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息子・信康と嫁・五徳の仲に嫉妬した徳川家康の正室・瀬名のヤバすぎる策略…どうする家康、五徳が信長に送った”悪行十二カ条”

集英社オンライン / 2023年6月25日 19時1分

戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いた徳川家康。NHK大河ドラマ「どうする家康」も話題になっているなか、いかに家康が危機を乗り越え天下人になったのかに迫った『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)より、家康の長男・松平信康殺害事件の真相について一部抜粋・再構成してお届けする。

#2

なぜ信長は信康殺害を命じたか

徳川家康は、天正七年(一五七九)に嫡男の松平信康を切腹させ、正妻の築山殿を殺害している。

徳川家にとっては、まさに御家を揺るがす一大事だったといえよう。

信康は当時二十一歳、徳川(松平)家歴代の居城・岡崎城をまかされ、勇将としての名が世間に高まり始めていた。

家康には他に男児が二人いたが、次男の秀康(母は於万の方)はまだ六歳だったうえ、なぜか冷遇され四歳になるまで家康は対面しなかった。三男秀忠(母は西郷の局)は生後わずか四カ月の乳児に過ぎない。乳幼児の死亡率は高いから、二人ともこの段階では成人するかどうかわからない。



そういった意味では、跡継ぎの信康を死に追いやることは、家康にとっては大きなリスクだったはず。なにゆえ我が子を殺さねばならなかったのか。

一言でいえば、それが織田信長の命令だったからである。

徳姫(五徳)が父信長に送った、夫・姑の悪行十二カ条

この時期、織田の領国は強大化し、信長は天下を制する勢いを見せており、家康も織田家の属将的な立場に甘んじざるを得なくなっていた。信長に逆らうことはすなわち、徳川の滅亡を意味した。

では、いったなぜ、信長は信康の抹殺を命じたのだろうか。

残念ながら、事件の経緯が詳細にわかる一次史料は存在しない。そこで詳しい事情が載る『三河物語』や『松平記』をもとに、『当代記』『徳川実紀』『改正三河後風土記』などを参考にして、事件の詳細を解説していこう。

天正五年(一五七七)、信康の正妻である徳姫(五徳)が夫や姑に関する悪行を十二カ条に認したため、酒井忠次に持たせて、岐阜にいる信長に送り届けた。

酒井忠次は信長に、「いずれも存じております」

徳姫は信長の娘で、織田・徳川同盟を強固なものにするため、永禄十年(一五六七)に信康のもとに輿入れしてきた。

徳姫の書状には、夫の信康と姑の築山殿を非難する文言が記されていた。

『三河物語』によれば、信長は忠次の前で徳姫の書状を広げ、一つ一つ「これはどうなんだ」と問いただしていった。それについて忠次はなんと、いずれも「存じております」と肯定していったというのだ。

こうして忠次が十カ条まで事実だと認めたところで、信長は残る二カ条にはもう目さえ通さず、「徳川家の家老がことごとく肯首するのであるから、すべて事実に間違いなかろう」と述べ、忠次に向かって、信康に「腹を切らせ給へと家康へ可被申べし」(前掲書)と仰せつけたのである。

そこで忠次は、信康の岡崎城へは立ち寄らず、そのまま家康がいる浜松城へ入り、主君・家康に信長の言葉を伝えた。

男児を産まない嫁に怒る姑、とにかく残忍で荒々しい困った夫

ただ、『三河物語』には、徳姫の書状にどんな文言が記されていたのかについて、一切言及がない。幸い、同じ時期に成立した『松平記』には、書状が十二カ条だったかは不明ながら、その内容が明記されている。

同書によれば、徳姫は信康の子を産んだが、女児だったので信康も築山殿も喜ばず、次に産んだ子も女だったとき、信康は腹を立てたという。これが原因で二年前から信康・徳姫夫妻は不仲になった。さらに夫婦の不和は、信康の性格も一因だった。

とにかく信康が残忍で荒々しい性格だという。たとえば、僧侶と出会うと狩りで獲物が捕れないという言い伝えがあったが、鷹狩に向かう途中、信康は不運にも僧に出くわしてしまった。するとその坊主を引っ捕らえて首に縄をつけ、自分の馬の脇に結えつけ、馬を走らせて縊くびり殺したのである。また、町で踊りが催されたさい、見物していた信康は、踊りが下手だと言って弓で踊り子を射殺したという。

手紙の中で徳姫は、こうした信康の荒々しく無慈悲な言動を父の信長に告発した。

義母・瀬名は「唐人医師と不倫してます」(五徳)

さらに悪口は、姑の築山殿にもおよんでいった。築山殿は、甲斐から「めつけい」という唐人医師を招き、彼と不倫しているというのだ。さらに彼を通じて甲斐の武田勝頼に使いを送って内通したとある。しかも彼女は、謀反を企み、息子の信康を引き込んだという。

