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男女共修化までの長い道のり…かつての「男女別の技術・家庭科」に見え隠れする政財界の思惑と性別役割分業に基づく日本社会

集英社オンライン / 2023年5月21日 13時1分

中学校の技術・家庭科と高校の家庭科は約30年前まで、男女別々の授業だったり女子のみの科目だったりしたという。いつから、なぜ男女が別の教育を受けていたのか? 家庭科教育の専門家である堀内かおるさんに聞いた。

技術・家庭科が男女別の教科だったのは「時代の要請」

——現在、男女共通で学ぶ中学校の技術・家庭科は、かつて男子が技術、女子が家庭科を学んでいたと聞いています。いつから男女別の教科になったのでしょうか。

明らかに男女が違う内容を学ぶようになったのは、今から65年前、高度経済成長期の頃からです。1958年文部省(当時)告示の学習指導要領(各学校で教育課程を編成する際の基準。約10年ごとに改訂)に合わせ、それまでの「職業・家庭科」の代わりに新設された教科として中学校に「技術・家庭科」が誕生しました。



この改訂によって、中学校では男子は社会で役立つような「技術の内容」を、女子は家庭の担い手となることを想定した「家庭」の内容を学習するようになりました。ちなみに高校の家庭科は、1960年改訂の学習指導要領から女子のみ必修科目となりました。

この時代は、日本は製造業などの第二次産業で発展しつつありました。1957年にソビエト(当時)が人工衛星の打ち上げに成功、アメリカとの間で科学技術競争が過熱していた時期です。日本も世界に追いつけ追い越せと、他国と肩を並べようとしていました。日本経営者団体連盟(日経連)は科学技術の発展に資する教育を要望する意見書を出し、産業技術に関する教育の充実を求めたのです。

経済発展を支える労働者として期待されていたのが、中学校を卒業して地方から集団就職で都会にやってきて働き始める若者たちでした。以前ヒットした映画『Always三丁目の夕日』の登場人物のようですね。

しかし家庭科は、意外に思われるかもしれませんが、戦後から「男女が共に学ぶ」という理念があったのです。

——そうなのですか? ぜひその変遷を教えてください。

日本では第二次世界大戦まで男女別学であり、封建的な男尊女卑の考え方が一般的でした。しかし戦後のアメリカのGHQ主導で教育改革が実施され、「男女平等」の概念が反映されるようになります。

GHQは「女性にも高等教育を受けさせるべきだ」と主張。教育使節団が派遣され、学校教育における男女の教育の機会均等と共学を推進する改革が進められました。

そして1947年には日本で初めての学習指導要領が発表されたのです。当時は、教科ごとで小学校から高校までを通した教科の目的・内容などが記載されていました。

日本は戦後から「民主的な家庭」になるはずだった?

——家庭科の改革は、誰が中心となって行われたのでしょうか。

ここからは、私の専門である家庭科教育に関して、歴史を中心にお話しします。この教育改革の際、当時の文部省で新教科である家庭科の学習指導要領の原案作成を担当することになったのは、大森(山本)松代という女性です。彼女は戦前にアメリカに留学しており、戦後は通訳として文部省に出入りしていました。文部省の官僚ではなかった彼女に原案作成の白羽の矢が立ったのは、GHQの考えを理解しているとみなされたからでしょう。

新しい家庭科教育を考える際、アメリカで教育を受けた大森氏が絶対に譲れなかったのが、民主的な家庭建設を目指した男女共学の家庭科です。民主的な家庭とは、夫と妻が助け合いながら運営される家庭のこと。それまでの日本の家庭は、男性の「家長」を中心とした家父長制であり、女性は家で家事や育児に専念するのが当たり前でした。

しかし大森氏は「男女共学」ということを文部省と確認してから、家庭科の学習指導要領原案を書き始めたといいます。こうして作成された学習指導要領は、その冒頭の「はじめのことば」で「家庭科すなわち家庭建設の教育は」から始まり、小学校においては「男女ともに家庭科を学ぶべきである」としています。

