1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. カルチャー

アッー!! 藤原頼長と「七人の男色相手」…男同士のセックスで結びついた固い絆と、嫉妬・愛憎が生んだ大惨事

集英社オンライン / 2023年6月23日 19時1分

『BL作品を理解するうえで欠かせないのが、「妄想力」を土台とする「腐の精神」だ』という、古典エッセイスト・大塚ひかり氏による著書『ヤバいBL日本史』(祥伝社新書)から、院政期に男色ネットワークが築かれた本当の理由を一部抜粋・再構成してお届けする。

#1

藤原頼長の七人の男色相手、それもそれぞれ妻がいながら

大学を卒業して一年目の冬、五味文彦の『院政期社会の研究』に出会った時は、衝撃を受けたものです。

五味氏が左大臣藤原頼長の日記『台記』等を検証したところによると、頼長には源成雅、藤原忠雅、藤原為通、藤原公能、藤原隆季、藤原家明、藤原成親の七人の男色相手がいたというのです。

のちに私は、三十六歳にして九十五人の相手と男色関係を結んだ僧侶のことを知り、衝撃を受けることになるのですが、『院政期社会の研究』を読んだ時は私も二十代前半で、世間を知らないということもあって、男が男七人と関係していたのか、それもそれぞれ妻がいながら……と驚いてしまったのです。




しかも五味氏によれば、このうち四人が同じ藤原家成一門の人でした。
頼長はこの家成一門と意識的につながっていたというのです。

というのも実は、家成は鳥羽院の男色相手として大きな勢力を築いていました。この点もまたなかなか驚きなのですが、頼長としては、そんな家成の一門を取り込むことで、権力の座を獲得しようとしたのではないかといい、要するに頼長にとっての男色関係は「政治的手段の一つに他ならなかった」(前掲書)というのです。

まさに「男色ネットワーク」としか言いようがありません。

院政期には頼長だけでなく、あとで触れるように父の忠実はじめ、兄の忠通、鳥羽院の子の後白河院、祖父の白河院も男色を嗜んでいて、保元の乱や平治の乱もそうした関係がもとになって勃発しているらしいのです。

いかに娘を「そそる女」にするかに大貴族は心血を注いだが…

なぜこの時代、こんなにも男色が政界に目立つようになったのか。

その理由について五味氏は「まずは京都という狭い政治社会の場のあり方と関連していると見るのが正しいであろう。また院政という特殊な政治構造と関連していると言えるかもしれない。ここでは早急な結論を出すことはすまい」(前掲書)と明言はしていません。

それを強いて追究するのは僭越という気がするものの、学者の立場ではない気安さから考えてみるに、女の性を使った外戚政治に陰りが見えながら、性を使って繁栄するという馴れた手法を彼らが変えなかったため、なのではないか。

外戚政治というのは娘を天皇家に入内させ、生まれた皇子を即位させ、その後見役として一族が繁栄するという、天皇の母方(外戚)が中心となって政治を動かす仕組みのことです。

この仕組みで天皇の母方である藤原氏の摂関家は栄えていたために、平安中期には男女の関係が重視され、いかに娘を「そそる女」にするかに大貴族は心血を注いでいました。多くの妃たちの中で、天皇(東宮)が娘のもとに通ってくれるよう、娘を飾るためにも才色兼備の女房たちを雇うことに余念がありませんでした。清少納言や紫式部、赤染衛門、和泉式部といった天才的な文学者がほぼ同時期に輩出されたゆえんです。

性を使って政治をするという手法を手放せなかった性

ところが平安後期、内親王を母にもつ後三条天皇の即位によって、この潮流に変化が起きます。

権力が、天皇の母方から天皇の父……つまりは上皇(院)に移り、院はそれまで力のあった大貴族ではなく、中流以下の貴族や武士を盛んに取り立てるようになります。

その際、院は中流貴族と男色で以て結びつき、権力に陰りが見えつつあった頼長のような大貴族もまた中・下流貴族と男色で結びつくということをした。

それはつまり、外戚政治の時代にあった「性=政」の観念がそのままスライドした結果ではないか。

天皇(東宮)と娘をセックスさせることで生まれた皇子の後ろ盾として権力を得る――セックスで結びつく、繁栄するという政治の仕方をしてきた彼らは、娘の性を使った政治の効力が低下しても、セックスを使って結びつくという方法を捨てなかった。

