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思想家・姜尚中はいかにして生まれたのか? 地球的危機の時代に「アジア回帰」でも「アジア主義」復権の試みでもなく、「内なるアジア」を問い直すことで見えてくる希望

集英社オンライン / 2023年5月17日 7時1分

ロシアによるウクライナ侵攻、覇権国家の台頭で、欧米中心の国際秩序が大きく揺らいでいる中、「アジア」は閉塞感の突破口となり得るのだろうか?集英社創業95周年記念企画『アジア人物史』の総監修・姜尚中が「内なるアジア」を問い直した、集大成ともいえる思想的自伝『アジアを生きる』より一部を抜粋、編集してお届けする。

今年のアカデミー賞の「アジア尽くし」が意味するもの

2023年3月12日、アメリカの第95回アカデミー賞で『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(通称『エブエブ』、2022年製作)が、七部門を制する圧倒的な偉業を成し遂げた。

監督賞は二人組のダニエルズで、ひとりは中国系の監督ダニエル・クワンである。また脚本賞もダニエルズに与えられた。さらに主演女優賞に輝いたのは、マレーシア出身で香港のカンフー界の女王とも呼ばれ、『007』シリーズの「ボンドガール」役を務めたことのあるミシェル・ヨーである。

第95回アカデミー賞で監督賞と脚本賞に輝いた『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の“ダニエルズ”ことダニエル・クワン(左)とダニエル・シャイナート(右)

これだけでも、「アジア尽くし」といった印象を受けるが、加えて助演男優賞も、映画『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』(1984年製作)に出演したこともある中国系のベトナム移民キー・ホイ・クァンであった。

作品のシナリオから製作、俳優陣、さらにストーリーに至るまで「アジア」で塗り尽くされたような映画が、ハリウッド映画の頂点を極めることになるとは、受賞者自身も驚くほどの「事件」なのかもしれない。

映画は、アメリカ社会の底辺に滞留するアジア系移民家族の物語を、輪廻転生、仏教的な世界観を彷彿とさせるマルチバースの宇宙的なドラマに置き換え、喜劇とアクション、そして深遠な「アジア的宇宙」のドラマを盛り込んだストーリーになっている。

ここではハリウッド映画に典型的な「オリエンタリズム」のステレオタイプは明らかに消え失せ、「アジア的なるもの」がハリウッド的なエンターテインメントの中に溶け合い、「アジア」を感じさせながらも、「ウエスト」と「イースト」の「認識論的・存在論的な」分断が、少なくとも映画の中ではほとんど遠景に霞んでいるのである。

もちろん、穿って見れば、「アジア的なるもの」を消費する、新手の、手の込んだ表象の創造という見方もできないわけではない。

また、いかにもアメリカ的な大衆文化の代表であるハリウッド映画の中で「アジア的なるもの」がこれまでのステレオタイプから脱却しているとしても、現実の「アメリカの中のアジア」が変わるわけではない、という冷めた見方もあるかもしれない。

しかしそれでも、第一次世界大戦以後、「アメリカニズム」の世界的な普及の重要な梃子であった映画産業に、こうした変化が起き、逆に「アジア的なるもの」を積極的に取り込まなければ、ハリウッド的な映画産業すら成り立たなくなっているところに、オリエンタリズムの圧倒的な継承者であるアメリカ内部の変化が反映されていると言える。

『アジア人物史』の監修を通して得た驚きと喜び

もちろん、そうした「ハイブリディティ(異種混交性)」こそ、覇権国家アメリカの強みであり、依然としてアメリカの文化的なヘゲモニーは中国などを遥かに上回っているという見方もできる。

ただ、その中国が、今後、海外に広がる中国系の人脈やネットワークを通じてイランやサウジアラビアなど、西アジアの国々とオリエンタリズム的な表象で彩られた映像とは違った世界を創造する可能性がないわけではない。

