が刊行された。本記事では当時の沖縄を生きた、1人の女性のエピソードを紹介する。(トップ/©沖縄県公文書館 サムネイル/©Shutterstock)

©沖縄県公文書館

沖縄についてこれまで語られてきたどの「正史」にも、売春街に生きた女たちの人生が登場したことはない。だが、沖縄が日本復帰した1970年代、ベトナム戦争や朝鮮戦争で戦ったアメリカ軍を相手にしたたかに生き抜いた女たちがいた。

キワコと呼ばれた一人の女の人生から、当時の沖縄の様子がありありと伝わってくる。


ハブをあそこに入れちまった

「ゆめ、見てるみたいだったなあ」

男はひと言、そうつぶやいた。1970年、沖縄・コザ。何月の出来事だったのかは覚えていない。男の記憶はおぼろげだった。男の名は島健二(仮名・70代)。

日本復帰直前の70年、20代で郷里の奄美大島から沖縄に渡った島は、那覇市内にキャバレーを開店。そこを足がかりに飲食チェーンを立ち上げ、財を成した。

極彩色のネオンの裏側から沖縄の半世紀を見つめ続けた島が、まだ野心あふれる若者だったころに出会ったのがその女だった。

「場所はセンター通りの近くにあるスナック。宴席に呼ばれてやってきたのが、彼女だったわけさ」

宴の主催者は、「普久島」(仮名)という男だった。米兵相手のAサインバー(認可を受けたバー)やキャバレーが軒を連ねるセンター通りで、「プッシーキャット」というキャバレーを経営する町の「顔役」だった。

「キワちゃんを呼ぼう」。コザでは知らぬ者がいなかった普久島のひと言で酒席は一層盛り上がった。普久島はどこかに電話をかけ、その女を呼び出しているようだった。それから数時間。島が、何杯目かのグラスに手を伸ばそうとした時、店のドアが開いた。

「キワコです」

そう名乗った女は、傍らに、テープレコーダーとバスケットを携えていた。待ってましたとばかりに普久島が声を上げる。

「あれやってよ、あれ」挨拶もそこそこにキワコは、テープを再生させ、狭く薄暗い店内でリズムを刻み始めた。

しこたまに酔った男たちの視線にさらされながら、服を1枚、2枚と脱いでいく。呆気にとられるような心持ちでキワコのダンスを見ていた島は思わずあっ、と声を上げた。

「バスケットの中からハブが出てきた。びっくりしていると、そのハブを身体にぐるぐる巻いて踊るんだ。そりゃあもう驚いたよ」

いいぞキワちゃん、いけいけ——。やんやと囃し立てる男に愛想を振りまきながらも、踊り子の視線はどこか挑発的でもあった。

「眼がらんらんと光っているのよ。そして、ついにハブを自分のあそこに入れちまった」男の「化身」を抱いて果てた女の眼には、なおも鋭い光が宿っていたという。

©Shutterstock

流しの踊り子

日本復帰が迫る沖縄は、「世替わり」の混沌の中にあった。街には復帰への高揚と不安が入り交じる妙な空気が漂い、米兵相手のバーやキャバレーからは、Aサインの許可証が徐々に姿を消していった。

空前の好景気をもたらしたベトナム戦争の終戦も近かった。復帰前、生きる糧を求めて「基地の島」に渡った人々の運命も大きく変わった。

「アメリカー相手の商売をしている者の稼ぎは、そりゃあすごいもんだったさ」復帰前、コザのAサインバーでバーテンとして働いていた栄としこ(仮名)は、往時の活気を懐かしむ。

「パンパンやキャバレーの踊り子なんかは相当もらっていたはずよ。貯め込んだお金を元手に商売を始める人も多かったさ」島と同じく奄美出身だったキワコは、同郷の心やすさからか、コザの店で、出会ったばかりの島に身の上話をしたという。

「出会った時は、『〝流し〟の踊り子として生計を立てている』と言っていたよ。普段は那覇にいて、呼ばれればあちこちのスナックやキャバレーで例の〝ハブ踊り〟をやっていたそうだ」キワコが、郷里を離れ、沖縄の土を踏んだ時期ははっきりしない。

ただ、縁もゆかりもない別の島からやってくる際に、ある人物を頼ったことは後年になってわかったという。

「戦前、辻で料亭を経営していた女性がいた。キワコは、戦後、那覇市若狭で喫茶店を経営していたこの女性のもとに身を寄せていたようだ」島は、言う。

琉球王朝の時代から花街として栄えた辻は、「尾類(ジュリ)」と呼ばれた娼妓が集まり、一種のコミュニティーを形成していた。

3歳で辻に身売りされ、戦後の米軍政下で料亭「松乃下」を開いた上原栄子は、自身の半生を綴った自伝『辻の華——くるわのおんなたち』(時事通信社刊)に、往時の辻の雰囲気をこう記している。

〈約三百軒もあるといわれた妓楼のどこにも、女たちを支配する男性が一人もいなかった、まったくの女護ヶ島だった(中略)その花園には実際に特別な女だけの行政がしかれ、売られてきた多くの女たちが、娼婦か芸者か見分けもつかぬ形で、厳しい辻だけの掟を守って秩序を保ちつつ、長い間に培われた穏健な雰囲気のなかで、お互いを信頼し、尊重し合いながら日々の生活を営んでおりました〉

