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全裸に嘔吐に自傷…今なら即アウト、大炎上間違いなし。なんでもありだった1980年代アングラ音楽シーン事件簿

集英社オンライン / 2023年6月26日 19時1分

「昔はよかった」「昔はなんでもありだった」といえば、老害と揶揄されてもいたしかたないだろう。だが、あえて言いたい。1980年代の音楽界のアンダーグラウンドシーンの奔放さとメチャクチャぶりが、どれだけ常軌を逸し、ヤバく、面白かったことか。人によっては気分を悪くしたり、害してしまうかもしれないが、その有様を振り返ってみよう。

とにかく過激でメチャクチャで面白かったあの頃

「昔はよかった」というのは、いつの時代にも存在する、旬を過ぎたおっさんおばさんの使う常套句で、若い世代から“老害”と揶揄されるような、回顧的感傷にすぎないことはわかっている。

「昔はなんでもありだった」というのも、その類の言い草だ。
“自分は今より刺激的な時代に青春を過ごしたんだぜ”という、それこそ若者にとっては毒にも薬にもならない、つまらない自慢にすぎないのだろう。



それでも敢えて言いたい!
僕が中高生だった1980年代の音楽界のアンダーグラウンドシーンは、なんとまあメチャクチャで面白かったことかと。

僕がこれから書くその頃の出来事を読んでも、今の若い人は「は? これのどこが面白いの? キモっ」と思うだけかもしれない。
また僕と同世代でも、大多数の人は読むだけで気分を悪くするような話ばかりかもしれない。
でも僕は、当時のメディアでこうしたことを見聞きするたび、確かに心ときめかせていたし、ヤバければヤバいほどワクワクしたあの感覚を、今も懐かしく思い出したりするのだ。

そういうわけで、80年代のアンダーグラウンド音楽シーンの奔放っぷりを、少しだけ振り返ってみよう。

過激パフォーマンス編①
〜ザ・スターリン、JAGATARA、非常階段〜

直接的な暴力に訴えるわけではないけれど、普通だったら見る側に生理的嫌悪感を抱かせるパフォーマンスを、敢えておこなっていたバンドやミュージシャンをご紹介しよう。

まずは、遠藤ミチロウがみずから“3大変態バンド”と称した、ザ・スターリン、JAGATARA、そして非常階段から。

ザ・スターリン

ボーカリストの遠藤ミチロウ(1950-2019)自身は晩年のインタビューで、1980年代当時のことを、「あの頃は、めちゃくちゃ大会だったから」と自嘲的に語る物静かな人だ。
だが1980年代のアンダーグラウンド音楽シーンの中で、ミチロウ率いるザ・スターリンはもっともスキャンダラスでクレイジーなバンドとして名を馳せていた。
特に初期のステージのメチャクチャぶりは凄まじい。

ステージから客席に物を投げ込むパフォーマンスは有名で、投げ込まれたものは、生ゴミにはじまり、ブタやニワトリの内臓や頭、火のついた爆竹や花火、排泄物を混ぜた牛乳、ペンキ……。それに生きたイノシシやニワトリを客席に放ったこともあった。

ステージ上でミチロウが全裸になるのは毎度のことで、排泄や嘔吐ばかりか、自慰行為をしたり、客席最前列の女性客にナニをくわえさせたという逸話もある(無理やりではなく、客がすすんでくわえたらしいが)。

1981年11月に行われた、ある学校の学園祭乱入ライブ(学校側の許可が降りず、主催者の生徒と共謀したゲリラ)では、遠藤ミチロウが公然わいせつ罪で逮捕されている。
そうした行為は、オーディエンスの期待に応えてどんどん過激化していったものだが、あまりにも激しいステージが評判になると、ライブハウスやホールから軒並み出入り禁止措置を取られるようになった。

ザ・スターリンのセカンドEP『ロマンチスト』(1982)

JAGATARA

ボーカリストの江戸アケミ(1953-1990)を中心とするJAGATARAが活動を開始したのは1979年のこと。表記を含めバンド名をコロコロと変遷させるバンドで、最初期は「エド&じゃがたら」と名乗っていた。
ファンクやワールドミュージックの要素を取り込んだJAGATARAの音楽性は、当時も今も高く評価されているが、初期のステージングと曲調は、当時全盛期だったポストパンクの要素も多分に含んでいた。

