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【ヘルメット破損で危機一髪】メガバンクの花形キャリアから39歳で挫折したエリート銀行員が極限まで過酷なレースに挑みたかった理由。「計算尽くの生き方なんて、もう嫌だ」

集英社オンライン / 2023年4月29日 11時1分

2022年8月に開催された日本一過酷な山岳レース「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」。極限の人間ドラマが満載の熱走ノンフィクション『激走! 日本アルプス大縦断TJAR2022 挑戦は連鎖する』(集英社)より一部抜粋、再構成してお届けする。(全4回の4回目)

メガバンクの花形キャリアからの挫折

日本一過酷な山岳レースの初日。

やがて陽が沈み始めた頃、ナンバー26・坪井伸一(54歳)が、先を進むナンバー2・野寄真史らから遅れて薬師岳山頂部へ来る。50代以上の選手全7人の中では最速のペースだ。息を切らして祠の前に進む。

「すいません、帽子被ったままで失礼します」

スタート直前の坪井選手


頭を下げて、柏手を打つ。

2日目に中止となった 2021年大会の番組では、オープニングとエンディングに坪井が登場した。坪井は「裏回し」、言うなれば陰の主役だった。

「計算尽くの生き方なんて、もう嫌だ。ここからは、自分のために100パーセントやっていきたい」

メガバンクで勤続32年になる坪井。長らく、花形の企業融資畑でやってきた。自宅も35年ローンで川崎に買った。諸々、順調だった。だが39歳の時。

「抱えて抱えて、いっぱいいっぱいになって、自分がもうストレスでダメになった。寝てても、寝言でうなされてました」

妻によれば、寝ながら誰かと具体的な金額をあげてやりとりをしていたという。そして、会社に行きたくなくなった。近所の心療内科で診断を受け、初期の鬱症状と告げられた。その後、待っていたのは部署異動。ラインから外されてしまう。悶々とした。

家族との時間を持つことができるようになったのはよかった。しかし……、

「同僚と会いたくないという気持ちは、正直あった。『あなたは法人担当ラインから外れて、気楽な身分になったから楽しめるんでしょう』。自分をそう見てるんじゃないか、と」

そうこうするうちに、自分のこれまでの人生はなんだったのかと思いを巡らせるようになった。中学時代は陸上部に所属し、自分としても満足できる成績を出した。だが高校で挫折し、2年生の時に逃げるように退部した。

「表向きの理由は『自分はここでやめて、大学受験を頑張る』というもの。言い訳であり、中途半端でした。受かりそうな大学に適当に目標を下方修正し、受かりました。景気がよく、就職もできました。内定をくれるなら、そこで頑張ればいいかと。でも、勝ち取った感じじゃない。自分をごまかしての現実逃避を、ずっと繰り返しているんじゃないかな」

このレースの核心を突いた坪井選手の言葉

高校以来、走ることのなかった坪井は、新しい職場への辞令を受けた翌年から、再び走り始めた。自ら挑み、勝ち取るものがほしくなった。そこに2012年の番組があった。2018年は選考会で不合格。気持ちを切らさず、2021年大会で念願の出場を果たした。卑屈な気持ちや、仕事のわだかまりも吹き飛んだ。そうしたものはすべて心から追い出し、100 パーセント本気で取り組まねばTJARとは向き合えない。

「そうでありたいという自分のラインから外れた時に心配をかけた同僚に、『あいつ、違う形だけども、もう1回輝きを取り戻そうと頑張ってるな』、そう思ってもらえれば」

レース中の坪井選手

2021年、そう語りながらも、大会中止によって夢を果たせなかった坪井。

「今までは勝算や確率を考えて、ダメそうならやめてきた。そんなことでは、このレース、ゴールできる保証はない。こんな苦しいことを何回もやって、これだけ真剣に取り組めるなんて、自分は変わったなと。もう1回、これを目指して本当のゴールに辿り着けたら、自分はもっと変われるんじゃないか。いやあ、どうしてもあのゴールを見てみたい」

この言葉は、 2021年の番組の最後に置いた坪井の語りだ。これは選手たちの声であると同時に、21世紀の日本に生きるすべての人間たちの声でもあると、制作陣一同が感じた。

努力さえすれば何事も報われるワケでもないと痛感した2021年大会から1年。0・01パーセントでも可能性があるならと、トレーニングを続けた。踵をつけず、2リットルボトルを3つ入れたザックを背負って走るなどして、体幹を鍛え上げた。

2022年には54歳。勤務先では役職定年を迎える。毎年低下していくばかりの体力は経験や知識でカバーし、衰えるペースを緩やかにするしかない。一日一日、全力を尽くさないと、たちどころにダメになる。

賞品・賞金のないこの大会で得られるもの

一方で他のレースに出場したり練習したりしている時に、見知らぬ人から声をかけられ、「頑張ってください」と応援されることがあり、それも力になった。この1年間は、とても充実した時間を過ごせた。賞品・賞金もないこの大会を目指す経験そのものが、坪井にとってはそれ以上のものなのだ。

