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日本軍“史上最悪の作戦”インパールの惨敗を招いた「恥の意識」と「各司令部の面目」

集英社オンライン / 2023年5月5日 9時1分

第二次世界大戦終戦間近の1944年、当時イギリス領だったインド帝国のインパールを攻略しようとした「インパール作戦」。7万人以上の死者を出し“史上最悪の作戦”とも呼ばれるこの悲劇の背景には、日本人特有の“戦い方”があった。『太平洋戦争史に学ぶ日本人の戦い方』より一部を抜粋、再編集してお届けする。

失われた「兵站を重く見る良識」

インパール作戦当時の日本軍

昭和19年3月から7月にかけてのインパール作戦は、兵站無視の無謀な構想と語られてきた。しかし、ビルマ方面軍が置かれていた立場から考えると、インパール作戦には戦略的な合理性があった。戦線の最西端にあるビルマ方面軍は、東から順に雲南省の怒江正面で中国軍、ビルマ北部のフーコン(死の谷)で米中連合軍、インパール正面とベンガル湾のアキャブで英軍と対峙していた。



この態勢における連合軍は、ビルマの日本軍を包囲、挟撃できる「外線」の位置にあり、日本軍は後方連絡線を内方に保持する「内線」の位置にある。明らかに日本は不利な態勢にあるため、これを克服するには活発な機動打撃を反復して、敵が一枚岩になるのを妨害し続けなければならない。そこでまず比較的に道路状況が良好なインパール盆地まで押し出すという構想が考えられた。

そして兵站の問題だが、ビルマ方面軍や作戦実施部隊の第一五軍にその責任を押し付けるのは酷な話だ。補給幹線というものは川の流れのようになっている。内地からビルマの集積主地となるラングーン港までは大本営、ビルマ縦貫鉄道まではビルマ方面軍、鉄道から西へ150キロほどのチンドウィン川西岸の兵站主地までは第一五軍の管轄で、そこから第一線までは第一五軍隷下の三個師団がそれぞれ補給幹線を維持する。

この補給幹線でもっとも負担がかかるのは、ビルマ縦貫鉄道からチンドウィン川までだった。そこでここを担任する第一五軍は、自動車中隊一五〇個(七五〇〇両)など兵站部隊の大増強を求めた。ところがまずビルマ方面軍はこの要求を九〇個中隊、続いて南方軍は二六個中隊、さらに大本営は一八個中隊にまで削り、しかもそれがいつ現地に届くのかはっきりしていなかった。これは大変と第一五軍参謀長の小畑信良(大阪、陸士三〇期、輜重兵)は、軍司令官の牟田口廉也(佐賀、陸士二二期、歩兵)にインパール盆地への進攻作戦を断念するよう上申を重ねた。

ところが牟田口は聞く耳を持たない。中学出で輜重兵出身の小畑には、引き立ててくれる大物の先輩、親身になって支えてくれる有力な後輩がいない。困り果てた小畑は、第一五軍の隷下にあった第一八師団長で参謀本部第一部長(作戦部長)の要職にあった田中新一(北海道、陸士二五期、歩兵)に牟田口を説得してくれるよう懇願した。

しかし、田中がいくら説いても牟田口は翻意しない。あきれた田中は「参謀長が隷下の師団長に軍司令官の説得を頼むとは珍しい司令部だ」との嫌みを口にしたから、牟田口は激高して小畑を罷免することになり、陸軍省人事局もこれを認めて小畑は更迭され、関東軍情報部に飛ばされた。これで第一五軍司令部から兵站を重く見る良識が失われた(大田嘉弘『インパール作戦』ジャパン・ミリタリー・レビュー、二〇〇八年)。

軍司令官・牟田口廉也を取り巻く人間関係

写真はイメージです

インパール作戦といえば、牟田口廉也の特異なキャラクターが大きく取り上げられるが、それと同時に彼を取り巻く人間模様も深刻な問題を巻き起こした。まずはビルマ方面軍司令官の河辺正三(富山、陸士一九期、歩兵)と牟田口の関係だ。

広く知られているように、昭和十二年七月の盧溝橋事件に際して現地にいた支那駐屯歩兵旅団長が河辺、同歩兵第一連隊長が牟田口だった。これからあの二人は親しい関係にあると見る人も多かった。しかし、中国軍に一撃を加えるべきとの積極策を主張する牟田口を抑えるのに河辺は苦労し、それから二人の仲はしっくり行かず、それがビルマにまで持ち込まれたとも思える。

インパール街道をコヒマで遮断したものの、補給が届かないと独断後退をあえてした第三一師団長の佐藤幸徳(山形、陸士二五期、歩兵)と牟田口の関係も古い。この二人は昭和6(1931)年ごろに結成された軍内結社の「桜会」の主要メンバーだった。

牟田口は参謀本部をまとめ、佐藤は会員規約を作成した。昭和9(1934)年に第六師団参謀に転出した佐藤は、九州各地で過激な講演を重ねていたが、これに厳重注意をしたのが参謀本部庶務課長の牟田口だった。これで二人の関係は悪化し、それをインパール作戦まで引きずった形となった。