江戸アケミは生来、照れ屋で生真面目な性格で、苦手なライヴでのMCを誤魔化すため、マイクに頭を激しく打ちつける自虐的パフォーマンスをするようになり、次第に過激化。生きたニワトリやヘビを食いちぎったり、フォークやカミソリで自らの体を切りつけたりするようになる。
自傷による出血が止まらず、救急車で病院に運ばれたこともあった。

前出のザ・スターリンの遠藤ミチロウは、こうした江戸アケミのパフォーマンスに影響を受けたと語っているので、元祖はこちらなのだ。
だが江戸の過激パフォーマンス時代は短く、1980年には音楽のみで勝負することを決意。“暗黒大陸じゃがたら”や“じゃがたら”“JAGATARA”とバンド名を変えながら、後世に残る数々の名作を発表した。

暗黒大陸じゃがたら(JAGATARA)のファーストLP『南蛮渡来』(1982)

非常階段

1979年にJOJO広重を中心として京都で結成された非常階段は、日本を代表するノイズバンドとして世界に名を轟かせ、現在も活動を継続している。

初期のパフォーマンスは過激を極め、大音量のノイズと絶叫の中、排泄物、嘔吐物、ミミズ、納豆などが撒き散らかされたぐちゃぐちゃドロドロのステージ上を、メンバーが転がり回りながら演奏する、地獄のような様相を呈していた。

メンバーの一員として招かれたAV女優がステージで放尿し、その模様が雑誌に取り上げられたり、出演翌日の異臭たちこめる状況に嫌気がさしたライブハウスのスタッフが、全員辞めると言い出したりなど、当時の逸話には事欠かない。
同時期に名を成したザ・スターリンと並び、ライブハウスやホールから出入り禁止を喰らうようになると、1983年には同バンドと“スター階段”というユニットを組み、京都大学西部講堂で伝説的な過激パフォーマンスをおこなった。

1980年代中頃以降は、イベントとして特別に求められたとき以外は過激パフォーマンスをしておらず、一方でその音楽性が世界中で高く評価されるようになった。
今世紀以降は、他のミュージシャンやアイドルグループなどとの積極的なコラボ活動で話題になることも多い。

非常階段のファーストLP『蔵六の奇病』(1982)

過激パフォーマンス編②
〜泯比沙子、ばちかぶり〜

変態的な過激パフォーマンスを繰り広げたミュージシャンは他にも数多くいた。
センセーショナルな話題を巻き起こした泯比沙子、今やナレーター界で誰もが一目置く存在である田口トモロヲがその代表格。
やっぱりとんでもない時代だったのだ。

泯比沙子

九州を中心に1983年から音楽活動を開始した泯比沙子(みんひさこ)は、ライブ中に生きたセミを食べたり、自分の体に針を突き立てたりするパフォーマンスが口コミでじわじわと伝わって、当時のインディーズ好き少年少女たちをざわつかせていた。
いくつかのユニットやバンドを経て、泯比沙子withクリナメンを結成した1985年の9月には、ステージ上で下着を脱ぎ捨てるなどのパフォーマンスが雑誌「フライデー」に掲載され、“博多の狂乱娘”=泯比沙子の名が、アンダーグラウンドながら全国区となった。

儚げに見える10代の少女であるにもかかわらずステージ上で全裸になったり、ナイフで体を傷つけたりする危うさで名を馳せたが、音楽的にも評価が高く、現在もさまざまなバンドやユニットで断続的に活動を続けている。


ミン&クリナメンのファーストLP『猿の宝石』(1987)

ばちかぶり

今やナレーターとして、NHK『プロジェクトX』をはじめとするドキュメンタリー番組で美声を響かせる田口トモロヲは、俳優、映画監督、漫画家、ミュージシャンなどの顔を持つ多才の人。

そして、文学的でシニカルなテイストのパンクバンド、ばちかぶりを率いていた1980年代は、過激なパフォーマーとしても有名だった。
「JAGATARAから影響を受けた」と公言するだけあって、ステージ上での排泄や嘔吐、全裸パフォーマンスは当たり前。
ライブスタート時に炊飯器のスイッチを入れ、炊き上がったご飯の上に脱糞したパフォーマンスは今や伝説となっているが、これはばちかぶりの前にトモロヲがやっていたガガーリンというバンドでのエピソードである。

出演した『笑っていいとも!』では、「気が小さいからすぐにチンチン出したり、ウンコとかしちゃうんですよね」と語ったが、根が生真面目な田口トモロヲは、ステージで脱糞パフォーマンスをすると決めると、前日から下剤を飲むなどして体調を整えていたという、今や笑っていいのかどうか微妙なエピソードが残っている。

ばちかぶりのファーストLP『ばちかぶり』(1985)

ヴァイオレンス編
〜G.I.S.M.、ハナタラシ〜

ここまでご紹介したミュージシャンのライブでは、客はステージから投げつけられる汚物を体に浴びることなどはあっても、直接的な身体的被害を受ける恐れはなかった。
一方で、ライブを見にいくだけなのに、怪我をしたり、最悪死ぬかもしれないという恐怖を感じさせるバンドも多くいた。

ハードコアパンク界隈では、ライブハウスでの喧嘩や暴力沙汰(バンドのメンバーと客が相乱れて)が日常茶飯事だったが、ここにご紹介するG.I.S.M.と、ノイズユニットのハナタラシのエピソードは特筆物だ。

G.I.S.M.

活動スローガンに“アナーキー&ヴァイオレンス”を掲げるG.I.S.M.は、いつも血生臭い噂が絶えないバンドだった。
ボーカリストの横山SAKEVIはライブとなると常に臨戦体制で、オーディエンスに暴行を加えることも多かったが、客もSAKEVIのヴァイオレンスを期待して集まっているので、不思議とバランスの取れた空気感だったのだろう。

ガスバーナーやチェーンソーを持ったSAKEVIが客席へ降りていき、客が逃げ惑う光景もG.I.S.M.のライブではお馴染みだった。
『ガスバーナーパニック』というタイトルで映像が残されている、1986年の中野公会堂ライブでは、SAKEVIが点火したガスバーナーで客を威嚇したことを危険行為とみなした主催者がPAで音を切り、ライブは強制終了。
映像の後半は、怒ったSAKEVIがミキサー卓の会場スタッフや「フライデー」の記者につかみかかったり言い合ったりする様が収録されている。

G.I.S.M.のファーストLP『DETESTation』(1987)

ハナタラシ

のちにボアダムスのフロントマンとして世界的に評価が高まる山塚アイ(EYE)が、1983年に結成したノイズユニット。
1988年頃の活動停止までの間、あまりに過激なパフォーマンスを繰り広げ、現在に至るまで“史上最恐”の名を欲しいままにしている。
ハナタラシでの山塚アイの行動をいくつか挙げると、チェーンソーで切り刻んだ猫の死骸を客席へ投げつける、ブロックや割れたビール瓶、大量の板ガラスを客に投げつける、ステージに持ち込んだ大量のドラム缶や金属スクラップをディスクグラインダーやチェンソーで切って火花を散らし、やはり客席に投げつける、鎖の付いた鉄球を振り回す、チェンソーを振りかざして逃げる客を追いかけ回す、挙げ句、振り回したチェンソーで自分の太ももを切って大怪我をする、などなど……。

演奏するのは即興のノイズだったので、それら地獄のようなパフォーマンスで発生する騒音や叫び声は、作品の一部だった。
ハナタラシのライブは、「当該コンサートの開演中にいかなる事故が発生し危害が加わろうと主催者側に何ら責任がないことを誓約いたします」という書面へのサインを、客に書かせていたことも有名。

1985年8月4日の都立家政スーパーロフトでのライブでは、持ち込んだユンボや道路カッターなどの重機や工具で大暴れし、会場の壁を破壊したり水道管を破裂させたりした。
重機から漏れて気化したガソリンの匂いが会場内に充満していたため、危険を感じた会場スタッフは、山塚が準備していた火炎瓶を大急ぎで隠した。
山塚は激怒して探し回ったというが、その機転のおかげで、会場内にいた200人の命が救われたという話は語り草になっている。

イギリスのインダストリーミュージックバンド、サイキックTVが1986年に来日した際には、ハナタラシがフロントアクトの一つに選ばれていたが、山塚アイがダイナマイトを持って会場入りしたため、出演は取りやめとなった。

ハナタラシのファーストLP『HANATARASHI』(1985)

さて、いかがだっただろうか?

1980年代のこれらのバンドの行状が、常軌を逸したものであったことは間違いない。
結局それが何を生み出したのかと問われれば言葉に詰まるが、ディストピアを地でいくようなパフォーマンスがアンダーグラウンドで繰り広げられていた、刺激的な時代が確かにあったこと、そしてそんなシーンを目の当たりにして地沸き肉踊らされていた人たちも確かにいたことをお伝えしておきたい。

ただ、それだけなのです。


文/佐藤誠二朗

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