そして果たした二度目の出場。30名の選考会通過者リストに自分の名を見つけ、抽選がないと知ったその日は、定時で仕事を切り上げて、会社近くの居酒屋で妻と待ち合わせて祝杯を挙げた。

会社人生が曲がり角を迎えた“あの時”から15年。

「今度のレースで本当のゴールに辿り着ければ……自分の納得するところまでできたら、次のステージに向かって頑張れると思います。いろんな意味で節目の大事なレースです」

開会式には妻も姿を見せた。

「走り出すところを見たい、きれいな空気もちょっと吸いたいなと思っていたんです。花火も見れたし、月も見えた。いいことしかない。絶対に大丈夫よ」

本大会のスタート前日に突然、妻から「スタート地点に一緒に行く」と告げられた。

「『行きたい』と言葉をもらい、すごく力になりました。やるしかないです。ここまで来たら大浜海岸に行くため、どんなことがあっても諦めないで頑張りたいと思います」

槍ヶ岳手前でレース中止となった去年と比べ、ここまで2時間早いペース。ただ、剱岳を登り始めて間もなく、足先と腸脛靭帯が痙攣し始めていた。そこが不安要素だ。

剣岳の山頂

そして、4日目。不安要素を抱えながらもレースに挑む坪井選手をアクシデントが襲った。
中央アルプスを走っていた坪井がヘルメットが大破するほどの滑落した。その後、駒ケ根でリタイヤしたのだ。

その一報はすぐ撮影本部に入った。20キロ圏内にいたのは杉目七瀬ディレクターのみ。食事のため、宿に戻ろうとした時、「現場急行。坪井を直撃せよ」の指示が下された。もっとも、坪井の詳しい居場所はわからず、探すことから始めないといけない。

GPSでは温泉施設にいると表示されたので向かった。たまたま居合わせた大会実行委員会メンバーに男性用湯船の中まで覗きにいってもらったが、いない。その後、スタッフが宿泊する宿で坪井の姿を見かけた、との情報が入り、駆けつける。

「自分が思っている以上に、相手が何かを言うのを待て」

ロケ開始前に会社の上司である日経映像の深堀鋭プロデューサーから杉目に、口を酸っぱくしてロケの作法が伝えられていた。まだ取材現場での経験が浅い杉目。うまくインタビューできるのか、責任重大で恐怖を感じながら、部屋を訪ねた。

「どんなにTJARを目指したことがよかったか、伝えたい」

ベッド上に置かれていたヘルメットは、頭頂部に15センチ四方の穴が空いていた。衝撃の大きさを物語る。坪井の沈黙に、杉目はいたたまれない。やがて坪井が、ヘルメットを片手に話し出す。

破損する前の坪井選手のヘルメット

「すみません、不甲斐ないことになって。昨日も中央を上がる時には気分が乗って、今日は頑張ろうと思いました。でも上にあがると、ものすごい霧でキツさとの戦いでした。その最後の最後で肩を……ヘルメットをやって、打つ手なしです。

関門にギリギリ間に合わなかったとか、本当に最後の最後まで戦い抜いたならともかく、一人でこけて、ぶっ壊して、いかんともしがたいというのは……。10年間をかけて、『今度こそ』っていう思いでやってきたので残念ではあるけど、自分で消化します」

坪井はしばし沈黙すると、目を固くつむる。さらにカメラから目を逸らし天井を見上げ、また訥々と語り出す。

「このレースで事故を起こすのは、絶対やっちゃダメ……やっちゃダメ……やっちゃダメ。……そこはぶれなかった。……それはわかってるんだけど……悔しいな、やっぱり。結果は残せなかったし、妻には『ゴール見せるよ』って約束しただけに残念です。

でも、レースをずっと目指して得た経験や、人との縁、学ぶことは多かった。宝物がうんといっぱいあるし、ここまでで終わったけど、誇りを持っていいのかなと。……特に妻に、『こんなによかったんだ』と自分の言葉で伝えられたら。……どんなにTJARを目指したことがよかったか、伝えたい」

坪井の目から涙があふれる。杉目はもらい泣きした。インタビュー終了後、坪井に声をかけた。

「励まされた人も大勢いましたよ」

坪井は黙って、じっと耳を傾けていた。取材を終えての帰り道、杉目は軽々しいことを言ってしまったのではないかと頭の中で考え続けた。坪井の話がしっかり撮れたことが救いだった。

取材・文/齊藤 倫雄 写真提供/TJAR実行委員会

『激走! 日本アルプス大縦断TJAR2022 挑戦は連鎖する』(集英社)

齊藤 倫雄&NHK取材班・著

2023年4月26日発売

2090円(税込)

四六判/300ページ

ISBN:

978-4-08-781735-5

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