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年末は大阪・西成の夜回りへ、なぜ安倍晋三は昭恵夫人の”大暴れ”を見守ったのか…浮気・愛人ゼロだった稀有な政治家の夫婦仲

集英社オンライン / 2023年6月13日 18時1分

安倍晋三という政治家は結婚後は愛人を作ったり、浮気をしたりすることが全くなかった稀有な人物だったという。そこには安倍昭恵という妻という存在が大きかったようだ。『安倍晋三・昭恵 35年の春夏秋冬』(飛鳥新社)から、人間・安倍晋三と人間・安倍昭恵の姿を一部抜粋・再構成してお届けする。

安倍晋三は「愛人を作らない」「浮気しない」稀有な政治家

政治家の妻はいいところの出の女性だったり、はたまた政略結婚だったりが少なくない。安心感がある一方で男としては退屈な面がある。そのため、刺激を求めて浮気をしたり、愛人を作ったりする政治家は枚挙に遑がない。田中角栄の愛人だった佐藤昭子がいい例だろう。

そうやって”バランス”を保っているのだ。メディアも油断ならないし、コンプライアンスが高まっている昨今は愛人を作るような政治家も減り、ある意味で大変であろうと思う。



その点でいえば、安倍晋三という政治家は愛人を作ったり、浮気をしたりすることが全くなかった稀有な人物だった。それは安倍昭恵という妻が、安倍に安心感を与えると同時に刺激も与えるような存在だったからだ。

刺激の一例を言えば、安倍が一回目の総理大臣を辞任した後、昭恵が立教大学の大学院に入ったことだ。立教は左翼の強い大学で、教授も左翼系が少なくない。これまでは右寄りの安倍の言うことを聞いて、それが当たり前だったのに、立教で左翼教授の話を聞くことで、「この人たちの言っていることにも理がある」と知る。ここからがおもしろいのだが、昭恵はたとえば反原発派など安倍の政策に反対する人たちを、安倍に会わせて話を聞かせるようになる。

昭恵は安倍が会えない人に会い、行かれないような所を回った

月刊『日本』などで書いている文芸評論家の山崎行太郎は安倍批判をよく書いていたが、ある時、どう調べたのか昭恵から連絡があって驚いたという。

「ぜひもっと話を聞かせてほしい」と言われて二度ほど会った。安倍の敵であろうと、「批判をするのは何かしら意味や理由があってのことに違いない、それを聞こう」という考えなのである。この感性、そして実際に会う行動力は目を見張るものがある。山崎もそれには感激していた。

安倍は安倍で昭恵に紹介された人間ならば、避けずに話を聞く。そうすることで、安倍自身も様々な意見を耳にする機会を得られ、感性が細ることを防げる。

私が安倍昭恵という人物に注目したのも、こういったことをする政治家の妻はこれまでにいなかったからだ。

安倍は政治家として、首相として制約があり、会える人も行ける場も限られてくるから、昭恵はなるべく安倍が会えない人に会い、行かれないような所を実際に自分の足で回った。

年末にはSPもつけずに大阪・西成の夜回り

ある年末にはSPもつけずに大阪のかつての釜ヶ崎、現在の西成地区の夜回りをしに行った。学校の先輩と一緒だったという。

「主人は、わたしにあんまり大暴れしてもらっても困ると思っているみたいですね。『よく考えて』とは言っています」

昭恵はそう言っていたが、この行動を、安倍は心配しながらも見守り、また新しい自分の糧にもしていたのだろう。

昭恵が自身の店「UZU」を会員制にしなかった理由

昭恵は安倍の最初の総理時代に、福岡にある「知心学舎」を見学したことがある。不登校やニートの人たちが合宿生活をしながら更正する施設で、ここでは道徳と政治を中心命題としている儒学思想の『大学』を読んでいた。

ただ声を出して読むだけなのだが、それだけで子供達が変わっていき、社会に戻っていったケースがいくつもあるという。言葉が体の中に沁み込んでいき、子ども達は段々と変わっていくそうだ。ちなみに年齢に関係なく効果があり、昭恵もそれに参加し、大きい声で読むと、なんとなく背筋が伸びるような感じがした。

先生である安松鈴代が、こことは別に四書五経、論語を素読する「鈴蘭会」を設けており、昭恵に「協力してください」と言う。行動力の塊である昭恵は名誉会長という形で参加するようになった。

ここで思いついたのが、自身が経営する居酒屋「UZU」の二階スペースを利用することだった。近所の人や子どもたちに声をかけ、近所の小学校にビラを配らせてもらって……とアイデアもいろいろ出てきた。

「UZU」という店名は、あらゆる人が集って渦を巻く、という意味からだ。だから会員制にせず、誰でも気軽に入れるようにした。開かれた場所にするところは、まさに彼女の性格そのままである。

なぜ昭恵は森友学園に感激し、受け入れたのか

昭恵は震災後に福島県に定期的に行くようになった。ある時、会津若松市の市長と話していたら、長州の悪口を言われた。昭恵は「長州がどうとかっていうけど、もう、日本の国内でそんなこと言ってちゃ駄目ですよ」 「ぜひ下関にお越しください」と言って、歴史の勉強会も行いたいと考えていた。

初めて昭恵から名刺をもらった時に驚いたのは、自分の直接の電話番号やメールアドレスが記載されていたことだ。彼女はそれを何千枚と人に渡してきた。電話やメールが殺到するだろうし、下手したら迷惑電話なんかもあったのでは、と聞いてみたら「大丈夫です。迷惑を被ったこともありませんよ」とケロッとしていた。普通の政治家の妻ならまずやらないだろう。

余談だが、この朗読から籠池泰典の森友学園の小学校へと繋がっていった。そこでは幼稚園児に教育勅語を暗唱させていた。むろん論語に比べて教育勅語はイデオロギー的なものではあるのだが、「声に出して読む」という行為は同じだったから、昭恵は感激し、抵抗なく受け入れたのだろう。

「UZU」を始める際に、安倍は許可を出したが、二つの条件を出している。

一つは昭恵が酒飲みだったから、「経営者が飲むような店は、絶対つぶれる。店では飲まないこと」。もう一つは「赤字でなければ、そのまま続けていいけれど、一年経っても赤字が続いてるような状態であるなら、即、やめること」。

結果、UZUは平成24(2012)年10月7日にオープンして以来、ずっと黒字で、安倍が亡くなった後の令和4(2022)年10月31日に閉店した。

ミャンマーに学校を3校つくった

意外と知られていないのが、昭恵がミャンマーに学校を3校つくったことだ。

キッカケは曾野綾子だった。聖心女子大学の先輩で、平成16(2004)年に彼女が日本財団の会長としてアフリカの貧困の現場を見るツアーが組まれた際に、「自費で行くから連れて行ってくれ」と昭恵の方から頼みこんで同行した。

その時の体験から、「自分も海外の子供達のために何かできないか」と考えるようになった。アフリカは遠いので、まずは近い所からとアジアのどこかと考え、安倍に相談したら「ミャンマーがいいよ」と提案された。

ミャンマーは非常に親日的な国である。安倍晋太郎が外務大臣で、当時の総理・中曽根康弘とアジア各国を歴訪した際、安倍は外務大臣秘書官としてついていったことがあった。中曽根は途中で日本に戻り、ミャンマーだけは安倍親子で行ったのである。現地は大歓迎で、ミャンマーが日本と友好を深めて、未来のためにお互い努力していきましょうという姿勢を安倍も秘書官として間近で見て感動したという。

「アジアの中では非常に親日的だし、いい国だから、アジアに学校をつくりたいのなら、ミャンマーがいい」

自分が主役になって行動し結果を出す昭恵の行動力

安倍にそう言われて、昭恵は早速行動を開始。様々な人に会って協力を得て、ミャンマーのマンダレー市にある僧院が運営する四百人近い寺子屋が雨漏りが激しく困っていると聞き、そこに小、中学校を3校、新しく建てた。平成17(2007)年1月に開校式がおこなわれた。

単に金を出すだけとか、参加する一員ではなく、自分が主役になって行動し、結果を出す……昭恵に行動力がある証拠だろう。

学校を作る際には、曽野綾子に「ポンとお金を渡しちゃ駄目です」とはっきり言われた。何に使われるのかわからないし、ポケットに入れてしまう人もいる。曽野はカトリックの信者だが性悪説だから、根っからの性善説の昭恵に釘を刺したのだ。 無防備すぎる昭恵を心配したのだろう。

安倍は決して非現実的な右翼政治家ではなかった

安倍晋三という政治家は、確かに右翼的イデオロギーを持っていた。ある時、昭恵が安倍に「もしも総理大臣になったら何をやりたい」と訊いたら、「憲法改正」と即答したという。

実際に、第一次政権は憲法改正に必要な国民投票法を改正し、また自虐史観からの脱却を考えて、教育基本法も改正した。

しかし一方で社会保障を含めた経済もよく見ていた。つまり、生活に根付いた考えを持っているのだ。第二次政権では、右派的政策ばかりを前に出したことが失敗に繋がったと考え、第二次政権は生活に根付いた政策も進めなければと、経済政策を第一に進めていった。それがアベノミクスである。

安倍は決して非現実的な右翼政治家ではなかった。これは安倍晋太郎、ひいては晋太郎側の祖父・安倍寛から受け継いできたものだろう。安倍を語る際に母洋子側の祖父・岸信介ばかり注目されるが、それでは片手落ちである。

もし生きていれば、自民党ハト派の重鎮として活躍していたかも

安倍晋太郎の父・寛は東京帝国大学を卒業するや、銀座に当時としては高級だった自転車の輸入販売会社を立ち上げた。

さらに政界にも進出。ふるさと山口県日置村の村長となり、村の青年のための農村塾を開塾、「今松陰」と呼ばれる。

山口県会議員になり、昭和12(1937)年に総選挙に出馬、当選した。
太平洋戦争中、三木武夫とともに「国政研究会」を創設し、東條英機総理大臣の戦争政策を批判。特高警察にもマークされた。昭和18年には、東條内閣の退陣を求め、戦争反対、戦争終結の運動を起こしている。

敗戦後、ようやく安倍寛の時代が訪れたと思われた昭和21(1946)年1月30日、カリエスを患っていた寛は心臓麻痺で急死した。51歳だった。

もし生きていれば、自民党ハト派の重鎮として活躍していたかもしれない。

安倍晋三は、身の危険を感じながらも、平和を願い、権力と命がけで戦った祖父寛の持つ反骨魂も秘めているのだ。

『安倍晋三・昭恵 35年の春夏秋冬』(飛鳥新社)

大下英治

2023年5月18日

1800円

300ページ

ISBN:

978-4864109543

『安倍晋三 回顧録』(中央公論新社)がふれなかった
愛と真実の物語!


増上寺で行われた安倍晋三総理告別式で、昭恵夫人が挨拶でこう言った。

「十歳には十歳の春夏秋冬があり、二十歳には二十歳の春夏秋冬、五十歳には五十歳の春夏秋冬があります。(略)政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後、冬を迎えた。種をいっぱい撒いているので、それが芽吹くことでしょう」

父・安倍晋太郎氏の秘書官時代から40年。
安倍晋三・昭恵夫妻をいちばん数多く取材してきた作家・大下英治が初めて明かす
人間安倍晋三と人間安倍昭恵

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