「奈良判定」で後ろ指をさされた悪童ボクサー・中嶋一輝はその後どう生きているのか。山根騒動で日本中から「悪者」として注目を浴びても、気にしない鋼のメンタルを支える2つの存在
集英社オンライン / 2023年4月29日 18時1分
ボクシング界を代表するスター・井上尚弥に中学生の時KOされて以来、彼の背中を追い続ける中嶋一輝。大学卒業後に井上尚弥と同じジムに所属し、スーパーエリートとしてプロデビュー後も順調に勝ち星をあげ続けていた。だが、山根騒動や敗戦など、平坦な道ではなかった。(前後編の後編)。
山根騒動で日本中から悪者扱いに…
大学卒業後、中嶋は大橋会長に誘われて横浜に単身移住。早速プロ練習が始まったが、ここで面食らった。
「練習量がそれまでと全然違いましたね。これはついていくの大変やと」
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試合前の中嶋。「試合が決まってからは、ずっと相手に対してムカついてますよ」写真提供:ヒノモトハジメ
横浜には一人も知人や友人はいない。オフの日は部屋にこもり、節約のために毎日牛丼屋に通った。辛いと思ったことはあるが、大金を稼ぐからと大見得を切って郷里に母親を置いてきた。ここで簡単に帰るわけにはいかない。覚悟を決めて練習についていった。
2017年のプロデビュー後は、順調に勝ち星をあげていった。しかしその翌年、思わぬところから事件が起きた。
日本ボクシング連盟の山根明会長の経理や判定の不正が疑われ、その独特な風貌や言動も相まって連日ワイドショーで報道された騒動である。そして、贔屓の選手に有利な採点をつける「奈良判定」の恩恵を受けた象徴的な選手として、中嶋が当初から実名で報道されてしまったのだ。
「SNSなどを通じて知らない人から嫌がらせのメッセージが500件以上届いて、スマホが壊れるんちゃうかと思うくらい通知が鳴りっぱなしで。試合直前でしたし、途中からは電源をオフにしました。もう昔のことですし、僕はただ試合に出て戦ってただけなんで、なんで自分が叩かれるのかわかりませんでした」
不正なジャッジを中嶋の方からお願いしたことなど当然一度もない。また、よく報道では判定後、勝利者としてレフェリーから手を上げられるのを拒む中嶋の映像が再三に渡って放送された。
「あの映像は2016年の国体です。あのときは右手首を骨折していて、試合中も痛すぎて2度ダウンを奪われて、地面に手をつくのも痛くてかばうように腕から倒れたんです。次の試合どころではない痛みやし、さすがにこれは負けて休めるやろと思ったら、勝ってレフェリーに手を上げられそうになったのでビックリしました」
この疑惑の判定についてはボクシング業界でも話題となった。次の日会場に行くと、「お前、負けとったやろ」と他大学の選手に声をかけられた。
「黙っとれって言い返しましたけどね。俺は誰にも何も頼んでない。2018年に騒動になったときも、もう昔の話でしたし、『もっと騒げ』と思ってました。騒ぎが大きくなったら選手達に罪はないことがいずれわかってもらえるやろうと。
忖度による判定で不利なジャッジが下された選手本人や親族の立場からすると、連盟だけでなく恩恵を受けたとみた選手にまで怒りの感情が広がってしまうのも、理解はできる。私自身は当事者ではないが、かつて不利を受ける立場にあり、今でも彼らに忌避感情を持つ知人もいる。ただ、目の前で悲しさや戸惑い、憤りを押し殺すように淡々と話す中嶋選手については、彼もまた被害者の側面があったとやはり思ってしまう。
「騒動が落ち着いて、後から関係者から『巻き込んで悪かったな』と謝られましたが、『いやもう覚えてないですしいいですよ』って。自分はメンタルが鋼なんで、実際にまったく気にしなかったですよ」
KO負けしても心は折れない2つの支え
デビュー以来豪快なKOで勝ち続けてきた中嶋。しかし、2020年に後に同じく豊富なアマチュア経験を持つ堤聖也(現日本バンタム級王者)と引き分ける。2021年には東洋太平洋王者となるが、栗原慶太(現東洋太平洋バンタム級王者)にKO負けと、キャリア初黒星を喫した。
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引き分けとなった堤聖也戦後の中嶋。笑顔はなかった。写真提供:ヒノモトハジメ
「引き分けのときはめっちゃ悔しかったですし、負けたときは引退も考えましたよ」
少し声のトーンを落として中嶋は言う。しかし、筆者が気になっていたのは別のことだった。
筆者はボクシング観戦が好きで、会場やSNS上のファンの反応も含めて楽しんでいる。堤戦で引き分けたときは「中嶋は負けていた」というジャッジ非難の声がSNS上で強く、また栗原戦では会場にいた観客は中嶋が倒れた瞬間にどよめき、歓喜のように大きな拍手で湧いた。