自身の性で以て、ターゲットとなる相手(男)と結びつく

それで、自身の性で以て、ターゲットとなる相手(男)と結びつくことで、権力を広げていったと思うのです。

もっとも院政期以前に大貴族や中・下流貴族が男色で結びついていなかったかというと、そうでもなかったのではないか……と私は思っていて、というのも『源氏物語』には、主人公の源氏が受領の妻である空蟬に会えない寂しさから、空蟬の弟の小君と同衾するシーンがあって、その後、小君は源氏に取り立てられるのです(源氏が須磨謹慎の折、小君は距離を置いたため、帰京後の源氏は小君につれなくなります)。

こうしたことは現実にもあったのではないか。ただ、あくまで政治の本流は「女と男の性」で動いていたために、男色が政治を動かすというほどではなく、さして盛んでもなかったのではないか。それが私の考えです。

この時代の事件や戦いには必ずといっていいほど男色の愛憎が絡む

話を院政期の男色に戻すと、五味氏の指摘するように、この時代の事件や戦いには必ずといっていいほど男色の愛憎が絡んでいます。

保元元(一一五六)年、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇(院)方と後白河天皇方に分かれて保元の乱が勃発します。

その根っこには男色関係以前に、上流社会の親子関係のひずみがありました。

鳥羽院は保延五(一一三九)年、寵愛する美福門院得子腹の体仁親王(のちの近衛天皇)を東宮にした。そして、永治元(一一四一)年、待賢門院璋子腹の崇徳院(当時は天皇)が譲位する時の宣命に〝皇太子〟と書くべきところを〝皇太弟〟と書かせた。体仁は崇徳の異母弟ながら、崇徳の妻の養子になっていたのに、です。そのため、崇徳は〝コハイカニ〟(これはどういうことだ)と恨みを抱きます(『愚管抄』巻第四)。当時は天皇の父=上皇が執政する院政期。体仁が皇太弟では、崇徳は兄ということになって、天皇の父として院政を行なえなくなるからです。

ドロドロすぎる…男だけのHな世界

そんなころ「家成邸追捕事件」(一一五一年)が起きる。藤原頼長が〝無二ニアイシ寵シケル〟つまりは愛人である秦公春に命じ、藤原家成邸に乱入させたのです。日本古典文学大系の『愚管抄』の補注によると、その前に家成の家人が頼長の雑色(雑役係の下男)を搦め取ったからなのですが、天台座主の慈円によれば、家成を寵愛していた鳥羽院はこれを機に頼長を疎んじるようになります(『愚管抄』巻第四)。

頼長は愛人の公春に命じて、鳥羽院の愛人の家成邸に狼藉を働いたという、双方、男色絡みの事件なわけです。

そして久寿二(一一五五)年、近衛天皇が死に、璋子腹の後白河天皇が即位。翌年、鳥羽院が死去するのですが、相変わらず政治から閉め出されていた崇徳院は父の最期に会うこともゆるされませんでした。鳥羽院がこれほど第一皇子の崇徳院を憎むのには理由があって、実は崇徳院は、鳥羽院の祖父白河院のタネであり、当時の人は〝皆な之れを知るか〟という状態でした。鳥羽院にとって崇徳院は叔父に当たるため、鳥羽院は彼を〝叔父子〟と呼んでいた。それで崩御時も、〝新院にみすな〟(崇徳院に見せるな)と遺言したため、崇徳院は会えなかったのです(『古事談』巻第二)。

崇徳院の母璋子は白河院の養女で、幼いころは〝白河院の御懐に御足さし入れて、昼も御殿籠り〟(『今鏡』「藤波の上 第四」)という状態でしたから、鳥羽院に入内する前から白河院と関係があったのでしょう。角田文衛は璋子の生理周期から崇徳の実父は白河院としています(『待賢門院璋子の生涯――椒庭秘抄』)。

