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太平洋戦争の苦しみをさまざまな視点から描き抜く。『二百三高地』に続き樋口真嗣を圧倒するこの戦争大作を世に送った舛田利雄監督は、ほぼ同時に青春&ラブなヒット作も撮っていた!【『大日本帝国』】

集英社オンライン / 2023年5月6日 12時1分

『シン・ウルトラマン』Blu-ray特別版、著書『樋口真嗣特撮野帳』が絶賛発売中の樋口真嗣監督。1982年、17歳の頃に見て“爪痕”めいた強烈な印象を得た、原点ともいうべき映画たちについて、熱情を燃やしながら語るシリーズ連載。第9回は、邦画を語る。戦争大作『大日本帝国』に衝撃を受けつつ、舛田監督のバイタリティにはもっと感服!

撮影所に出入りするという優越感

実は、というかすでにあちこちでカミングアウトはしているんだけども、1982年の段階で私はすでにただの映画ファンではありませんでした。遡ること2年前、中学3年のときにひょんなことから東宝スタジオに出入りするチャンスを手に入れ、それからというもの、暇さえあれば小田急線で成城学園前に行き、映画が生まれる場の空気に触れて悦に入っていました。



別に仕事をしていたわけではありません。ただの見学者です。だけど、それでも一観客を超えて最新の映画でなにが作られているのかを誰よりも先にキャッチしていたわけですよ、中学生の分際で。

現在の東宝スタジオ。壁面にはスタイリッシュなゴジラが
写真:アフロ

だが残念ながら、そのことを自慢する相手がひとりもいなかったのです。クラスのみんなはといえば、映画に興味があって習慣のように映画を見るのは一握りで、しかもその一握りの全員が洋画しか観ていないではありませんか。 だから私がキャッチした東宝スタジオの最新情報なんて、誰も見向きもしなかったのです。

今からは考えられないほどに、日本映画を取り巻く状況は冷え切っていました。 と言いながらも改めてその頃作られた映画を見ると、今では絶対できないようなことばかりやっていて愕然とします。

アメリカからは莫大な予算とアイデアが投下されたエンタテインメント大作が、香港からは命懸けのスタント、アクションが。そしてヨーロッパからは芸術的センスの高い珠玉の名画が押し寄せていたし、それまでの単なるテレビシリーズを映画監督がまるで名義貸しのように劇場版としてまとめ上げただけの劇場アニメから、純粋なアニメーション演出を手掛けてきた世代による鋭利な演出によって、オリジナルアニメーション映画が輝き始めてきていた。

もしかしたら今なお変わっていないのかもしれませんが、日本の実写映画は何をやっていたのか? もしかしたら、あのとき東宝の撮影所に出入りしていなければ、私も蘭癖(らんぺき)たちの仲間入りができていたかもしれません。

それでも、あの数年間は…みんなよりも映画に近づいているという、自分にしか伝わらない優越感…それはいずれ製作現場に身を投じて全く違う次元で打ちのめされることになるなんてつゆ知らぬ、おめでたいモラトリアムのひとときだったのです。

撮影所というところは毎日、ひっきりなしに撮影をしているイメージがあります。所内の目抜き通りには扮装をした俳優たちが行き交い、分解されたさまざまな国や時代の建築物の部品が、台車によって軽々と運ばれていくーー。そもそも、撮影の前には準備…ステージにセットを建てたり、機材を搬入したりして、撮影が終わればそれを全部バラして片付けて何もない状態に戻します。のちに自分の映画が作られるようになって愕然とするのは、撮影そのものの時間よりも撮影の前後のステージを占有する時間のほうが長い場合が多いということです。

もっと言えば、とてつもない時間をかけて作られる映画のほとんどは、わずか1か月の公開で終了するのです。儚い花火のような夢幻でございます。

だからなのか、あの頃は撮影時に行っても大体ひっそりと静まり返っていました。もうひとつ原因があるとすれば、本当にあの頃は映画の製作本数が激減して、あったとしても撮影所のステージに大きなセットを組む豪勢な撮影よりも、小規模なロケーションが主流になっていたのです。