振り返ってみれば、昨今のK-POPや韓流ドラマなど、韓国の大衆文化のグローバルな広がりは、半世紀前の学生のころの私には想像もできないことだった。たとえ韓国文化が「模倣」を通じて日本に、さらには「欧米」に少しでも近づけても、僅かばかりの富の均霑に与る程度で、文化となれば、ハイブローなものであれ、大衆的なものであれ、せいぜい「居留地」のような狭い場所に閉じ込められた「特殊なもの」にとどまるに過ぎないだろう─。こうした「オブセッション(思い込み)」が私を呪縛していたのである。

もし、そうしたオブセッションをオリエンタリズムの「自己洗脳」的な効果と呼ぶならば、私はまさしくその「見事な」成果と言えるかもしれない。

こうした自嘲的な過去の私の姿を自ら明るみに引き出し、そこから私がどのような紆余曲折のプロセスを経て、「アジア」と「西欧」の認識論的・存在論的な分断の克服を目指すまでに変わっていったのか。その「遍歴」を、時代のクロノロジーと思想史的な展開を交えながら振り返ってみたい。そう思い立って出来上がったのが、本書『アジアを生きる』に他ならない。

そして、本書を上梓する最後の決定的なモメンタム(推進力)になったのは、集英社創業95周年記念企画となる『アジア人物史』全12巻の総監修を務めたことである。

『アジア人物史』(全12巻+索引巻)は、170名を超す研究者たちが、総勢10,000名にいたるアジア史の登場人物たちの軌跡を追い、広大なアジア全領域の歴史や趨勢、展望が一望できる、唯一無二の構成となっている。2022年12月1日に配本された第7巻『近世の帝国の繁栄とヨーロッパ』、第8巻『アジアのかたちの完成』を皮切りに、現在6冊が発売中

神話と歴史の「誕生」から波乱に富む現代まで、数千年の時空の中で「アジア」に生きた人々の「生きざま」を知り、アジアとはかくも光彩陸離とした人間絵巻を彩ってきたところなのかという、これまで経験したことのない驚きと喜びを感じたのだ。

本年2月に紀伊国屋書店新宿本店のアカデミック・ラウンジにて行われた『アジア人物史』総監修者の姜尚中さんと、担当編集の落合勝人編集長(集英社新書編集部)のトークイベントの模様

「アジア回帰」でも「アジア主義」でもない新たな「普遍」

『アジアを生きる』は『アジア人物史』の総監修という得難い体験の中から生み出された「アジア的なるもの」への私の実人生的な感慨であり、また未来へのメッセージでもある。ただし、それは単なる「アジア回帰」でもなければ、手垢にまみれた「アジア主義」の季節外れの復権の試みでもない。むしろ、「アジア的なるもの」を潜り抜けることで見えてくる新しい世界と人間の見方に対する、希望の表明である。

戦争と虐殺の苦渋に満ちた世紀の半ばに生まれ、今も「終わらない戦争」(朝鮮戦争)の終結を願う我が身を振り返ると、アメリカの歴史家バーバラ・W・タックマン(1912~1989、第一次大戦の顚末を詳細に描いた主著『八月の砲声』でピューリッツァー賞を受賞)のいう「幻滅」ではなく、「希望」こそが依然として私たちに残されていると信じざるを得ない。

もちろん、そうした希望が、再び、幻滅に豹変してしまうことがないと断言はできない。しかし、それでも希望の余地が残されていると思うのは、冷戦終結以後の「アメリカン・スタンダード」としての自由市場経済の「グローバル・スタンダード」が、1990年代の世界的な危機を通じて、結局「マルクスが正しかった」と言えるような事態をつくりだし、資本主義が自らを改革する機運を醸成させているからである。

ファシズムや共産主義などの政治的な脅威は、資本主義が自らを刷新し、改革する動機づけとなり、アメリカはそのフロントランナーであることで絶大な覇権を維持してきた。だが、ソ連邦崩壊から30年、覇権国家アメリカがユニラテラリズム(単独行動主義)を謳歌し、すべての道はワシントンに通じると豪語できるような「デモクラシーの帝国」になったと思ったとき、それまで経験したことのない手強い政治的な脅威が成長していることに気づかざるを得なくなった。