弘治三年(一五五七)、人質時代に家康は、今川義元の重臣・関口氏純の娘・築山殿と結婚した。彼女の母は義元の妹だったといい、義元の姪にあたった。だから、この婚儀によって家康は今川一族として扱われることになったわけで、その立場を安泰にした良縁だったといえよう。

ところが、桶狭間の戦いで事態は大きく変わる。義元の死後、家康は松平氏歴代の居城・岡崎城に入り、駿府へ戻らなかった。そしてその後、今川氏からの独立を決意、尾張りの織田信長と提携し、今川領の攻略を始めたのである。このとき築山殿と嫡男の信康、そして娘・亀姫は、まだ駿府で暮していた。つまり家康は、妻子を見捨てたのである。

実際、家康の寝返りに激怒した今川氏真は、築山殿とその子供たちを殺そうとしたといわれている。これを制止したのが、築山殿の父・関口氏純であった。その後、前述のとおり、人質交換によって築山殿と子供たちは岡崎城に入ることができたが、関口氏純は氏真に殺されてしまった。

実際は夫婦仲がよくなかった瀬名と家康

自分の都合で世話になった今川氏を裏切り、私たちを見捨て、父を死にいたらしめた夫の家康。おそらく築山殿は、夫の仕打ちを深く怨んだに違いない。実際、『松平記』にも築山殿が「我父ハ家康の為に命を失ひし人」と思っていたと記されている。

だが、家康にとってはあくまで政略結婚であり、今川氏と手を切ったいま、それほど築山殿を大切な存在だとは見なしていなかったのではないか。

一説には、この時期、家康は築山殿を離縁したという。それに、家康の生母・於大も、実家の水野氏が今川から織田方についたことを理由に、広忠から離縁されている。それを見て育っただけに、妻子を手放すことは戦国の習いとして諦観していた可能性はあると思う。

ともあれ、夫婦仲が良くないことは、浜松城で家康と同居しなかったことでも想像できる。

瀬名は自分と夫の関係がよくないが故、息子夫婦に嫉妬

永禄十一年(一五六八)、家康は今川領の遠江国への侵攻を開始し、元亀元年(一五七〇)に本拠地を岡崎城から遠江国の浜松城へ移した。このとき家康は、十二歳の信康に岡崎城をまかせたが、本来ならば、正室の築山殿は浜松城に連れて行くべきだろう。それなのに、なぜか彼女をそのまま岡崎城に残したのである。確たる事情は判然としないものの、築山殿にとっては屈辱的な措置だったのではなかろうか。

家康は精力旺盛で、生涯に十数人の側室と十六人の子供をもうけている。ちょうどこの時期から次々と側室を抱えはじめた。『松平記』によれば、こうした状況に対して築山殿は、「自分こそが家康の本妻で、嫡男・信康の母である。だから本来なら、家康から賞翫に与かるべき立場なのに、長年、岡崎城下の築山という場所に住まわされ、目をかけてもらえない」と強い不満を抱くようになったという。彼女の嫉妬心は、岡崎城で同居していた信康の妻・徳姫にも向けられていく。

信憑性に欠ける編纂史料だが、江戸後期に成島司直が改撰した『改正三河後風土記』(桑田忠親監修秋田書店)には、次のような逸話が載る。

信康と徳姫の仲睦まじい姿を見た築山殿は、家康との関係がよくないだけに激しく嫉妬し、二人の仲を引き裂こうとさまざまな策略をめぐらせた。信康に対し「跡継ぎの男子をつくらねばならぬ」といって、側室をおくことを強く勧め、みずから絶世の美女を捜し出しては信康にあてがったのだ。やがて信康は、その中の一人をいたく気に入り、色情におぼれて溺愛し、徳姫とのあいだも疎遠になっていったという。

築山殿にとっては胸のすく思いだったろうが、この嫁姑の確執が徳川家に大変な事態をもたらすことになった可能性がある。

『徳川家康と9つの危機 』(PHP新書)

河合敦

2022年9月16日

1188円(税込)

‎256ページ

ISBN:

978-4569853048

いま、「徳川家康」像が大きく揺れ動いている!

徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる。「顰(しかみ)像」として知られる絵だが、近年、それは後世の作り話との説が出されている。それだけでなく、家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっているのだ。
一例を挙げれば、家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件は、織田信長の命令によるものとされてきた。しかし近年では、その事件の背景に、徳川家内部における家臣団の対立があったことが指摘されているのだ。
本書はそうした最新の研究動向を交えつつ、桶狭間の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、関東移封、関ヶ原合戦など、家康の人生における9つの危機を取り上げ、それらの実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを解説する。そこから浮かび上がる、意外かつ新たな家康像とは――。

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