ゆえに、撮影所はもっぱらコマーシャルにステージを貸し出していたのです。その頃のコマーシャルはバブル期直前の上向き景気に呼応した、虚構性を優先したイメージ作りが主流でしたから、大きなステージに大きなセットは必需品でした。それまでの映画づくりに欠かせなかった巨大なセットを作り、ライティングする技術は、そのままコマーシャルに転用され、多くの優秀な映画人があの時代のコマーシャルによって助けられたと聞きます。だから大きなステージですごい装置をたて込んでいるのを覗いても、だいたいはCMでした。

そんな撮影所で時折思い出したように大騒ぎをするのが特撮…特殊撮影班でした。

東映VS東宝の戦争映画戦争

ゴジラを生み出して日本の特撮映画をひとつのジャンルとして築き上げた円谷英二監督※が死去して15年以上が過ぎ、シリーズ化したゴジラも作られなくなってもうじき10年になろうとしていても、特殊撮影を用いた映画は、全盛期ほどではないけれども——作られていました。
※つぶらや・えいじ(1901~1970)。ゴジラやウルトラマンを生み出し、日本の特撮の礎となった映画監督

一世を風靡した怪獣映画はなりを潜め、かわりに大規模な戦争映画でどうしても再現できない部分を特撮を用いて表現していました。全盛期には怪獣映画の合間を縫うように撮影していた戦争映画のために、野球のグラウンドが入るのではないかというほど巨大な撮影用プールが作られ、そこに太平洋戦争時の日本海軍の戦艦や空母のミニチュアが浮かび、戦闘を繰り広げる毎日でしたが、そのころには見る影もありませんでした。

ところがそんなプールがまた忙しくなってきたのです。真っ先に封切られて大ヒットになったのが、東宝ではなく東映製作、100年前の日露戦争で最大の激戦となった、敵の軍港を見下ろす山を巡る日本とロシアの陸軍による血みどろの一大攻防戦を描いた『二百三高地』(1980)。オリジナル脚本は『仁義なき戦い』(1973)シリーズや、『県警対組織暴力』(1975)の笠原和夫。

大規模な特撮が実現した『二百三高地』
1980年公開 ©東映 Prime Video 東映オンデマンドで配信中

社会に圧殺される人間に光を当てて権力を断じる骨太の作風で、日本が世界を相手に戦争を始めていくきっかけとも言える日露戦争での勝利への端緒でありながら、絶望的なまでの犠牲を生んだ戦いが、それまでの小規模で等身大の物語ばかりだった日本映画としては破格の予算をかけて作られ、主題歌を当時絶大な人気を誇るニューミュージックの旗手に歌わせて、単なる懐古趣味でなく幅広い観客に訴えかけることに成功したのです。

その大ヒットをみて、東宝が負けじと製作したのが、太平洋戦争で当時最強と謳われながら、勝利から敗北、壊滅への悲劇的な道筋をたどった、帝国海軍連合艦隊を描く『連合艦隊』(1981)。そのどちらの特撮も東宝の特殊撮影班が担当し、日本映画では珍しい大ヒットとなりました。

『二百三高地』では、大島三原山の裏砂漠を荒漠たる戦場に見立てて、大量のエキストラを投入した白兵戦が中心で、特撮はその山を中心とした情景と山頂から狙われ攻撃を受ける軍港の艦船のみでしたが、『連合艦隊』は、かつて8月15日の終戦記念日に公開され、“8・15シリーズ”と銘打った東宝戦争映画シリーズの復活を喧伝したので、円谷英二監督時代を彷彿とさせる規模のミニチュア艦隊が作られ、撮影所のプールを埋め尽くし、所内を軍服姿のエキストラが闊歩するようになりました。