亡き源信雅は顔は美形だが肛門がよくない

一方、摂関家では、藤原忠実が、いったんは正妻腹の忠通に譲った〝藤氏長者〟(藤原氏の氏長者。一族トップの地位)を取り上げて、下の子の頼長に譲ってしまうということがありました(『愚管抄』巻第四)。そのため、兄忠通と異母弟の頼長は不仲となっていました。

さらに武士の世界では、源氏の棟梁である源為義と、長男の義朝は長年、不仲だった(同前)。

こうした家族関係を孕みつつ、保元の乱では兄弟親子が敵味方に分かれて戦うことになります。

しかもこの戦いを構成するメンバーも、深く男色と関わっています。
まず崇徳上皇方の頼長は言うまでもなく、父の忠実も男色を嗜んでおり、忠実のことばを記録した『富家語』には、〝故信雅朝臣は面は美くて後は頗る劣れり。男は成雅朝臣なり。成雅は面は劣りて後の厳親に勝るなり。これに因りて甚だ幸ひするなり〟と、ある。

亡き源信雅は顔は美形だが肛門が良くない、一方、息子の成雅は顔は劣るが肛門が親にまさっている、そのため深く寵愛しているのだ、というのです。

成雅絡みのこととなると、愛息子の頼長のことすら許さない忠実

〝後〟という表現が生々しいではありませんか。

忠実は成雅をよほど可愛がっていたのでしょう。成雅絡みのこととなると、愛息子の頼長のことすらゆるしません。乱闘事件を起こした成雅を頼長が罰すると、約半年間、宇治の屋敷に参向することを止めたといいます(五味氏前掲書)。

とはいえ保元の乱では、上皇側についた頼長を応援、上皇側が敗北すると、天皇側についた忠通の計らいで配流を免れたものの、京都北郊の知足院に幽閉され、晩年を過ごすことになります(池上洵一「『中外抄』『富家語』解説」、新日本古典文学大系『江談 抄 中外抄 富家語』所収)。

まぁ上皇本人は讃岐国に流罪となって現地で死に、上皇側についた頼長は矢傷がもとで死んだことを思えば、幽閉で済んだ忠実はましなんですが……。

源為義なんて、天皇側についた長男義朝の手で斬首されますから。


平治の乱を引き起こしてしまった男色

しかし義朝は勝ったとはいえ、同じ武士の平清盛と比べると、ほとんどうま味は得られませんでした。

父殺しの汚名を着た上、後白河院の乳母の夫として権力を振るっていた信西入道の子を、「婿にしたい」と申し出て断られてしまった。にもかかわらず、信西は別の息子を清盛の娘婿にしたので、義朝は深い〝意趣〟を抱くことになります(『愚管抄』巻第五)。

同じころ、後白河院に〝アサマシキ程ニ御寵〟(驚くほど寵愛)されていた藤原信頼が、信西の権勢に〝ソネム心〟(嫉妬心)を抱いていました(同前)。

ここでも、男色が一枚嚙んでいるのです。

利害の一致した義朝と信頼は平治元(一一五九)年十二月九日夜、院の御所に放火、逃亡した信西を死に追いやり、信西の子らを流罪にしてしまいます。

平治の乱が起きるのです。

折しも熊野詣でに出かけていた清盛は事の次第を知って帰京、信頼は斬首され、落ち延びた義朝は家来の裏切りにあって殺され、平家の世が到来することになります。

『ヤバいBL日本史』 (祥伝社新書)

大塚ひかり

2023/5/1

1,034円

232ページ

ISBN:

978-4396116798

BLは日本史の表街道である

BL(ボーイズラブ)、すなわち男同士の恋愛や性愛が描かれた作品は、近年のエンタメ業界で存在感を高めている。
こうしたBL作品を理解するうえで欠かせないのが、「妄想力」を土台とする「腐の精神」だ。
そして、これは突然変異で生まれたものではなく、日本の歴史に脈々と受け継がれてきた精神であると著者は言う。
本書は、『古事記』から『万葉集』『源氏物語』『雨月物語』といった古典文学や史料を題材に、「腐」を軸とした鮮やかな解釈で、新しい歴史観を提供するもの。
院政期に男色ネットワークが築かれた本当の理由や、男色の闇にあった差別と虐待の精神史など、これまで語られてこなかった日本史の本質を描き出す。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください