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あのZ李氏も認める“伝説の保護司”は小林幸子の元マネージャーだった。20年で120人以上の更生を手助けしたその「対話術」とは

集英社オンライン / 2023年4月29日 11時1分

20年間保護司として活動し、120人以上もの不良の更生を手助けした中澤さん。多くの不良を更生させてきたが、必ずしも全員を更生させられたわけではない。保護司になってからの苦労など、その半生を語ってもらった。

保護司とは犯罪や非行をした人の立ち直りを支える非常勤の国家公務員。だが給与は支給されない、いわば民間のボランティアである。

長く保護司として奮闘し続け、120人以上もの不良の更生を手助けしたという中澤照子さん(81)。

保護司になる前、そして伝説とも言われた保護司時代振り返ってもらい、その苦難や喜びなどを包み隠さず語ってもらった。


小林幸子のマネージャーだった

1941年に東京都文京区で生まれた中澤照子さんは、保護司になる前は観光バスのバスガイドや古賀政男音楽事務所で、歌手の小林幸子のマネージャーを務めたという異色の経歴の持ち主。

中澤さんが回想する。

中澤照子さん

「私が(小林幸子に)出会ったのは彼女がわずか10歳の時でした。なにしろ可愛い子で、教えられたことをどんどん吸収していく天性の才能の持ち主だった。

保護司の活動で2018年に藍綬褒章(らんじゅほうしょう)を授与された時も、『着ていく物がないから皇居には行かない』と私が言っていたら、彼女の衣裳部屋に招かれてこの老女にどうにかカッコつけさせようと着物を着せてくれたの。

とっても幸せな時間でした。私はこれまでもこれからも流れるようにしか生きられないと思うのだけど、人との繋がりだけはずっと大切にしていきたいんです」

小林幸子さんと

中澤さんにとって、声かけは「種まき」。種がどんな風に育つかは誰にもわからないが、保護司になる前も保護司になった後も、そして保護司を辞めた後も一度声をかけた人との縁を大切にしているという。

実際に様々な繋がりを持つ中澤さんは、人気インフルエンサーで『飛鳥クリニックは今日も雨』(扶桑社)の著者、Z李氏ともひょんな事で出会い、Z李氏が行う炊き出しを手伝いながら更生カレーをふるまっている。

Z李氏が語る。

「中澤さんが保護司を担当していたエリアに、2世以降の中国残留孤児らが中心となったグループがいた。手の付けられない凶悪グループとして有名だったが、中澤さんがいたからこそ、暴れていた彼らが地元では率先して地域貢献しようとしたんだ。すごい人だよ」

1枚の報告書にとても書き切れない

実は中澤さんから言わせると、保護司になる前も保護司になった後もやることは変わらなかったという。というのも保護司になる前から、街で青年に声をかけていたそうだ。

「57歳の時に知人から『保護司になりませんか?』って声がかかって保護司になったのですが、その人は私の普段の生活を見ていて推薦してくれたようです。

その頃は保護司だということを大っぴらに言えないような時代で、私も最初は保護司を知らなかったんですけど、普段私がやってることを、組織がやるんだってびっくりしましたね」

保護司を始めると日頃から色々な人に声をかけていたことが大きなアドバンテージになったという。

担当した人たちとの交流は今でも続く

「小さな頃からの顔なじみの子が多かったので、途中から横道に行きかけてもキャッチできるんです。うんと悪くなった時に知らないおばさんから『君ダメでしょ』と言われたってムカっとくると思うのですが、顔見知りの子は素直に話を聞いてくれましたね。

当時、一気に5人~10人もの子を引き受けて、対象者が四六時中、ウチを出入りしている状態でしたから。娘と主人には迷惑をかけていましたね」

当時は専業主婦で時間があったという中澤さんだが、年に1人しか担当しない保護司もいる中で20年間で120人以上担当したというのは圧倒的に多い。どんなことに気を付けて保護司を担当していたのか。

「面談にくる人は、行くのが嫌だなあと思ってるわけですから、いきなり本題に入ったりしないように気をつけていました。最初は天気の話をしたり、食べ物の話をしたりして。鑑別所からくる報告書を読んで臨むんですけど、報告書に書かれた欠点や悪癖は、全部ジューサーにかけて飲み込んで、真っさらな目で見たいと思っていました。

