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日本のバッティングセンターを存続の危機から救ったのはあのスター選手だった

集英社オンライン / 2022年5月14日 15時1分

たとえば飲んだ後にたまたまバッティングセンターを見かけて、仲間たちと愉快にバット振りに興じた経験を持つ人はいるだろう。あるいは休日の草野球のために、ユニフォーム姿の小学生と並んで「特打ち」の練習をした人もいるかもしれない。バッティングセンターは私たちの楽しくて懐かしい記憶の中にある。だがバッティングセンターがどのように発展してきたか、知る人は少ない。フリーライターのカルロス矢吹氏がその歴史をひも解く。(トップ画像提供:株式会社東京楽天地)

米国、韓国とも違う独自の発展を遂げた日本のバッティングセンター

日本中のロードサイドに、または繁華街のビルの屋上に、まるで「日本の原風景」然として点在するバッティングセンター。野球をプレイしたことがなくても、もっと言えば野球のルールさえ知らなくても、一度は足を運んだことがある人は多いと思う。



だが、その歴史や成り立ちに関しては、驚くほど言及されてこなかった。日本におけるバッティングセンターの1号店がどこなのか? そんな基本的な情報さえ知られていない。メディアで取り上げられる際も、「ホームランを打っているおじいちゃん」などお客さんばかりが注目されてきた。

「じゃあ、自分はよくバッティングセンターで草野球の練習をしているから、取材もしてみよう」

そう思い立ち、筆者・カルロス矢吹は、日本のバッティングセンターに関する取材を続け、2月に『日本バッティングセンター考』(双葉社)というタイトルの書籍を上梓した。

本稿では、その中からバッティングセンターという娯楽施設が日本になぜ定着したのか? その歴史を駆け足ながら振り返ってみようと思う。

そもそも、日本以外にもバッティングセンターはあるのか? 答えはイエス。 主に日米韓の三か国にあり、それぞれ特徴が違う。米国はグラウンドにピッチングマシンが置かれ、打撃練習場のようになっており、運動施設の要素が大きい。反対に韓国は繁華街のビルやゲームセンターの片隅に設置され、至近距離から高速でボールが飛び出てくるようになっていて、娯楽施設に振り切っている。日本はその中間で、野球の練習にもなるけれど、アミューズメントにもなっていることが特徴として挙げられる。

バッティングセンター第1号はビルの屋上

ではそんな日本におけるバッティングセンターはいつ生まれたのか。2005(平成17)年に北海道新聞がこんな記事を発表している。

<日本最初のB C(筆者注:バッティングセンターのこと)は、東京・墨田区の総合娯楽施設「東京楽天地」ビル屋上に建設された。同社によると、開設は(一九)六五年十二月二十八日。ピッチングマシンの製造販売を始めたホーマー産業(神戸)会長河合和彦(六五)のアイデアだ。「プロ野球や学校に売ろうとしたが、収益が上がらない。そこで娯楽に活用しようと思いついた」
六五年は巨人のV9が始まった年。見るのも、するのもスポーツの王様だった野球と娯楽が結びついたB Cは、たちまち人気に。「テレビで紹介され、全国から五千台もの注文が殺到した」。一気に全国へ普及した。>(2005(平成17)年7月4日付・北海道新聞)

この「楽天地バッティングセンター」ではオープン直後に、当時巨人ヘッドコーチだった南村侑広による野球教室が開かれている。その模様を写した写真を見てほしい。運動着ではなく全員が私服、もしくは学生服で参加している。「プレイするために着替えなくてよかった」、これは都市型の娯楽産業としてバッティングセンターが流行するための、極めて重要な要素であったと思う。

楽天地バッティングセンター開店間もなく行われた、巨人ヘッドコーチ(当時)南村侑広による野球教室の様子(写真提供:株式会社東京楽天地)

複合型娯楽施設に

しかし1970年代に入り、バッティングセンターの流行は落ち着きを見せる。日本中でボウリングブームが巻き起こったためである。そして皮肉なことに、このボウリングブームが後に日本にバッティングセンターを復活させる最大の要因となったのだった。以下は、北海道新聞の取材に応えた、河合和彦氏による回想である。