「アジア的」としか言いようのないような「異形の」資本主義大国・中国の台頭である。この事態は、冷戦終結以後の放任型の資本主義と自由民主主義の永続的な勝利という多幸症的な思い込みを粉砕することになった。

世界を覆うのは「幻滅」か「希望」か

巨大な政治的脅威の台頭を前に、否応なしにサミュエル・ハンチントン(1927~2008、アメリカの国際政治学者)が主張したような「文明の衝突」の危機感が再び高まり、地政学的な対立は「西欧的なるもの」と「アジア的なるもの」、さらには「普遍的な価値観」と「特殊な価値観」との相克を際立たせることになった。ロシアのウクライナ侵攻は、こうした対立の構図にリアリティを与えることになったのである。

それでも辛うじて、第一次世界大戦を凌駕するに違いない世界的な破局への歯止めが利かなくなっているわけではない。「核戦争の恐怖」がその最後の防波堤になっているのである。それは、タックマンが描いた「幻滅」が空前の規模で世界を覆うに違いないという確信のようなものが、多くの国々で共有されているからではないだろうか。

確かに、その歯止めがいつ壊されるかもしれないという、危うい綱渡りを強いられていることは否定できない。ただ、それにもかかわらず、現在の地球的規模の危機が「西欧的なるもの」と「アジア的なるもの」、「民主主義」と「専制主義」、「普遍的な価値観」と「特殊な価値観」の相克として単に捉えられるのではなく、資本主義に内在する欠陥をいかに克服し、生態系の危機をいかに乗り越えていくのかにかかっているということについて、共通の認識が育まれ、分かち合われるのであれば、「幻滅」の代わりに「希望」が芽生えてくるかもしれないのだ。

先に紹介した映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のように、「あらゆるものが、あらゆる場所で一斉に」変化し、本書で述べるような「グローバルな普遍性」の萌芽が立ち現れてくるかもしれないのである。


文/姜尚中 写真/AFLO shutterstock

アジアを生きる

姜 尚中

2023年5月17日発売

990円(税込)

新書判/224ページ

ISBN:

978-4-08-721263-1


「この道を行こう──」 歴史の悲しみを乗り越えて
集英社創業95周年記念企画『アジア人物史』総監修・姜尚中による未来社会への提言!

【おもな内容】
新たな戦争と、覇権国家の台頭を前に、「アジア的な野蛮」に対する警戒心が強まっている。だが、文明vs野蛮という相変わらずの図式を持ち出しても、未来は暗いままだ。単なる「アジア回帰」でも「アジア主義」の復権でもない突破口は、果たしてどこにあるのか? 朝鮮戦争勃発の年に生まれ、「内なるアジア」と格闘し続けてきた思想家が、自らの学問と実人生の土台を根本から見つめ直した一冊。この世界に生きるすべての者が、真の普遍性と共存に至る道は、「アジア的なもの」を潜り抜けることしかない。

アジア人物史 第11巻 世界戦争の惨禍を越えて

総監修:姜 尚中
編集委員:青山 亨/伊東 利勝 /小松 久男/重松 伸司/妹尾 達彦/成田 龍一/古井 龍介/三浦 徹 /村田 雄二郎/李 成市

2023年4月26日発売

4,510円(税込)

四六判/968ページ

ISBN:

978-4-08-157111-6

カバーイラストは荒木飛呂彦描き下ろし!

評伝を積み重ねて描く、本邦初の本格的アジア通史全編書き下ろし。

「アジア」と名指される広大な領域を、東西南北、古代から21世紀へと、縦横無尽に駆けめぐる。現代のアジア史研究の第一人者である編集委員たちと、東洋史研究の伝統を継承した人々が、古代から21世紀までを展望し、圧倒的個性を掘り起こす!

【月報エッセイ】テッサ・モーリス-スズキ

金性洙/金天海/京城帝国大学関連人物/台北帝国大学関連人物/蔣介石/胡適/毛沢東/ホセ・リサール/アウン・サン/スカルノ/ピブーン/ガンディー/モハンマド・モサッデク/昭和天皇/尾崎秀実/中野重治/林達夫/李香蘭/山代巴/他。

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