第一五師団長の山内正文(滋賀、陸士二五期、歩兵)は、早くから有望株として期待された人だった。陸軍大学校を卒業してすぐに参謀本部第二課作戦班の勤務将校に選ばれたのだから、並の秀才ではない。そして7年にわたるアメリカ駐在、米陸軍の指揮幕僚課程を修了した数少ない一人だった。ところが駐米大使館付武官のとき、結核に罹患したようで健康に勝れないままビルマに出征し、ようやく歩けるという病状だった。そして昭和19年8月にビルマで陣没した。

優秀な人ほど野戦の将帥には向かない理由

昭和41(1966)年8月に亡くなるまで牟田口は、インパール作戦に関する批判に反論し続けた。終戦早々、仏門に入って読経三昧で過ごした河辺とは好対照だった。そして牟田口が強く批判したのは、独断後退をして軍の作戦を根底から覆した第三一師団長の佐藤幸徳ではなく、主攻を担任した第三三師団長の柳田元三(長野、陸士二六期、歩兵)だった。柳田は陸大を卒業後に配置されたのは、エリートの証というべき軍務局軍事課予算班だった。それから柳田は陸士二六期の先頭を走り抜けた。

加えて柳田は、対ソ情報のエキスパートという顔も持っていた。彼はポーランド、ソ連、ルーマニアで駐在員や公使館付武官を経験している。そして対ソ諜報の元締めだったハルビン特務機関長のとき、関東軍の特務機関や情報部局を整理・統合して関東軍情報部を立ち上げた。この実績は高く評価されて柳田は大将街道に乗り、親補職を早く経験させようと同期の先頭で師団長に就任することとなった。

写真はイメージです

第三三師団は昭和14年2月、仙台で警備師団として編成され、第一四師団(宇都宮)の子部隊で、戦力に定評のある兵団だった。そのためインパール攻略の主力となり、野戦重砲兵連隊二個、戦車連隊と独立工兵連隊それぞれ一個の配属を受けて、英軍が建設した自動車道を使って攻め上がることとなった。

昔から日本軍で語られたことだが、情報畑の育ちで優秀な人ほど先が読めるからかすぐに消極的になり、遅疑逡巡に陥り戦機を逃しやすいから、野戦の将帥には向いていないとされていた。柳田はまさにこの好例となり、作戦前から攻勢作戦を疑問視し、軍司令部に再考を求め続けた。作戦中もすぐに補給が不安だとして追撃の手をゆるめて英軍を逃がしてしまう。

そのたびに軍司令部に作戦中止の具申をしては、牟田口の激怒を招く。師団司令部も内部崩壊の様相を呈した。参謀が提出した作戦計画に「本当にこんなことができるのかね」と疑問を口にしてから裁可するというのだからだれもがやる気を失う。

高級指揮官の強すぎる恥の意識

第三三師団は3月8日に攻勢を発起し、4月10日にようやくインパール盆地の入り口に到達した。一方、3月15日にチンドウィン川を越えて険路を克服した第三一師団は、4月6日にコヒマを占領してインパール街道を遮断した。同じく第一五師団は4月8日、コヒマとインパールの中間でインパール街道に頭を出した。第三三師団の緩慢な動きで勝機を逸したことは明らかだ。

写真はイメージです

後方連絡路を遮断された英軍は、補給や補充の一切を空輸に頼る「円筒陣地」で持久して戦力比を逆転させ、6月22日にインパール街道を打通した。これで第一五軍は作戦続行を断念し、防勢転移をビルマ方面軍に具申したが、すぐには受け入れられなかった。南方軍、大本営で協議の末、第一五軍に後退命令が下されたのは7月13日だった。

高級指揮官の強すぎる恥の意識、各司令部の面目などが絡み合い、なかなか後退の決心が付かなかったわけだ。こうして雨季の最盛期における退却行となり、経路は靖国街道とか白骨街道と語られる凄惨な様相となった。インパール作戦での日本軍死没者は3万6000人、ビルマ戦線全体で15万8000人にのぼるとされる。

文/藤井非三四 写真/shutterstock AFLO

太平洋戦争史に学ぶ 日本人の戦い方

藤井 非三四

2023年4月17日発売

1,056円(税込)

新書判/272ページ

ISBN:

978-4-08-721262-4

負けるには理由がある
この国が今なお抱え込む「失敗の本質」を深掘りした日本人組織論の決定版!

【推薦コメント】
あの戦争において、大日本帝国がいかにして失敗のスパイラルに陥って行ったかを克明に描き出している。
あの戦争をやってしまった日本社会の実質は、何も変わっていない。
────白井聡氏(政治学者・『国体論 菊と星条旗』『武器としての「資本論」』)

【おもな内容】
太平洋戦争史を振り返れば、日本人特有の「戦い方」が敗因となったと思われる事例は極めて多い。
人間関係で全てが決まる。
成功体験から抜け出せず、同じ戦い方を仕掛け続ける。
恥と面子のために方針転換ができず泥沼にはまり込む。
想定外に弱く、奇襲されると動揺して浮き足立つ。
このような特徴は今日の会社や学校などの組織でも、よく見られる光景ではないだろうか。
本書は改めて太平洋戦争を詳細に見直し、日本軍の「戦い方」を子細に分析する。
日本人の組織ならではの特徴、そしてそこから学ぶ教訓とは。

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