「ニュー・コザ」と呼ばれた特飲街「八重島」の跡地に今も残るカフェー。往時の面影を残す

キワコも辻に助けられていた

辻の妓楼は、2~5人程度の芸妓を束ねる「抱親(アンマー)」が経営し、抱親の中から選ばれた「お年寄り」「中元老」「大元老」が辻全体の運営にあたったという。

『辻の華』では、肉親の縁を失った者同士が集住し、支え合い助け合う独特の社会システムを形作っていた抱親について〈親に連れられてきた娘たちを買い取って遊女に仕込む抱親たちは、自分も親に売られた哀れな道を通ってきた姐(おんな)であるだけに、人の傷みに我が身の古傷を思い出しました〉と綴られている。

しかし、米軍の沖縄上陸の前年、1944年に起きた「10・10空襲」で辻の状況は一変する。延べ1396機、9時間にわたる米軍機による無差別な空爆で、壊滅的な被害を受けた。

辻は当時、政財界をはじめとする各界の士が集まる社交場ともなっており、日本軍の軍人たちも一時の安息を求めてやってきていた。空襲で焼け出された辻の女性たちの一部は、32軍の司令部壕があった那覇市首里に身を寄せたという。

旧日本軍作成の資料には、首里の32軍壕の第3梯団に「若藤楼」という料亭の女性が、第4梯団に「偕行社」の女性がいたことを記している。偕行社は旧陸軍の親睦組織で、敗戦により一時解散したものの、1952年に陸軍将校OBらにより、「偕行会」として復活。57年には偕行社の旧名称に改められて財団法人化され、現在は旧陸軍の実質的な後継組織となっている陸上自衛隊の親睦団体となっている。

偕行社は太平洋戦争時には、幹部たちの慰安のために将校倶楽部も運営しており、那覇市に隣接する現在の豊見城市にその施設はあったとされる。

一方、若藤楼は辻にあった遊郭であり、前出の上原栄子の著書『辻の華』の後編にあたる『辻の華・戦後編』(時事通信社刊)に、若藤楼の女性たちが首里の32軍司令部に移動したとの記述がある。

戦前から戦後にかけ、激動の時代を生き抜いた女性は、戦後、生きるために沖縄に渡ってきた身寄りのない女性たちの駆け込み寺のような存在になっていた。

「親に捨てられて天涯孤独の身の上だったこともあるのかもしれない。特に奄美の女性たちの面倒をよく見ていて、キワコも助けられたひとりだった」

しかし、キワコはある日、女性の前から姿を消す。

那覇市内のAサインバーで踊り子をしている——。女性が、キワコの消息について、そんな噂を耳にしたのはしばらく後のことだった。

©Shutterstock

巨万の富

那覇市中心部を走る国際通りは、「奇跡の1マイル」の別称で知られる観光都市、沖縄を象徴する通りだ。

1974年、復興の中心地だった那覇市牧志に、映画館「アーニーパイル国際劇場」が開館したことから名付けられたこの通りのちょうど中間あたりに「桜坂」という歓楽街がある。

いまも、コンクリート造りのこぢんまりとしたスナックが群集するが、かつては数百軒のバーやキャバレー、スナックがひしめき合う県内随一の歓楽街だった。

そして、キワコがはじめて自分の店を持ったのもこの場所だった。

「気前がよくてね。貫禄もあった。そうさね、女親分というのかな。そんな雰囲気もあったさあね」地元組織の元幹部で、現在は本島中部の勝連半島で漁師をする新里昌夫(仮名)はこう懐かしむ。

当時、新里は20代。ふた回りほど年上のキワコは40歳近くになっていた。長い内部抗争の渦中にあった組織の中で、新里のような血の気の多い若者がキワコの店に頻繁に出入りしていたという。

「若い者を見かけたら酒飲ませてくれたもんさ」「世替わり」の沖縄には無秩序な空気が充満していた。刺激に飢えた連中が、抱え込んだ欲求不満を安酒で解消しようと集まった桜坂では、暴力沙汰が日常茶飯事だった。

「いくさ世」さながらの混乱の中、キワコが頼りにしたのは、持ち前の度胸と侠気だった。

無軌道な「アシバー(ヤクザ)」をも向こうに回しながら、夜の街を生きぬいたキワコはやがて自分の店を持ち、成功を収める。

狂乱の時代が終焉を迎えてしばらく経ち、島は、新たな金脈を探り当てたキワコと再会を果たしている。

「昭和50年頃だったか。奄美から出てきた者らで集まることになったわけさ」島が、会場となった那覇市内のホテルで顔なじみの郷里の友人と語らっていた時、着飾った女がやってくるのが見えた。

「眼を見てわかった。キワコだった。コザで出会ったあの女だと気づくのにしばらくかかったよ」この日のキワコは饒舌だった。そして、踊りの相手に、バスケットの中に潜む蛇ではなく、島を指名した。

踊り出したら止まらなかった。島は、奔放なキワコのステップにへとへとになるまで付き合わされた。

世替わりの混乱に呑み込まれることなく、成功の階段を這い上がったキワコは数年前に鬼籍に入った。それまで自分の過去を周囲に語ることはほとんどなかった。

しかし、島の網膜には、復帰前のあの日、紫煙立ちこめるコザの店内で見たハブと性愛のダンスを踊る若き肢体が、いつまでも色あせることなく焼き付いている。

※敬称略

取材・文/安藤海南男

パラダイス(ミリオン出版/大洋図書)

安藤海南男

2023/4/1

880円(税込)

118ページ

ISBN:

-

1972年5月15日。戦後アメリカに統治されていた沖縄が日本に返還された。その日から50年が過ぎた。だが、占領下を身ひとつで生き抜いた女たちのことがこれまで語られることはなかった。これはNHK『ちむどんどん』では描けなかった、戦後沖縄の「コザ」の売春地帯の真実だ。

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