面談して報告書を書く上でも苦労しましたね。簡潔に書いてしまうと、その子の奥ゆきが表現されてないように感じてしまって。こんな1枚の薄ぺっらの紙に書ききれるかって、それこそ作家さんみたいに報告書の用紙を目の前に頭を悩ませていましたよ」

被害者の親の立場になったら

成人であれば最低4ヵ月、少年であれば最低1年以上の保護観察期間を担当する。月に1度から2度面接をし、少しずつ良好な関係を築きながら保護司としての判断をしていたのだという。

「もちろん全員を更生させたなんて思っているわけではありません。ですが『学校に行き始めました』とか、『家族のいさかいがなくなった』等いい報告をくれた人もたくさんいました」

そんな中澤さんにもどうしても重荷だと感じた子がいた。中澤さんの20年間の保護司時代の中で最も印象深かった子だという。

「内容は話せませんが、本当に重い事件を起こした青年を預かったときのことです。面接に来ても自分の話だけを楽し気にする子でした。

一定の面接期間を経てくると、私自身が被害者の親の気持ちになっちゃうんですよ。自分の夢ばかり楽し気に話してる加害者が目の前にいて、被害者の親なら、お前の人生はあるけどウチの子の人生はどうしてくれるんだって言うだろうなって。

そう思うとやるせなくなりました。反省の言葉が少しでも口から出て欲しかったんです」

少しずつ対象者の心の氷が溶けるのを待っていたが、一向にその気配がなく中澤さんも焦れた思いでいたという。

「反省の言葉が聞きたくて、その話をすると急にさっとシャッターを降ろす感じで黙ってしまいました。そうなると無言で時間だけが過ぎていきます。『すまなかった』の一言だけでも言葉として出てほしかったんですけどね。

私が『現場まで行って、お線香あげてきたよ。君も行ってみない?』と言うと、黙り込んでしまうの。それでもまた時間をかけて、『この前ね、うちの主人と缶ジュース持ってお線香またあげてきたよ』って伝えると、『あ、そうですか』って感じでね。

反省の言葉を求めたり、涙を流させたりって保護司の役目じゃないというのはわかっていたの。これまでさんざん事件のことだって聞かれてきただろうし。でも、どこかで欲が出てたんだろうなあ」

後にも先にも面談が嫌だと思ったのはこの時だけだったという。

「今日もその子が来るんだなと思うと私自身も疲れていました。長い保護観察期間が終わって『ありがとうございました、今度遊びにきます』とその子が最後出て行った時、この子はきっと遊びには来ないと思ったの。

私自身も解放感の方が大きかったんです。保護司なんて言ったって、できることは重いお尻をちょっと持ち上げてあげたり、ちょっと背中を押してあげられる程度で限界があるんです」

社会貢献しようだなんて大それた思いはないという。世の中に機嫌のいい人が増えたら、それで自分も喜べると周囲に声をかけ続け、中澤さんは77歳の時に保護司を引退した。

蒔いた種が咲かす花

「誰もが気軽に境界線なく集まれる場所を作りたくてカフェをやりはじめました。YouTubeにも挑戦しました。やってることは変わっていっても、昔から誰かに声をかけて話を聞くっていうだけで何も変わってないです。

さっきの話には実は続きがあって、こうして私がメディアで取材してもらえるようになったのを、先程話した最も印象深かった子が目にして約20年ぶりに連絡をしてきました。

『見ましたよ。あんなことまだやってるんですか』って。『役に立ってるか立ってないかわからないけど(保護司の時と)同じことやってんのよ』と言ったんです。

すると、『いや、役に立ってると思いますよ』と言ってくれました。思わず『君にそんなこと言われたら嬉しい』と言っていました」

後日、会いに来るはずがないと思っていたその子は、カフェLALALAを訪れた。

現在は立派に社会人として働いていて当時とは見違えていたという。中澤さんは「伝わっていないように見えたけどそうではなかった」と思ったそうだ。

まいた種がどんな花を咲かすのかは誰にもわからない。



取材・文・写真/集英社オンラインユース班

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