『大日本帝国』大ヒット。しかしその上をいったのは…

その勢いに対抗すべく、東映は次なる戦争大作をぶち上げます。

『大日本帝国』(1982)。第二次世界大戦の敗北、すなわち帝国の滅亡へ向かう悲劇を、軍人、市井の人々、戦争指導者といったあらゆる視点から笠原和夫さん(脚本)が凄まじい気迫で描いた大作で、監督は日活で石原裕次郎を育て上げた舛田利雄さん。

舛田利雄監督ならではの大スケールで描かれる『大日本帝国』
1982年公開 ©東映

バイタリティあふれる作風が特徴で、1960年代末に所属していた日活の経営が悪化したため退社し、黒澤明監督が降板させられた日米合作映画『トラ!トラ!トラ!』(1970)の日本側監督を深作欣二氏とともに担当。太平洋戦争の始まりを描いてからは東宝に行き、『人間革命』(1973)で創価学会の始まりを描き、『ノストラダムスの大予言』(1974)では人類の最期を描き、アニメにまで手を広げて劇場版『宇宙戦艦ヤマト』(1977)でも滅亡に瀕した地球を…と、観客数も激減して萎縮気味の企画ばかりだった日本映画において、スケール感の大きな作品を手堅くまとめて次々にヒットさせ、『二百三高地』に引き続いての『大日本帝国』であります。この時代の東宝特撮を指揮した中野昭慶監督とは『ノストラダムスの大予言』以来の仲で、会社の壁を越えての共同作業です。

本作でも空母加賀の大きなミニチュアが製作され、夜間訓練の場面なので誘導灯の電飾が施されてプールに浮かんでいました。 第二次大戦——太平洋戦争は、国家の都合によって全国民が巻き込まれた戦争です。反対していようがおかまいなしに巻き込まれ、有無もなく戦地に向かう。その理不尽をさまざまな視点で描き、血の出るような叫びで埋め尽くされる。生きること、死ぬことを考えざるを得ない、しかもその自由を奪うことこそ戦争という愚行である——圧倒的な映画でした。

なのに当時の批評では、好戦的な映画という意見がほとんどだったのです。どうしてこの結末を見て好戦的に見えるのか、ちっとも理解できませんでしたが、いつでも娯楽映画としてのダイナミズムは忘れない、舛田利雄監督のサービス精神がそう誤解させたのかもしれません。

ちなみに公開日である1982年8月7日に東宝系で公開されたのが『ハイティーン・ブギ』(1982)でした。前年から始まったジャニーズ事務所の男性アイドル、田原俊彦、野村義男、近藤真彦の3人の頭文字をとって田野近=たのきんトリオ主演のたのきんスーパーヒットシリーズ第4弾で、牧野和子さんの少女漫画の映画化なんですけど……その監督が舛田利雄さんなんですよ! 同じ日に別の会社の勝負作なのに監督が同じって信じられません。一体いつ撮っていたのでしょうか? しかも興行収入は、14億円でその年第7位の『大日本帝国』を上回り、18億円で第4位。 これぞ日活全盛期に培ったバイタリティというものです。

文/樋口真嗣

『大日本帝国』(1982) 上映時間:3時間/日本
監督:舛田利雄
脚本:笠原和夫
出演:丹波哲郎、三浦友和、西郷輝彦、関根恵子、夏目雅子 他

『大日本帝国』1982年公開©東映

アメリカとの和解の道が潰え、開戦。苦悩しながら指揮をとる東条英機ら首脳陣。南方戦線で苦悶をなめる青年将校。結婚直後に出征する理髪師。無事を祈りながら必死で生きるその妻や恋人たち。軍人から庶民まで、理不尽な戦争に翻弄されるさまざまな立場の日本人を描いた戦争群像劇。太平洋戦争の約4年間を、迫力ある戦闘シーンを交えながら3時間に集約、大ヒットを記録した。

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