専門誌の下馬評はトップアマで無敗、精鋭が集まる大手ジムの王者・中嶋が有利だった。何度も敗戦から這い上がってきた叩き上げの栗原だが、勢いの差が出るとみられていた。素顔が見えず、リング上では近寄りがたい殺気を放っている中嶋の硬さと、YouTubeなどで積極的に情報を発信し、親しみやすい雰囲気を持つ栗原の柔らかさ。
会場が湧いたのは、まるでキャラクターの違う両者のコントラストを踏まえ、雑草魂・栗原を応援する大衆感情が働いたからかもしれない。そうして外からみると折々に、なぜか「敵側」に回されてしまう中嶋の在り方が、個人的に気になっていた。
「確かに自分、なんか好かれへんなあと思ってますよ。でも、全然気にしてないですよ。今の自分にとっては、ジムで教えている教え子のキッズたちと、故郷にいる母親が原動力になってますから」
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キッズの会員たちからは、「一輝!」「おい、中嶋先生!」と親しまれていた
敗戦のとき、支えになったのは月曜から金曜まで指導しているキッズボクシングの教え子たちだ。会場では、KO負けした中嶋をみて、涙を流してくれた子もいたという。
「でも、試合後にジムに行ったら、みんな『やーい、なんで負けたん?』と普段通り接してくれるんですよ。ほんまに有り難いですね。デビュー以来、彼らの存在がなかったら、間違いなく横浜に一人で来てここまで頑張り続けることはできなかったですから。彼らのことは本当に愛してます」
井上尚弥とのスパーリング
王座から陥落した中嶋はその後、復帰を決意して3戦連続勝利し、2023年2月に見事な試合内容で別の地域タイトルの王者となった。
復帰後はSバンタム級にひとつ階級を上げた。この階級には背中を追い続ける井上尚弥、また同じジムには次世代のスター候補・武居由樹もいる。
「尚弥とのスパーリングは1〜2回だけですね。ええ、やっぱり最強やなと思います。(武居)由樹とはまだ一度もやったことありませんね。でもまあ、他の人と比べてどうとかはどうでもいいです。自分は自分のことを頑張るだけなんで」
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キッズたちとの練習。腕立て伏せは自分も混ざって一緒にトレーニング。「指導というか、俺もみんなと一緒に頑張ってるぞという感じです」
朝はロードワーク、昼はジム内でキッズトレーナーとして務め、夜は自分の練習だ。ボクシング一本で暮らすこの生活は移住してからもずっと変わってない。
プロ入り後、まるで別人のように真面目に練習するようになった中嶋。
彼の担当トレーナーである松本好二さんに練習態度を尋ねると、「一本気でちょっと真面目すぎるくらい。時には緊張だけでなく、遊びを入れてもいいよと話してます」とのことだった。
中嶋はそれについて、「ジムでは猫かぶってますから」と冗談を言ったあと、「でもほんまに心を入れ替えたんで」と澄んだ表情をみせる。
「大橋会長だけでなく松本トレーナー、佐々木(史朗)トレーナー、支えてくださっている方々皆さんに感謝しています。ジムの関係の方を通じて応援してくれる人も増えましたし、もう今は一人ではないです。試合のときもたくさんの方々が応援してくださってます。あ、でも彼女は絶対に作りません。自分は仕事として横浜に来てるんで」
目標は当然、世界王者だ。あえて「引退後は?」と尋ねると、「おかんが居酒屋をやりたいと言ってるので開業のサポートをしてあげたい」と話す。今でも母親とは、暇があればビデオ通話で近況を報告するという。帰省するのは試合後の10日間だけと決めている。必ず祖母にも顔をみせ、介護のサポートを行いながら家族との時間を過ごす。
そして母親には、横浜に移住してからずっと、毎月給料の一部を仕送りしている。ファイトマネーとは別に大会賞金100万円を受け取ったときは、そのまま母親に渡した。
「おかんのことやから、一銭も手をつけてない気がするんですけどね……。デビューしてから全試合、奈良から自分と弟の試合を見に来てくれてます」
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故郷で暮らす母親とのビデオ通話では表情が和む(写真は本人提供)
気づけばデビュー戦で井上尚弥に負けてから17年。もうすぐ30歳になる。
最後に、横浜に来て、少しはボクシングが好きになったのか尋ねた。
「いや、今でもボクシングは大ッ嫌いですよ。めちゃくちゃ嫌い! しんどい!」
即答して少年のように笑った。
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尊敬し、憧れだという松本好二トレーナーと練習後に談笑。「横浜にいる家族のような存在の一人だと自分は勝手に思っています」
取材・文/田中雅大 撮影/青木章(fort)
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