ところが中学校になるとトーンダウンしてきて、「大部分の女生徒はこの科を選ぶものと思われるが、中には男生徒もこれを選ぶかもしれない」と書かれています。性別役割分業の兆しが、ここからも読み取れますね。しかしそれでも、家庭科の内容に関して「家族関係」の学習を中心とすることが述べられていました。

当時の日本社会が目指していた社会の民主化を推進するために、家庭科教育を通して「社会の基礎単位」としての家庭の民主化を推進していくことが期待されたのです。


——家庭の民主化は、現代でも通じる価値観だと思います。これが崩れていった背景には、どのような要因があったのでしょうか。

新しい教育を推進し、アメリカ流の民主的な家庭建設を目指したものの、家庭の主たる担い手が主婦であることは揺らぎませんでした。民法改正で男女平等が認められるようになることにさえ、「時期尚早だ」という意見があったような時代です。せいぜい「女性の家事はやって当たり前のものではなく、大切な仕事だと認めるべき」「男性や子どももできる範囲で手伝おう」という風潮で、大森氏が理想とした民主的な家庭までは一歩届かなかった印象があります。

中学校では職業科の一科目としてスタートした「家庭」は、地域によって男女ともに選択が可能でした。高校では選択科目であったので、履修する女子生徒は100%ではなかったのです。

とはいっても6割近い女子生徒は履修していたのですが、この状況を危惧した家庭科教師の団体が「本質的な女子教育」として家庭科を女子の必修科目とすべきという請願書を提出するに至ります。「女子の特性を生かした教育が保証されるべき」という考え方ですが、そもそも身体的性差に基づいた役割を意味づけ、学ぶ内容を男女で分けようとする気配がここからも立ち上っていますね。

そして1950年代後半に入って高度経済成長期に突入し、先にお話ししたように日本は科学技術の振興が命題となります。この時代の荒波に職業・家庭科も巻き込まれ、前述の通り「技術・家庭科」が誕生し、男女が別の内容を学ぶようになりました。

男女の分業が「当たり前」とされてから
「それはおかしい」と国連に指摘されるまで

——1958年に発表された技術・家庭科の学習指導要領で、印象的な内容を教えていただけますか。

この年の学習指導要領で印象的なのは「各学年の目標および内容」に書かれている、以下の文面です。

「生徒の現在および将来の生活が男女によって異なる点のあることを考慮して、『各学年の目標および内容』を男子を対象とするものと女子を対象とするものとに分ける」

つまり「男性は外で働き、女性は家を守る」という性別による役割分業を前提として、将来に備えた教育的配慮で男女別のカリキュラムを提供しますよ、と言っているわけです。これにより、男性は「家庭」の内容を、女性は「技術」の内容を学べなくなりました。なお、技術教育の振興が叫ばれていた時代だったので、一応「女子向き」の内容にも「家庭工作」や「家庭機械」というものが含まれてはいました。しかし、男子が学ぶ「技術」には及ばない低いレベルの内容でした。

そして1960年から言われ始めた高校家庭科の女子のみ必修は、1970年の学習指導要領改訂で決定的になります。

——その後再び、男女とも中学校の技術・家庭科や高校の家庭科を学ぶようになりますよね。その過程も教えていただけますか。

だんだんと風向きが変わってきたのは、1970年代中頃です。そのきっかけは、国連が1975年を「国際婦人年」としたこと。この年に国際婦人年世界会議が開催されたのを皮切りに、世界各地で女性に対する様々な差別を巡る議論が活発化しました。そして1979年には国連で「女子差別撤廃条約」が採択されます。

家庭科教育においては、参議院議員の市川房枝氏や家庭科教師たちなどが1974年に立ち上げた「家庭科の男女共修をすすめる会」が中心となり、男女が同じカリキュラムで授業を受けられるよう市民運動を展開しました。

日本は1985年にやっと「女子差別撤廃条約」に批准します。批准までに時間がかかった理由は主に3つあり、ひとつは女性の雇用上の差別があったこと、もうひとつは国籍法における差別、そして三つ目に家庭科教育における男女別履修形態と異なるカリキュラムがあったことが挙げられます。これらの問題を解決する見通しが立つまで、しばらく時間がかかったわけですね。

ちなみに、当時、この高校家庭科の男女共修に最後まで反対していたのは、文部省だったようです。「男女平等」が国際的なムーブメントになっていたことも、後押ししたのでしょう。家庭科にとっては「外圧」がプラスに働いたといえますね。

——この批准に際して、技術・家庭科の学習指導要領はどのように変更されたのでしょうか。

批准までの間に、技術・家庭科での「男子は技術、女子は家庭科」という区分けは徐々に薄れ、明らかな性別による区別は言及されなくなっていきます。

決定的だったのは、1989年の学習指導要領の改訂です。これにより、中学校の技術・家庭科には男女共通履修領域が設定されました。それは「家庭生活」「食物」「木材加工」「電気」で、必ずこれらの科目を男女共に学ぶということです。そして高校の家庭科は初めて男女ともに必修の科目となりました。男子校であっても、必ず家庭科を学ぶことが義務付けられたのです。こうして制度上は、性別によるカリキュラムの差はなくなりました。

この変更が教育現場で一斉に適用されたのは、中学校は1993年の全学年から、高校は1994年入学の1年生からです。

変わらないのは「生活をよりよくするための教科」であること

——こうして技術・家庭科の変遷をみていくと、学校教育は政治や経済の都合に合わせて変化させられてしまうのだと感じます。その点はどう捉えていますか?

技術・家庭科は、国の産業振興とまともに連動しています。さらにいうと、学校教育自体が、国の政策の一環として「次の社会の担い手となる人材にどんな力や資質をつけるべきか」「どんな価値観をもつ人材を社会に輩出していくべきか」という観点から考えられています。

よって、学校教育が政治や経済に影響を受けているのは、ある意味「必然」でしょう。しかし、国家の意図する人材育成に何も考えずに乗っかっていくのがよいのかといえば、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があると思います。

なぜなら、かつての性別役割分業を前提とした「男子向き」「女子向き」の技術・家庭科も、今だからその「おかしさ」を感じることができるのですが、当時は、それを「当たり前」だとみなしてきた社会の世論があったのでしょう。もちろん、異論を唱えた人々もいたはずですが、大きな反対の声を上げて制度を変えるまでには時間がかかりました。

だからこそ私たち市民は、政治がどちらの方向を向いているのか注意深く見極め、なぜこうした教科や学習内容があるのかを知っておく必要があると思います。

それでも以前から変わらないのは、家庭科が「生活をよりよくする教科である」というテーマを掲げていることです。授業内容を時代に伴って変化させながらも、その時代に沿った「よりよい暮らしとは何か」を生徒とともに考えてきました。

現代の家庭科では、人生100年時代を見渡して自分を生かし、家庭を維持・管理していくために必要なことを教えています。家事や育児をすることと収入を得るために働くことはワンセットで、生きる上でどちらも大切なことであり、男女どちらかに固定される役割ではありません。そもそも多様性を考えるなら「男女」という性別を二分して考えるような感覚も、見直すべきでしょう。

今後の技術・家庭科(中学校)や家庭科(小学校、高校)も、時代の要請を受けて柔軟に変化していくはずです。


※参考文献:
朴木佳緒留・鈴木敏子共著『資料からみる戦後家庭科の歩み―これからの家庭科を考えるために』(学術図書出版社、1990年)
家庭科の男女共修をすすめる会・編『家庭科、男も女も―こうして拓いた共修への道』(ドメス出版、1997年)
日本家庭科教育学会編『家庭科教育50年―新たなる軌跡に向けて』(建帛社、2000年)
堀内かおる『家庭科教育を学ぶ人のために』(世界思想社、2013年)

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