1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. 芸能総合

市川猿之助、ついに逮捕。梨園の“はぐれもの”として歩んできた、澤瀉屋133年のトラブル史

集英社オンライン / 2023年6月27日 16時31分

一家心中未遂という衝撃的な事件からひと月半。6月27日、四代目市川猿之助がついに母親への自殺ほう助容疑で逮捕された。歴代の猿之助や段四郎の歩んできたいばらの道を振り返る。

市川宗家からいったんは破門された初代猿之助

四代目市川猿之助を取り巻く巷のさまざまな記事には、澤瀉屋(おもだかや=歌舞伎における市川猿之助の家の屋号)の梨園(=歌舞伎界)における立ち位置への見当違いな理解に基づいた記事が多い。

これじゃあ渦中の四代目猿之助も「オレの家ってこんなにも理解されていないのか」と思うに違いない。

まずは歌舞伎の歴史に詳しくない人のための基礎知識からお届けする。
江戸時代には江戸歌舞伎と上方歌舞伎のふたつの流れがあり、江戸は派手で勇壮な“荒事”、上方は男女の情愛や心中などを描いた“和事”が発達した。



荒事のスタイルを完成させたのが市川團十郎家(市川宗家=成田屋)で、戦後に上方歌舞伎が衰退し、関西の歌舞伎俳優たちが一座を組むことがなくなったこともあり、市川宗家こそが梨園全体における総本山的立場になった。

九代目市川團十郎
Photo by MeijiShowa/AFLO

歴代市川團十郎の中でも、明治期に活躍して歌舞伎を今日のポジションに押し上げたのが“劇聖”とまで謳われた九代目市川團十郎。澤瀉屋の始祖である初代市川猿之助は、その九代目團十郎の弟子のひとりだ。

その初代猿之助がまだ坂東羽太作を名乗っていた明治のはじめ頃、小劇場にて無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことで師匠の逆鱗に触れ、破門されたのが澤瀉屋の苦難の歴史の始まりだった。その後、1890年になってようやく破門を解かれ、初代市川猿之助を名乗ることを許され、九代目團十郎の高弟として活躍した。

ちなみに『勧進帳』は初代團十郎が原型を作り、九代目團十郎が完成させた文字通りの成田屋のお家芸。無断で演じたらそりゃ怒られるだろう。

猿之助と段四郎、ふたつの名跡を同格に扱う澤瀉屋

梨園では、最後に名乗る名が“止め名”として重視される。初代猿之助は脂の乗り切った壮年期20年間を猿之助として過ごしたものの、“止め名”は晩年に名乗った二代目段四郎だった。

そのため、長男には二代目猿之助を継がせ、長孫(二代目猿之助の長男)に三代目段四郎を継がせた。そして三代目段四郎は長男を三代目猿之助、次男を四代目段四郎としている。

宙づりを駆使した「スーパー歌舞伎」を始めたのが、この三代目猿之助で、今回の一家心中未遂で亡くなったのが弟の四代目段四郎だ。簡単に言えば澤瀉屋では、猿之助と段四郎の名跡を同格のものとして扱い、一代ごとに交互に襲名させてきたわけだ。

二代目猿之助は亡くなる直前、隠居名として初代市川猿翁を名乗ったものの、半世紀にわたって猿之助として活躍。松竹初のカラー版オールスター忠臣蔵映画として製作された『大忠臣蔵』(1957)では主役の大石内蔵助を演じ、日本俳優協会の初代会長を務めるなど、團十郎の後継者がいなかった時代の歌舞伎界の要の位置にいた。

筆者私物

その長男である三代目段四郎は、歌舞伎の舞台よりも、東宝で映画俳優として活躍した人。戦後間もない頃、三船敏郎がスターになる前の東宝で時代劇に立て続けに主演した(『戦国無頼』、『四十八人目の男』、『喧嘩安兵衛』いずれも1952年製作)。その後、松竹映画でも時代劇の存在感ある脇役として活躍したが、本業の歌舞伎では傍流だった。

1963年5月に長男に猿之助を継がせ、6月に父・二代目猿之助が亡くなると、自身も11月に55歳で若死にした。

再び市川宗家の逆鱗に触れた孫の不始末

一方の市川宗家では、九代目團十郎が1903年に亡くなった後、60年間後継者が不在だったが、1962年になり、高麗屋から市川宗家に養子として入った九代目市川海老蔵が、十一代目市川團十郎を継いだ(十代目でなく十一代目だったのは養父市川三升に死後十代目を追贈したことによる)。ちなみにこの十一代目は現在の十三代目團十郎の祖父にあたる。

十一代目團十郎は些細なことで癇癪を起こす人物で、周囲との軋轢が絶えなかったことで知られている。二代目猿之助が元気だった頃、長孫は市川團子を名乗っていたが、成人したのにいつまでも團子という幼名のままでいる自身の境遇を踏まえ、人気映画『雪之丞変化』から採って「新たに市川雪之丞とでも名乗ろうか」とメディアに対して軽口を言った。

これが十一代目の逆鱗に触れた。祖父の二代目猿之助は市川宗家に飛んで行って詫びを入れ、すぐに自身は隠居して初代猿翁となり、猿之助の名跡を團子に継がせる襲名披露興行を行った。しかし十一代目は、師匠筋として本来出るべき「口上」出演を拒否した。

その直後に祖父と父が相次いで亡くなり、後ろ楯を失った三代目猿之助は、ある意味、梨園のつまはじき者として居場所がなくなり、「スーパー歌舞伎」という全く別物の見世物興行で生きていくしかなくなったわけだ。

五代目市川團子に待ち受けるいばらの道

(左から)九代目中車、五代目團子、二代目猿翁、四代目猿之助、四代目段四郎
(共同通信)

三代目猿之助のスーパー歌舞伎は、梨園では猿之助の家の本名が喜熨斗(きのし)家であることから、有名な木下サーカスに引っ掛けて「喜熨斗サーカス」と揶揄された。ところが、やがて観客からは大いに人気を博すようになり、“交互に襲名”の原則通り、弟である四代目段四郎の長男市川亀治郎に四代目猿之助を継がせる襲名が2012年に行われることとなった。

このとき、三代目猿之助の長男・香川照之が九代目市川中車、その長男が五代目市川團子を同時襲名した。これは梨園ではぐれ者の家系である澤瀉屋において、五代目團子にやがて五代目猿之助を継がせるための、ウルトラCだった。

しかしその頃、ある重鎮の幹部俳優と歌舞伎座の楽屋で話していたら、普段は温厚なその幹部俳優は、香川の市川中車襲名に対して露骨な嫌悪感を隠さなかった。三代目猿之助の長男とはいえ、幼少時から踊りや演技の稽古を重ねてきた訳ではない、一介の俳優に歌舞伎の名跡を与えることに対する、強烈な拒絶反応が梨園には底流としてあるのだ。

今回の心中未遂事件では、渦中の猿之助の代役を務めた五代目團子の奮闘ぶりに注目が集まったが、彼の五代目猿之助襲名への途が、未だいばらの道であることは間違いない。

文/谷川建司

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください