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「教養あるビジネスパーソン」は本当に教養があるのか? 「教養としての〇〇」が氾濫する現代人の甘い目論見

集英社オンライン / 2023年4月24日 7時1分

近年、多くのビジネス書のタイトルに「教養」や「教養としての」という言葉が乱用されている。そもそもビジネス書を読んで教養は手に入るのか? また実際に彼らがほしいのは「ファスト教養」ではないのか、という点について解説していく。

教養というヴェールをまとった雑学

ここ数年で教養という言葉ほど地に落ちた言葉もないと感じています。ありとあらゆる書籍タイトルに教養という言葉が使われていることに違和感を感じますし、極めつけとして「1日1ページ5分読むだけで1年後、世界基準の知性が身につく!」という売り文句で売られている書籍も存在します。

それで身につくのは知性ではなく雑学ではないのかという皮肉を言いたくなる気持ちはさておき、ここまでバズワードとなった教養とは何かということを考えてみたいと思います。



個人的には、教養とは「教養を手にする」という目的では手に入らないものであり、ただただ知への好奇心から学習を追求した結果、死ぬまでに誰にも話さないかもしれない知識の集合体として、教養というものが手に入るのだと思っています。

そう考えると、多くの人がほしがっているのは教養ではなく、誰かに話したくなる「教養を装った雑学」だと言えるのではないでしょうか。

教養の養分となる知識は、要約動画やタイパという効率を優先する時代において最も不要な存在です。これらの知識は、要約する際にはまず始めにカットされる情報であり、Amazonのレビューなどでは「文章が冗長」と書かれる箇所です。

しかし、この“教養”というバズワードを取り巻く環境で皮肉なのは、本を読む時間がもったいないと感じ、要約動画を見たり、タイパを求めたりする人たちこそが教養をほしがっているということです。

ファスト映画も要約サービス、要約動画も本質は同じ

筆者は本を読まない日はほとんどないほど本を読むことが好きですが、そんな人間からすると、本の要約サービス(要約動画)とファスト映画は本質的には同じではないかと思っています。

ファスト映画が問題なのは著作権の問題ですので、その点を除くとやっていることは同じです。本を読まない人でも映画を見る人は多いと思いますので、映画を例に想像してみてください。2時間ほどの映画を10分で人に説明してもらったとして、それは自分で映画を見たのと同じ効用を得ることができるのでしょうか?

おそらく、違うと思います。

書籍も同様に、本筋には関係のない部分が意外と頭に残ることがあります。それは、読んでいるその瞬間の自分だから引っかかる箇所であり、次に読み返すときにはもしかすると気にならない箇所でもあります。

だからこそ、本というものは読むためではなく自分がどう感じ、どう考えるのかを知るために存在するのだと思います。その経験をすることで自分の言葉として話すことができるようになります。

その数が莫大な量になるからこそ、教養というものが身につくのではないでしょうか。そう考えると、教養のある人から話を聞き続けても教養は身につかないように、要約サービス(要約動画)で教養は身につかないでしょう。

なぜ教養をほしがるのか?
本当にほしいのはファスト教養

そもそも教養がある人など、人類のうち1%もいないでしょうから、ほとんどの人間にとって教養とは縁遠いものであり、そのような存在を多くの人がなぜほしがるのか疑問です(余談ですが、筆者は教養がほしいと思ったことはありません)。

この点について詳しく論じているのが、集英社から出版されている『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』です。この書籍の中で著者のレジー氏は、多くの人がほしがる教養を「ファスト教養」と表現しています。

書籍の中でレジー氏はファスト教養を以下のように定義づけています。

「楽しいから」「気分転換できるから」ではなく「ビジネスに役立てられるから(つまり、お金儲けに役立つから)」という動機でいろいろな文化に触れる。その際自分自身がそれを好きかどうかは大事ではないし、だからこそ何かに深く没入するよりは大雑把に「全体」を知ればよい。そうやって手広い知識を持ってビジネスシーンをうまく渡り歩く人こそ、「現代における教養あるビジネスパーソン」である。着実に勢力を広げつつあるそんな考え方を、筆者は「ファスト教養」という言葉で定義する。
(『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』より)

非常に的を射た表現です。多くの人がほしがる教養がファスト教養と思えば合点がいきます。世界史、地政学をはじめとし、ワインや絵画といったビジネスシーンで活用できそうな知識ほど、「教養としての○○」という形でビジネスパーソンに提供されています。

Amazonで教養というキーワードで書籍を検索してみると、ありとあらゆるテーマの「教養としての○○」が販売されており、同時にビジネスエリートやビジネスパーソンという言葉が並んでいることから、レジー氏の指摘するようにビジネスパーソンにとっての教養とは、他のビジネスパーソンとの差別化に欠かせないものになっていることがわかります。

とはいえ、書籍タイトルは著者ではなく出版社に決定権があることが一般的であり、教養という言葉を付けていれば売れるからこそ、これだけの数の教養本があるということです。

教養がないといけないと思わせた広告の勝利

ここまで見てきたとおり、「教養」と「ファスト教養」は明らかに別物であり、むしろ対極にあると言っても過言ではありません。そして同時に資本主義社会において、多くの人間に欠乏感を与えることが資本主義を動かす力なのだと痛感します。

スロバキアの哲学者スラヴォイ・ジジェクは、このような現状に以下のような発言をしています。

“現代人は足りないものを教えてくれる人を必要としている。だから広告が現代社会に欠かせないのだ。教えられて初めてもっと欲しいという意欲が出てくる”

ビジネス書を売るために、現代人は自分に不足するのは教養であると思わされているのでしょう。しかし、皮肉にも教養とはビジネス書を読んで手に入るものではありません。

また、深い知識ではなく幅広い知識を持つ人は、今後はChatGPTのようなAIツールに脅かされる可能性があります。その時には、人間くさい非効率や無駄が評価されるかもしれません。そして、利益を求めない情報収集が意外と人生に役立つことは少なくありません。

それが本来の教養に近づくことでもありますので、自分の好きを追求してみる時間を作ってみてはどうでしょうか。

取材・文/井上ヨウスケ

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