<「第一次バッティングセンターブームが起きた後、ボウリングブームが訪れた。野球以上の凄い人気で、日本中にボウリング場が出来てバッティングセンターからも客足は遠のいた。ところが1976年頃、人気が去ったボウリング場の経営者達が、ボウリングよりは設備投資のかからないバッティングセンターを駐車場など敷地内の余っていたスペースに開設し始めた。こうして日本中で第二次バッティングセンターブームがやってきた。」>(05(平成17)年7月4日付・北海道新聞)

多少の補足が必要だろう。ボウリングブームが去った原因としては、73年に起こったオイルショックから始まる不況によるところが大きい。ボウリングブーム絶頂期の72年、日本には3697か所ものボウリング場が存在していた。その一部がバッティングセンターを併設するようになり、その数を増すとともにバッティングセンターという存在が日本中に定着していった。総務省の調査によれば、ピーク時の70年代には全国で約1500か所ものバッティングセンターがあったそうだ。

現在の楽天地ビル(撮影:カルロス矢吹)

だが老若男女に親しまれていたボウリング場と違い、バッティングセンターに来る客のほとんどは男性であった。そこで女性客を取り込むために導入されたのがオートテニスだったのである。ボウリング場では行列を作る客を退屈させないように、レストランやゲームコーナーを設けているところも多かった。こうして70年代後半に「ボウリング・バッティングセンター・レストラン・ゲーム・オートテニス」といった、現代の「ラウンドワン」のような複合型娯楽施設の雛形が生まれた。

順調に見えたバッティングセンター経営だが、93年に危機が訪れる。同年開幕したJリーグの影響で、客足が一気に遠のいていったのだ。日本中のバッティングセンターの施工に関わってきた株式会社キンキクレスコの堀川三郎会長は当時こんな手記を残している。

<一昨年にスタートしたJリーグブームでこの二年間は野球界は言うまでもなく我々バッティング業界にとりましても大きな影響を受ける事になりました。(中略)サッカーブームで子供達の野球離れに拍車をかけバッティングセンターも子供達の姿が少なくなり売上げも大きくダウン致しました。>(95(平成7)年2月号・クレスコバッティングNEWS)

株式会社キンキクレスコ堀川三郎会長(撮影:カルロス矢吹)

バッティングセンターを救ったスター選手

翌94年、このバッティングセンターの危機を救うスーパースターが登場する。イチローこと、鈴木一朗が大ブレイクを果たしたのだ。彼がメディアに登場するたびに、父と一緒にバッティングセンターに通っていたという彼の幼少期のエピソードが語られ、以降バッティングセンターは息を吹き返していった。

全国バッティングセンター連盟協議会からの表彰を受けるイチロー(資料提供:株式会社キンキクレスコ)

バッティングセンターは、現在ピーク時の半数以下にまでその数を減らしているものの、黒字を出している店舗の多くが硬式球も打てる、打撃練習場に近い存在になっている。イチローの存在は、「バッティングセンターの打席は、プロ野球どころかメジャーにも続いている、ちゃんと野球の練習にもなるんだ」という担保になったのだと思う。90年代半ばにイチローが示してくれた指針の下で、バッティングセンターは生存の道を模索していったのかもしれない。

だが現在、バッティングセンター業界は深刻な後継者不足に頭を悩ませており、オーナーの高齢化に伴い黒字でも閉店の危機に直面している店舗が多い。冒頭でバッティングセンターを「日本の原風景」と書いたが、それは業界自体が斜陽産業になっていることが大きいからだと思っている。ノスタルジーを感じるということは、失われつつある風景である、とみんな気づいているからだ。バッティングセンターに愛しさを感じるのであれば、今すぐ最寄りの店舗に行ってほしい。お客さんが来ること、それだけがバッティングセンターが生き残る方法なのだから。

これからバッティングセンターがどんな歴史を作っていくのか。今後も取材者というより1人の客として、その行く末を見守っていきたいと思っている。

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